その後のことを、ハリーはほとんど覚えていなかった。
覚えているのは断片だけだ。
誰かに腕を引かれたこと。
杖を取り上げられたこと。
冷たい部屋で何度も同じ質問をされたこと。
「侵入の目的は」「最初に攻撃したのは誰か」「なぜその場にいたのか」――そういう言葉が、まるで他人の会話みたいに遠くから聞こえていた。
裁判にかけられた、と後で聞いた。
事実としてはそうなのだろう。
魔法省の人間が集まり、証言が取られ、屋敷しもべ妖精たちも呼ばれ、書斎で使われた呪いの痕跡まで分析された。
その結果、ドラコの心臓を撃ち抜いた呪いはルシウスの杖から放たれたものだと判明した。
痕跡は明白だった。言い逃れはできない。たとえ狙いがハリーだったとしても、実際にドラコを死なせたのはルシウスの呪いだ。
だから、ハリーは自由になった。
自由。
その言葉がひどく空虚だった。
自由になって、何になるのだろう。
牢へ入れられなかったことに安堵するべきなのか。疑いが晴れたことに救われるべきなのか。そういう秤が、ハリーの中ではもう壊れていた。
ドラコがいない。
その一点だけで、他のすべてが意味を失っていた。
ロンは何度も何かを言った。
ハーマイオニーもそばにいた。
マクゴナガルは静かな顔で必要な手続きを進め、ウィーズリー家の誰かが温かい食事を運んできたこともあった。
みんな悲しんでいた。
それは分かる。
ホグワーツにも衝撃は広がった。ドラコ・マルフォイが死んだこと。その死の場にハリーがいたこと。そこへ至るまでに何があったのか。噂は当然のように城を走った。
だが、ハリーには全部どうでもよかった。
周囲の悲しみが軽いという意味ではない。
ただ、自分の苦しみがそれらと別の次元へ落ちてしまっていた。
ドラコの葬儀はひっそりと終わった。
マルフォイ家らしく、閉ざされた儀式だった。
ごく限られた者しか立ち会えない。ホグワーツの者たちも、よほど近い者を除けば呼ばれなかった。あるいは呼ばれても、歓迎されなかったのかもしれない。
ハリーは参列しなかった。
いや、させてもらえなかったのか、自分で行けなかったのか、その区別すら曖昧だった。
ただ一つはっきりしているのは、ドラコが土へ還ったという事実だけだ。
自分の知らない場所で。自分のいないところで。
最後の別れすら奪われた。
それでも世界は動いた。
朝は来る。
授業もある。
廊下には足音が響く。
食堂では食器が触れ合う。
誰かが笑い、誰かが本を落とし、誰かが宿題の愚痴をこぼす。
ハリーには、その全部が異様だった。
どうしてそんなふうに世界が続いていけるのか、本当に分からなかった。
⸻
夜になると、さらに悪かった。
昼のあいだは人の気配があるぶんだけ、どうにか現実のふりができる。
誰かが話しかける。何かを聞かれる。返事をしなければならない。そういう最低限の外側が、ハリーをなんとか立たせていた。
夜は違う。
静かになる。
思い出が戻ってくる。
思い出というより、断片だ。礼服の色。胸元の焼けた痕。最後の「これでいい」。自分の腕から引き剥がされる重さ。
何度眠っても、そこへ戻る。
そしてある晩、ハリーは気づいたら天文塔へ向かっていた。
ドラコが夜に呼び出して、本音を打ち明けた場所だ。
家の重圧も、劣等感も、安心を知らない人生も、心の中のどす黒いものも、全部あそこで聞いた。
階段を上る足音が、やけに大きく響く。
誰にも見つかりたくない。
けれど止まれない。
扉を開ける。
夜風がすぐに頬を打った。
冷たい。
あの日と同じように、空は高く、風は細く、石の床は夜の湿気を少しだけ含んでいる。
ハリーは塔の中央で立ち止まった。
