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「新しく里親として登録されますか?それではこちらの書類にまずお名前と住所、電話番号の他に家族構成などをご記入していただけますか?」
「あの、里親として登録されるまでどれくらい時間がかかるんでしょうか?」
「そうですね……。一度うちのスタッフがご自宅に訪ねてお庭の状態など確認したり、犬が夜どこに寝るのか、また日中はどこで過ごすかなど色々と確認をさせていただきます。それが終われば正式に登録されます」
私は新しく里親になろうとしている家族へ、登録用の書類を渡しながら説明をした。
今日は朝早くから、近辺の犬の保護団体が集まった譲渡会と交流のイベントに来ている。年に数回行われるイベントで、大勢の人が集まることから新しく里親に登録してもらったり団体への寄付を募る大切なイベントになっている。
「やだぁ、もうすごく可愛い〜!」
「一緒に写真を撮ってもいいですか?」
女性の楽しそうな声が聞こえ、ふと顔を上げると少し離れた場所に大勢の女性が群がっている。よく見るとその真ん中には子犬を抱いている社長がいた。
「さすがイケメン。いい宣伝になるねぇ。毎回来てもらおうかな」
私の隣で社長を眺めていた竹中さんがぼそりと呟いた。
「良かったね。彼とうまくいって」
左隣にいた美穂さんはそう言って私に笑顔を向けた。
昨晩社長と初めて体を重ねて一つになった後、彼に抱かれたまま眠りに落ち幸せな気持ちで朝を迎えた。
今までも社長との距離は近く感じていたのに、身体を重ねて自分の恥ずかしい姿やありのままの姿を見られてしまったからなのか、彼との距離が半端なく近く感じる。自分以外の人間で家族よりも誰よりも自分の近くに社長がいる事に少し不思議な感じがする。
今朝目覚めてから社長はひたすら私に甘くて、家を出てからもずっと私の手を握ったまま。運転する時も片時も離さず、このイベントのある公園に二人で手を恋人繋ぎにして現れた時は、ボランティアのスタッフからニコニコと生温かい目で見られてしまった。
「うん……色々と心配かけちゃってごめんね。その、婚約者って言うのは私の勘違いで……。あれから色々あって……結局付き合うことにしたの」
昨晩彼に何度も名前を囁かれながら抱かれた事を思い出して、真っ赤になりながら説明した。
「そっかー。でも良かった。実は彼を見てて婚約者がいるってちょっと信じられなかったのよね。だって竹中さんとも話してたんだけど、桐生さんっていっつも蒼ちゃんの事目で追いかけてるの。きっと片時も目が離せないのね。それにね、彼、蒼ちゃんと話してる時すごく優しい顔をしてるの。羨ましいねーって皆で話してたんだよ」
──えっ、そうなの……?
何だか照れてしまい、顔を赤くしたまま俯いた。
「じゃあ、水樹さんには断っとくね。実は彼、蒼ちゃんの事すっかり気に入っちゃって……。また蒼ちゃんを含めた合コンしようって何度か誘われたんだけど──…」
「なるほど。俺の事をベラベラ喋ってたのは水樹の奴か」
突然背後から低い声がして慌てて振り向くと、そこにはいつの間にか社長が腕組みをして立っていた。
「やっぱりこの間合コンしたってのはKS IT Solutionsの奴らだったんだな。……水樹の奴左遷してやる……」
社長はぶつぶつと何だか恐ろしい事を呟いている。そんな彼を見て美穂さんが尋ねた。
「桐生さん、水樹さんの事知ってるの?」
「ああ、知ってるよ。あいつとは同時期に入社したんだ。ただ俺があいつの上司だった事とあいつが狙ってた女が俺の事を好きになって、いつも俺に対抗心を燃やしてたんだよ。……あのなぁ、言っとくがあいつ妻子持ちだぞ」
「はぁ!?」
私と美穂さんは思わず声同時に声をあげた。
「えっ…、ちょっと待って。まさか遠野さんも妻子持ちとかじゃないよね?」
美穂さんは少し青ざめながら社長を見た。確か美穂さんはあの合コンで彼といい雰囲気になっていたような気がする……。
