テラーノベル
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朝のやわらかな光が、キッチンに差し込んでいた。
静かな空間に、包丁の音が響く。
トントン、と小さく刻む音。
一定のリズム。けれどどこかぎこちない。
世間でいうところの、休日である今日。
リビングに入ってきた幸人は、その音に気づきわずかに足を止めた。
その先にあったのは、キッチンに立つ詩乃の背中だった。
慣れているとは言い切れない手つきで、食材を切っている。
具材の大きさは少しばらついている。
それでも、手は止まらない。
――以前の彼女は、台所に立たなかった。
その事実が、静かに幸人の胸に引っかかる。
「……珍しいですね」
静かに幸人が声をかける。
詩乃が手を止めて、振り向いた。
「?」
「朝から台所に立つなんて」
淡々とした言い方。
詩乃はほんの少しだけ視線を落とす。
「……朝ごはん、作ろうと思って」
それだけを伝える。
詩乃の心の中では、ほんのわずかに不安がよぎった。
(……完璧に、できてるわけじゃないけど)
楠木家にも、一恵のような家政婦がいた。
家事はすべて、誰かが担っていた。
だから、母も果穂も、自分で台所に立つことはほとんどない。
詩乃もまた“母の味”というものを知らない。
それでも――最低限の料理くらいはできるようになりたい。
そう思い、自分なりに覚えてきた。
誰に教わるでもなく。
だから、その腕前は人並みだ。
それでも、やめるつもりはなかった。
幸人は何も言わない。
料理を再開した詩乃の姿を、ただ見ている。
胸の奥に引っかかった小さな棘は、抜けないままそこに残り続けた。
朝食が出来上がる頃。
キッチンからは皿の触れ合う小さな音と、温かな匂いが漂っていた。
その頃になって、乃亜が起きてくる。
ダイニングに足を踏み入れた瞬間。
そこにいる人物に気づき、ぴたりと足を止めた。
幸人が、席に座っている。
小さな身体が少しだけ体がこわばる。
仕事の日の幸人は朝早く家を出ているため、“朝、家にいる父親”という光景そのものが、乃亜にとっては馴染みのないものだった。
「……おはよう」
どこか事務的に聞こえる響き。
だが、それが幸人のいつもの声だった。
乃亜は、返事をしない。
ただ、その場で固まっている。
「……座らないのか」
淡々とした一言。
その声に押されるように、乃亜は動いた。
小さな手で椅子を掴み、よじ登るようにして子ども椅子に座る。
そこに詩乃が、人数分の朝食を運ぶ。
乃亜の前には、小さく切ったパンが乗せられた皿を置いた。
一恵が切るものと比べると、形は少し不揃い。
だが、口に入れやすい大きさに揃えようとしているのが分かる。
幸人の視線が、自分の前に置かれた皿に落ちる。
そのまま何も言わず、幸人は手を合わせた。
「いただきます」
つられるように、乃亜も自分の手を合わせる。
声は出ない。
ただ、少しだけぺこりと頭を下げて。
詩乃はその姿を優しく見つめ、自らも手を合わせた。
「いただきます」
乃亜がゆっくりと手を伸ばし、パンを口元に運ぶ。
その手元を、幸人は横目で見つめる。
――以前は、コンビニの菓子パンだった。
海外勤務から帰ってきたあの日。
荒れていた部屋と、床に転がっていた菓子パンの袋。
その光景が、脳裏に浮かび上がる。
何も言わず、幸人は目を伏せた。
その時、乃亜の肘がコップに当たり、床に落ちた。
中に入っていた牛乳が飛び散って、一面を白く染める。
乃亜は床に落ちたコップを見つめ、固まっている。
——ガタンッ
詩乃が立ち上がる音が響いた。
乃亜の肩がぴくりと動く。
詩乃はそのまま、ふきんを持って乃亜に駆け寄った。
「こぼれちゃったね」
詩乃の声かけに、乃亜の眉毛が僅かに下がった。
それは反省しているようにも、ほっとしているようにも見えた。
溢れた牛乳は、乃亜のズボンも濡らしていた。
ポンポンと優しく拭き取り、それから床も同様にする。
「ズボン、お着替えしようか」
詩乃の声に、責める色は一切ない。
その動きは自然で、迷いがなかった。
幸人の脳裏に、別の光景が重なる。
料亭で、初めて会った日のこと。
走っていた子どもが転び、泣き出した。
その瞬間、迷いなく駆け寄り、抱き起こした姿。
優しく声をかけていた、あのときの目。
——あれは、楠木詩乃。
今、目の前にいる女性の姉。
別人であることは疑いようもない事実だ。
それなのに、今、乃亜に向けられる視線は——
(……同じだ)
コメント
1件
はる。です🙌 朝の静かなキッチンで詩乃が料理する姿、乃亜が牛乳こぼしたときの優しい対応——どれも染みたわ。特に「前は菓子パンだった」っていう幸人の記憶と、乃亜が固まる反応が重なって、家族の空気がじわじわ変わってる感じがして胸が熱くなった。詩乃の不器用さも優しさも、ちゃんと形になってきてるんだなって思えたよ。
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#王子
すっこ
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碧星_Aoi
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