ここだった。
ドラコが立っていた場所。
月明かりに照らされて、やつれた顔で、それでも逃げずに自分の闇を差し出した場所。
そして、ハリーが泣きながら抱きしめた場所。
思い出が、一気に戻ってくる。
「僕は、生まれてからこのかた、一度も心から安心したことがない」
そう打ち明けた声。
低く、乾いていて、でも最後のところでほんの少しだけ震えていた声。
「今だけは、離れるな」
ハリーは息を止めた。
塔の冷たい空気が肺に刺さる。
目の前には誰もいない。
当然だ。
なのに、耳だけが勝手にドラコの声を探している。
「……ドラコ」
名前を呼んでみる。
返事はない。
その当たり前の事実が、突然、今までの何倍もの重さで落ちてきた。
返事がない。
もう二度と、ない。
ハリーの膝が少しだけ揺れた。
今までは、どこかでまだ理解を先延ばしにしていたのかもしれない。裁判も、葬儀も、周囲の悲しみも、あまりに現実味がなくて、頭のどこかが「まだ本当じゃない」と思い込もうとしていた。
でも今、この場所に立つと、逃げ道がない。
ここでドラコは生きていた。
苦しんでいた。
震えていた。
自分の腕の中で、少しだけ安心していた。
その同じ場所に今、自分一人だけが立っている。
そして、ドラコはもういない。
その事実が、一気に押し寄せた。
ハリーは胸を押さえた。
痛い。
本当に、肉体のどこかが壊れたかと思うほど痛い。呼吸がうまく入らない。吐き気がする。足元が不安定だ。
「っ……」
声が漏れる。
苦しい。
あまりにも。
このまま生きていくのかと思うと、何もかもが耐え難かった。
ドラコのいない朝。
ドラコのいない廊下。
ドラコのいない冬。
ドラコのいない将来。
それを想像した瞬間、世界の輪郭が崩れた。
ハリーはふらつく足で塔の縁へ近づいた。
下は暗い。
地面までは距離がある。夜の風がローブを揺らし、石の縁は冷たかった。
ひどく静かだった。
ここから落ちれば、終わる。
痛みも、後悔も、ドラコのいない未来も。
全部。
その考えは、最初は恐ろしかった。
だが次の瞬間には、妙に穏やかな形で胸の奥へ沈んだ。
終われる。
ようやく。
ハリーは縁へ手をついた。
指先に力を入れる。身体を少し前へ傾ける。
その時だった。
「……くだらん真似はよせ」
背後から落ちた声は、冷たく、聞き慣れていて、最悪なほど現実だった。
ハリーが振り返る。
スネイプが立っていた。
黒いローブを翻し、塔の入口近くに立つその姿は、まるで最初からそこにいたみたいに静かだった。表情にはいつもの不愉快そうな硬さがある。だが、その目だけが、今夜は妙に暗い。
ハリーは数秒、何も言えなかった。
それから、ひどく掠れた声で言う。
「放っておいてください」
スネイプは動かない。
「断る」
その即答に、ハリーは笑いそうになった。
でも笑えなかった。喉が詰まっていた。
「どうして」
ハリーは低く言う。
「どうして、いつもこういう時だけ」
言葉が乱れる。
「嫌いなのに」
スネイプの表情は変わらない。
「お前の感情など知ったことか」
低い声。
「今ここで飛び降りられると、後始末が面倒だ」
それは、いかにもスネイプらしい言い方だった。
皮肉で、冷たくて、取りつく島もない。
なのに、今のハリーにはその不器用さがかえって痛かった。
ハリーは塔の縁から手を離した。
だがその代わり、そこで完全に力が抜けた。
膝が床へ落ちる。
自分でも驚くほど、あっけなく。
「……僕は」
何かを言おうとして、喉が塞がる。
スネイプは黙っている。
助けない。慰めない。ただ、逃げもしない。
その沈黙が、ハリーには耐えられなかった。
「僕は…あれは、愛だった」