「遠野?……もしかして人懐こそうな奴で、目の下にホクロがある俳優の〇〇似の奴か?」
「そ、そう!その人!」
「……確か俺がまだあの会社にいた時は、あいつ社内に彼女いたな。今はよくわからないが……」
「……まじか……。でも今は彼女いないよね……いないよね?」
美穂さんはぶつぶつと呟きながら、私の隣で頭を抱え込んだ。そんな彼女を見て社長は徐に口を開いた。
「俺がいい奴紹介してやろうか?」
「えっ、うそ、本当に?」
「いいよ。その代わり蒼を二度と合コンに誘わないと言う条件で」
「もちろんです〜」
美穂さんは両手を合わせて、社長をまるで救世主か何かのように拝んだ。
「桐生さんの知り合いってどんな人?」
「すごくいい奴だよ。N銀行の副頭取の三男で、家族揃って大の犬好きなんだ。確か大きな犬を二匹飼ってたと思う。きっと気が合うと思うよ」
社長は比較的大きな地方銀行の名前を出した。それを聞いた美穂さんはいきなり私を抱きしめた。
「蒼ちゃん、ありがとう」
「え……俺じゃなくて……?」
「あら、ちょっと美穂、何やってるの?」
佳奈さんが私を抱きしめている美穂さんを不思議そうに見た。
「今私に幸運をもたらしてくれた蒼ちゃんに感謝してたところ」
「……あらそう。悪いけど今青葉さんがいらっしゃってるの。多分あの子犬を引き取りにきたんだと思う」
「あ、わかりました」
私と美穂さんは子犬のフォスターさんと話をしている青葉さんの所へ急いだ。
「お母さん、この子今日連れて帰れる?」
可愛いーと言いながら、子犬を抱く青葉さんの11歳の娘、朱莉ちゃんを見た。その朱莉ちゃんの腕にいる子犬は、先程まで社長が抱いていたチワワの雑種で白い垂れ耳の生後四ヶ月の可愛い犬だ。
「まだ子犬だから結構強く噛む事もあるから気をつけてね」
私は朱莉ちゃんに一声かけると、誓約書の内容を両親に説明した。
「里親として登録された時に説明を受けたと思いますが、二週間はお試し期間となります。もしどうしても引き取った犬と相性が合わなかった場合は保健所には連れて行かないで当団体に返却してください。今日お支払いいただいた金額の一部が戻ります。それからお引き取りいただいた一ヶ月以内に当団体が推奨している所で、必ず二週間のドッグトレーニングを受けてください。このトレーニング費用は今日お支払いいただいた費用に含まれています」
「わかりました」
青葉さんは誓約書に目を通すとサインをした。それと同時に美穂さんが、新しい里親の為に用意した犬用のおもちゃやドッグフード、ワクチンの接種状況など記載されたカルテなど諸々入った「Paw Rescuers」のロゴ入りバッグを手渡した。
「おめでとう〜!これでこの子は青葉さんの新しい家族ですよ」
私は朱莉ちゃんが抱いている小さな命を見た。
犬の一生は短く大抵は8年から15年ほどだ。その短い一生の運命はこの飼い主との出会いにかかっている。ペットには人間のように努力して幸せになると言う選択肢がない。幸せになるのも不幸になるのもこの出会いで人生の全てが決まる。
私は隣にいる社長を見た。私にとっても彼との出会いは人生を大きく変えた。彼に出会った事で私の世界は広がり今まで知らなかった事を社長は教えてくれた。
「ちゃんと毎日餌やって散歩に連れて行くんだぞ」
「はい!絶対に約束します。ね、バニラ。一緒にお家に帰ろう。今日から私の部屋で一緒に寝ようね」
朱莉ちゃんはバニラと新しく名付けた子犬を抱きしめるととても嬉しそうにその頭を撫でた。バニラも嬉しそうに朱莉ちゃんを見上げて尻尾を振っている。
私は最後にバニラの頭を撫でた。
── 幸せな人生をね。
すると社長もバニラに手を伸ばしその頭を撫でた。
「幸せになれよ」
私は社長を見上げて微笑んだ。すると彼も嬉しそうに微笑むと私の手に指を絡め握りしめた。
私は社長と手を繋いだまま、バニラが青葉さん一家と共に新しい人生へと旅立つのをいつまでも見つめ続けた。