テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
志進が戦地から奇跡の帰還を果たしてから、一ヶ月の月日が流れた。
生死の境を彷徨った怪我の療養を終えた彼は、長年身を置いていた海軍を潔く退役した。
今は、九条家の広大な敷地の一角にある、静かな離れで私との穏やかな新婚生活を送っている。
親たちが整えた形式上の「婚姻の儀」は滞りなく済ませたけれど
彼と過ごす時間は、まるで今この瞬間に始まったばかりの初恋のように初々しい。
それでいて、以前の彼からは想像もつかないほど、ひどく熱く、濃密な色を帯びていた。
「……桜子。またそんなところで、根を詰めて一人で刺繍かい?」
縁側で春の名残を惜しみながら針を動かしていた私の背後から、聞き慣れた
けれど以前よりもずっと低く、独占欲を孕んだ声が降ってきた。
振り返る暇もなかった。
男らしい大きな掌が、迷いなく私の細い腰を引き寄せ、すとんと彼の逞しい膝の上に座らされる。
「し、志進……まだお昼間ですわ。どなたが見ているか分かりませんのに……っ」
「いいじゃないか。この離れには、僕と君の二人きりだ」
「それは、そうですけど…」
「それに、君が少し困った顔をして僕の名前を呼んでくれるのが、たまらなく愛おしくてね。つい意地悪をしたくなるんだよ」
志進は私の肩に薄い顎を乗せ、耳元でくすくすと悪戯っぽく笑う。
かつての、一分の隙もなかった「完璧な優男」の仮面は、一体どこへ消えてしまったのだろう。
今の彼は、驚くほど私に対して甘く
そして時折、獲物を逃がさない獣のような執着を隠そうともしない。
「……見てください。志進さんの以前の軍服に似せて、誇り高い龍の刺繍を彫ってみたのです。貴方の背中を、ずっとお守りできるようにと」
「ふふ、僕のために、これほど精緻なものを?」
彼は私の手から、思い出の詰まった刺繍枠をひょいと取り上げると
それを庭の飛び石の上に無造作に置いた。
代わりに、空いた私の両手を、強引に自分の首へと回させる。
「今は刺繍よりも、僕だけを見てほしいな……あの地獄のような戦地で泥にまみれ、死線を潜り抜けている間、僕はただこの瞬間、君の体温に触れることだけを夢見て生き延びてきたんだ」
「少しくらい、夫としての贅沢を言っても罰は当たらないだろう?」
至近距離で見つめられる、深い琥珀色の瞳。
かつて「義務」という冷たい殻に閉じ込め、必死に遠ざけていた烈しい熱が
今は一点の曇りもなく私だけに注がれている。
彼は私の指先を一本ずつ、壊れ物を慈しむように、けれど熱烈に口づけていく。
「……志進さん。貴方は、本当はこんなに……その、情熱的で、強引な方だったのですね。女学校の頃の私が知ったら、腰を抜かしてしまいますわ」
「言っただろう? 狂いそうだった、と。……あんなに物分かりの良い、無害な『幼馴染』を演じ続けるのが、どれほど喉を焼くような苦痛だったか」
「君が他の男に無邪気に微笑むたび、心の中で何度あいつらを斬り捨て、君を連れ去ろうとしたか分からないよ」
冗談めかした口調ではあるけれど、その瞳の奥に宿る光は真剣そのものだ。
彼は私の耳たぶを、愛おしさを噛み締めるように甘噛みし
そのまま白いうなじから首筋へと、熱い唇を滑らせていく。
「……っ、志進、さん……そんな……」
「桜子。君はもう、どこへも行けない。僕という一生解けない『義務』に、死ぬまで縛り付けられてもらうよ。……嫌かい?」
意地悪く目を細め、承知の上で問いかけてくる彼。
私は顔を真っ赤に染めながらも、逃げることなく、彼の首に回した手にギュッと力を込めた。
「……嫌なはず、ありません!…私も、貴方という逃げ場のない毒にあてられて、もう一生、ここから動けそうにないんですから」
私の降伏宣言を聞き、志進は満足そうに喉を鳴らした。
春の名残、風に舞う最後の桜の花びらが
重なり合い、溶け合っていく二人の影に祝福のように降り注ぐ。
かつての、お互いを傷つけ合った「解けない約束」は今
甘美な「愛の契り」へと永遠に書き換えられた。
私たちは、これから訪れるすべての季節を
この温かな腕の中で、一つずつ数えながら生きていくのだ。
#王子
#シリアス