言ってしまった瞬間、胸の奥で何かが裂けた。
スネイプの表情は動かなかった。
それでも、目の奥だけがほんの僅かに揺れた。
ハリーはもう止まれなかった。
「愛してた」
もう一度。今度はもっとはっきり。
「本当に」
涙が落ちる。
「好きとか、そういうのじゃなくて……もう、全部だった」
呼吸が乱れる。
「腹が立っても、嫌味を言われても、面倒でも、怖くても、それでもずっと」
声が崩れる。
「失いたくなかった」
スネイプは何も言わない。
だからハリーは、さらに洗いざらいぶちまけた。
遅れた日に嫌味を言われて本気で傷ついたこと。
中庭でわざとジニーと親しげにして見せつけたこと。
温室で泣いているドラコを見つけて、自分の幼さを恥じたこと。
天文塔で、ドラコが一度も安心を知らなかったと打ち明けた夜、自分がどうしても守りたいと思ったこと。
婚姻の儀で、令嬢と並ぶあのやつれた顔を見た瞬間、本当に世界が終わると思ったこと。
そして最後に、自分を庇って心臓を撃ち抜かれたあの瞬間、自分の中の何かが完全に壊れたこと。
「僕が悪かった」
ハリーは泣きながら言う。
「僕が行かなければよかったのかもしれない」
「僕がもっと早く助けられたら」
「僕が、あの日書斎に入らなければ」
「僕が、もっとまともなら」
言葉はまとまらなかった。
後悔が多すぎて、どこから手をつければいいのかも分からない。だからただ、出てくるものを全部吐いた。
「僕はあいつがほしかった」
ハリーは顔を覆う。
「生きていてほしかった」
喉が震える。
「僕のところに戻るって、あいつ、そう言ったんだ」
涙が指の隙間から落ちる。
「なのに、もう戻らない」
その最後の一言だけが、塔の夜気の中で妙にはっきり響いた。
スネイプは長いこと黙っていた。
風が吹く。
黒いローブの裾が揺れる。
ハリーは床へ膝をついたまま、呼吸も整えられずにいる。
やがて、スネイプがゆっくり近づいた。
その足音は静かだった。
説教を始める教師の足音ではない。もっと古い、疲れた足音だった。
ハリーの少し離れた場所で立ち止まり、低く言う。
「……お前には」
そこで一瞬だけ言葉が途切れる。
「同じ思いをしてほしくなかった」
ハリーは顔を上げた。
スネイプの表情は相変わらず硬い。
だが、その目にあるものだけは、見間違えようがなかった。
憐れみだった。
上からの同情ではない。
もっと静かで、もっと深い場所から来るもの。手遅れになった人間だけが、同じ手遅れの匂いを嗅いだ時に浮かべる目だった。
「だから、話した」
スネイプは低く続ける。
「だから、止めた」
視線が少しだけ遠くなる。
「一人で抱え込んで、何もかも遅すぎたあとで立ち尽くすのがどれほど無意味か」
そこで、ようやくハリーをまっすぐ見た。
「知っているからだ」
ハリーは言葉を失った。
スネイプは慰めなかった。
「お前のせいではない」とも言わない。
「時間が癒す」とも言わない。
ただ、その目だけが語っていた。
分かる、と。
その苦しさが。
その手遅れの重さが。
それが、ハリーにはどうしようもなく苦しかった。
ハリーはとうとう顔を伏せ、その場で声を殺して泣いた。
子どもみたいに。
でも、もう子どもではいられない人間の泣き方だった。
スネイプは手を伸ばさない。
肩を抱くこともしない。
ただ、すぐ近くに立ったまま動かなかった。
それで十分だった。
夜の天文塔は冷えた。
ドラコのいない場所で、ハリーは初めて、自分がこれからも生き延びてしまうのだという現実の入り口に立たされた。
そしてその傍らには、誰にも言わずに長いこと喪失を抱えてきた男が、静かに立っていた。






