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かんな
あかね ♛❤️♛
辿り着いたのは、妖しく光る看板が掲げられたバー『BLACK CAT』。
ネオンが滲むように瞬き、夜の街に溶け込むその外観は、どこか現実感が薄い。
重厚な扉を開けた瞬間、甘く重たい香料の匂いと、低く地を這うようなジャズの旋律が耳に絡みついた。
昼間の病院の、あの消毒液の匂いが漂う無機質な空間とはまるで別世界だ。あまりの熱量の違いに、一瞬だけ眩暈に似た感覚を覚える。足元がふらつきそうになり、思わず息を浅く吸い込んだ。
ナオミはカウンターの中で、夜の蝶として完璧な微笑みを客に向けていた。
今朝見た男性がナオミと同一人物だとは到底思えない。
あの時、無愛想に背中を向けていた影と、目の前で艶やかに揺れるこの人物が、同じ体温を持っているなんて。脳が情報の処理を拒否するように、じりじりと熱を持つ。
グラスを傾ける仕草一つ、視線の流し方一つにまで無駄がない。指先まで計算されたその所作に、思わず見惚れてしまう。
ふいに、ナオミと目が合った。
穂乃果の姿を認めた瞬間、その瞳の奥にだけ、一瞬、確かな信頼の色が灯る。
ほんのわずかに、口元の弧が柔らいだ気がした。
「来たのね。お疲れ様……その様子じゃ、上手くいったみたいね?」
柔らかな声。けれど、すべてを見透かすような響きが鼓膜を震わせる。逃げ場のない優しさ。
「はい。今日はなんだか、いつもよりスムーズに仕事が出来たんです。患者さんやみんなにも似合ってるって褒めてもらって……あと、あの二人にも……」
言葉の最後が、ほんの少しだけ曖昧になる。
完全に決別の言葉を叩きつけられたわけではない。言ってやりたいことは多々あった。けれど結局、言えなかった。あのときの自分の情けなさが、今さらじわりと胸を刺す。
けれど――それでも、自分なりに立っていられた。
そう思って顔を上げると、ナオミは満足そうに目を細めた。
「上出来よ。今はそれでいいわ」
短く、けれど確かな肯定。その一言で、張り詰めていた胸の奥に、じんわりと温かいものが広がっていくのを感じた。
ナオミに褒められると、不思議と大丈夫な気がしてくるから不思議だ。
「……ありがとうございます」
思わず零れた声は、自分でも驚くほどに力が抜けていた。
ナオミはくすりと小さく笑うと、手元のグラスをリズミカルに磨きながら、視線だけをこちらに寄越す。
「それで? 気分はどう?」
その問いに、穂乃果は一度言葉を詰まらせた。
晴れやか、と言うにはまだ胸の奥に重たい澱が沈んでいる。けれど、昨日までのように、暗い泥沼の中で足を取られているような絶望感はなかった。胸の奥に、かすかな隙間が出来ている。
「……怖かったです。でも、少しだけ、呼吸が楽になった気がします」
正直な気持ちを吐き出すと、ナオミは満足そうに頷き、カウンターの下から一本の鍵と、適当に包まれた袋を突き出した。その仕草は雑に見えるのに、差し出されるタイミングがあまりにも自然で、断る隙を与えない。
「及第点ってとこかしら。……まぁいいわ。先に行って、ゆっくり休んでいなさい。それとこれ、持っていきなさい。どうせ夕飯食べてないんでしょ?」
袋の中身は、まだ温かい野菜炒めのおかずだった。ほんのりと湯気が立ち上り、香ばしい匂いが鼻先をくすぐる。
「こんなの、貰えません! ただでさえお世話になってるのに……せめて、お金を払わせてください」
思わず一歩下がる。受け取ってしまったら、本当に甘えてしまいそうで怖かった。
「ふんっ。無一文の小娘が、何言ってんのよ」
吐き捨てられた言葉の鋭さに、穂乃果は「……っ」と息を呑んだ。
ナオミはカウンターに身を乗り出すと、磨きかけのグラスを置き、細められた瞳で穂乃果を上から下まで値踏みするように眺める。その視線は、服の隙間から入り込んで、隠し持った惨めさを一つ残らず暴き立てるかのようだった。
「しばらく居なさいって言ってるんだから遠慮しないの。あぁでも……嫌なら別にいいのよ? 今すぐ出ていって、その辺でホームレスにでもなれば?」
わざとらしく肩をすくめる。
「夜の街は優しいから、貴女みたいな『無知な獲物』なら、いくらでも歓迎してくれるわよ?」
ふっと、唇の端が吊り上がる。
その言葉は脅しのはずなのに――
なぜか、突き放されたようには聞こえなかった。
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