テラーノベル
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その夜。
家はすっかり寝静まり、物音ひとつしない。
窓の外には、淡い街灯の光。
幸人は静かに廊下を歩いていた。
思い出すのは、朝の光景。
詩乃の手つきと、あの目。
(……どうして)
胸の奥で、言葉が浮かぶ。
(同じ顔をする)
理屈では理解できない感情。
だが、否定もしきれない。
静かな違和感だけが、沈殿するようだった。
乃亜が眠る寝室の前に差し掛かった時だった。
扉の奥から、小さな音がした。
幸人の視線が動く。
「……?」
その手が迷いなく寝室の扉を開ける。
薄暗い室内。
布団の中で、乃亜が苦しそうに身を縮めていた。
呼吸は浅く、頬は熱に浮かされて赤い。
幸人の表情が変わる。
「……乃亜?」
急いでベッドへ歩み寄り、その額に手を当てた。
熱い。
触れた瞬間に分かるほどの高熱だった。
幸人は眉を寄せる。
「病院へ――」
そう言いかけながら、抱き上げようと手を伸ばした。
だが。
乃亜の体が、びくりと強張る。
小さく首を振った。
拒むように。
いや――違う。
乃亜の視線は幸人を見ていなかった。
熱に潤んだ瞳が、落ち着かない様子で部屋の中を彷徨う。
まるで誰かを探しているかのように。
その時だった。
「どうしました――」
背後から声がする。
振り返ると、寝室に入ってきた詩乃が足を止めていた。
乃亜の様子を見た瞬間、その顔色が変わる。
すぐにベッドへ駆け寄り、額に触れた。
「……熱がありますね」
迷いのない声。
その瞬間だった。
乃亜の小さな手が、詩乃の服をぎゅっと掴む。
離すまいとするように。
詩乃は驚いたように目を見開いたが、すぐに優しく抱き上げた。
「大丈夫」
そっと背を撫でる。
乃亜の強張っていた体から、ふっと力が抜けた。
熱に苦しみながらも、安心したように詩乃の胸元へ顔を埋める。
その様子を、幸人は黙って見つめていた。
胸の奥に、何かが静かに沈んでいく。
――俺じゃない。
乃亜が求めたのは、自分ではなかった。
その事実は不思議なほど重く、静かに胸へ落ちていく。
乃亜が小さく呻いた。
詩乃は抱きしめたまま、その背をゆっくりと撫でる。
「大丈夫」
熱に浮かされた小さな体が、かすかに震えている。
「ここにいるよ」
何度も言い聞かせるように。
安心させるように。
乃亜の口元が微かに動く。
何かを言おうとしている。
けれど、言葉にはならない。
掠れた吐息だけが漏れた。
その姿に、詩乃の胸が締め付けられる。
「……大丈夫」
もう一度抱きしめる。
細い背中を包み込むように腕へ力を込めた。
幸人はその間に、リビングから体温計を持ってきていた。
それを受け取った詩乃が、体温計を乃亜の脇に挟む。
数秒後。
電子音が静寂を破った。
ピッ。
表示された数字を見て、詩乃の表情が強張る。
――39.1℃。
思わず息を呑む。
その横で、幸人が即座に口を開いた。
「……車を出します」
落ち着いた声だった。
だが、その判断に迷いはない。
「病院へ行きましょう」
詩乃は小さく頷く。
乃亜はなおも詩乃の服を握ったままだった。
熱で赤くなった指先。
その力は弱いのに、決して離そうとはしない。
詩乃はその手を包み込む。
「一緒に行こうね」
優しく声をかけると、乃亜の瞼がわずかに揺れた。
***
夜の街を、車が走る。
窓の外を流れていく街灯の光。
後部座席では、乃亜が詩乃の腕の中に収まっていた。
小さな手は、服を掴んだまま離れない。
熱に浮かされながらも、そこだけは確かめるように。
詩乃もまた、その手をそっと包んでいた。
幸人はバックミラー越しに二人を見る。
視線が、そこで止まる。
乃亜の表情は苦しそうだった。
それでも、詩乃に抱かれている時だけは、どこか安堵しているように見える。
胸の奥に、言葉にならない感情が落ちた。
(この子は……)
考えようとして、やめる。
認めたくないわけではない。
ただ、まだ言葉にすることができなかった。
バックミラーの向こう。
乃亜は無意識のように詩乃へ身を寄せている。
(この人を――)
その先は、最後まで言葉にならなかった。
車は静かに夜の街を抜け、病院へと向かっていた。
コメント
1件
いやあ、夜中の発熱、こわいですよね。乃亜が苦しそうなのに詩乃さんにだけぴったり寄り添う姿、胸がぎゅっとなりました。幸人さんの「俺じゃない」っていう静かな気づきの描き方がすごく印象的で、言葉にできない感情の重みがじんわり伝わってきました。詩乃さんの「大丈夫」を繰り返す優しさに、私までほっとしました。続きが気になります。
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#王子
すっこ
364
碧星_Aoi
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