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ドラコが死んだあと、ハリーはしばらく、苦しみには底があると思っていた。
あの夜を越えれば。
葬儀が終われば。
裁判が終われば。
時間が少し進めば。
せめて痛みの形くらいは変わるのだろうと、どこかで思っていた。
だが実際には、逆だった。
最初の数日は、ただ衝撃が強すぎて、何もかもが遠かった。
世界は薄い膜の向こうにあり、誰かが話しかけても意味が頭へ届くまでに時間がかかった。眠っても眠らなくても同じで、食事の味も分からず、朝なのか夜なのかも曖昧なまま、ただ一日が終わっていく。
本当の地獄は、そのあとから来た。
衝撃が少しずつ退いたぶんだけ、思い出がはっきりし始めたのだ。
しかも、ドラコが息絶える瞬間ではない。
そこがいちばん苦しいのだと思っていたのに、実際にハリーを切り刻んだのは、もっと別の記憶だった。
ドラコが笑った時の顔。
ほんの少しだけ意地悪そうに口元を歪める癖。
飲みかけの紅茶を当然のように自分に渡してきた指先。
ネクタイを直されたあと、一瞬だけまばたきを忘れた顔。
「今だけは、離れるな」と低く言った声。
ハリーの肩へ顔を埋め、やっと少しだけ力を抜いた重み。
そういう、幸せだった断片のほうが、ずっと鋭かった。
死の瞬間は、あまりに大きすぎて、どこか現実味がなかった。
だが幸せだった記憶は違う。細部まで鮮明で、温度まで残っていて、だからこそ今ここにないことを毎回はっきり突きつけてくる。
朝、目が覚めた瞬間に思い出す。
あの柔らかな金色の髪。
背中に回した腕の温もり。
塔の上の冷たい風。
半分眠った声で「どこにも行くな」と言った夜。
その一つひとつが、起き抜けの心臓へ針のように刺さる。
ベッドに横になる。
暗闇の中で、思い出だけがはっきりする。
ドラコの横顔。
礼服の襟元を少しだけ気にする仕草。
怒っているくせに、耳だけ赤かった朝。
温室で泣いていた時の、あまりに脆い顔。
天文塔で、張り詰めたまま「一度も心から安心したことがない」と告げた時の声。
ハリーはそのたび、身体を折るようにして息を吐いた。
苦しい。
本当に。
心が痛い、という言い方では足りない。胸骨の裏側を直接掻きむしられているような、物理的な痛みだった。呼吸をするたび肺の奥が軋み、喉の奥には常に何か硬いものが詰まっている。
なぜもっと早く動かなかったのか。
なぜあの日ジニーを使ったのか。
なぜもっと何度でも謝らなかったのか。
なぜ書斎へ入ったのか。
なぜドラコをあの家から連れ出せなかったのか。
後悔には終わりがなかった。
しかも、その後悔の中心にあるのが“愛していた”という事実なのが、さらにハリーを苦しめた。
ドラコを愛していた。
心の底から。
だからこそ、今この喪失はここまで深く入ってくる。
そうでなければ、もう少しましだったのかもしれない。もう少しだけ、ただの悲しみとして抱えられたかもしれない。
でも違う。
あの人は、ただ大切だったのではない。
ただ守りたかったのでもない。
ハリーの呼吸そのものに、いつの間にか組み込まれていた。朝も夜も、無意識にそこにいる前提で心が動くほど、深く。
だから失ったあと、世界の輪郭まで狂った。
マクゴナガルはさすがに見かねた。
「聖マンゴのカウンセラーを呼びます」
そう言われた時、ハリーは抵抗する気力すらなかった。
来たのは穏やかな中年の魔女だった。
低い声で話し、急かさず、沈黙にも慣れている人だった。ハリーが何も言えなくても、彼女は責めなかった。ただ、少しずつ言葉を待った。
だが何を話しても、変わらなかった。
「幸せだった記憶が苦しいんです」
ハリーは一度だけ、そう言った。
自分でも驚くほど弱い声だった。
魔女は静かに頷いた。
「それは、とても自然なことです」
自然。
その言葉に、ハリーは笑いそうになった。
自然。
こんなふうに朝も夜も、愛していた人の笑い方ひとつで呼吸が止まりそうになるのが。塔の風を思い出しただけで胸が裂けそうになるのが。二度と返事をしない名前を心の中で何百回も呼んでしまうのが。
自然であることと、耐えられることは別だった。
カウンセラーは何度か通った。
話を聞き、眠りの助けになる薬草茶を勧め、悲嘆の過程について説明した。だがハリーには、それらすべてが水の上の言葉にしか思えなかった。
痛みは減らない。
むしろ、説明されるたび、自分がこの先もずっと“悲しみと付き合っていく側の人間”なのだという事実だけが重くなる。
ある夜、ハリーはついに限界に達した。
その日も思い出していた。
誰もいない客間。
ドラコの声。
「必ず戻る」
その言葉を思い出した瞬間、ハリーの中で何かが完全に折れた。
愛されていた。
確かに。
それなのに、その人はもういない。
もう二度と、どれだけ手を伸ばしても届かない。
この先ずっと、その事実を抱えたまま生きるのかと思った途端、ハリーは本当に耐えられなくなった。
気づけば地下牢へ向かっていた。
スネイプの教室。
嫌いだった場所。冷たく、薬品の匂いがして、いつだって居心地が悪くて、昔は近づきたくもなかった場所。
なのに今は、そこしか行く先がなかった。
扉を開ける。
スネイプは一人だった。
夜遅くの教室で、薬瓶の整理をしていた手が、ハリーを見て止まる。
「……またお前か」
いつもの不機嫌な声。
だがハリーには、その棘すら遠かった。
「忘却術をかけてください」
その一言に、地下牢の空気が完全に止まった。
スネイプの目が細くなる。
「何だと」
「忘れたいんです」
ハリーの声は異様に落ち着いていた。落ち着いているというより、壊れすぎて平坦になっていた。
「全部」
一歩進む。
「ドラコのこと。あいつの声も、顔も、温室も、塔のことも、最後の言葉も」
喉が熱いのに、涙は出ない。
「幸せだったこと全部」
スネイプの顔から、わずかに何かが消えた。
それは軽蔑ではない。もっと古い嫌悪だった。
「逃げるのか」
低い声だった。
冷たいが、ただ冷たいだけではない。押し殺された何かが底にある。
ハリーは即答した。
「はい」
その返事が、かえってスネイプを苛立たせた。
「愚か者」
ぴしゃりと言う。
「マルフォイをいなかったことにするのか」
一歩近づく。
「お前に生きた証を語った男を、記憶ごと消し去るのか」
ハリーは首を振った。
「違う」
でも次の瞬間、自分でも何が違うのか分からなくなる。
「違わないのかもしれない」
声が震え始める。
「でももう無理なんです」
胸を押さえる。
「幸せだった記憶のほうが苦しい」
その言葉を吐き出した瞬間、喉が詰まる。
「死ぬ瞬間なんかより、笑ってた時のほうが痛い」
息が乱れる。
「好きだった時のことばかり思い出す」
もう一歩。
「こんなの、どうやって生きればいいんですか」
スネイプは厳しい顔のまま立っていた。
「生きるしかない」
「それができないから来たんだ!」
ハリーは叫んだ。
叫んだあとで、自分の声がひどく壊れていることに気づく。
「朝も夜もあいつがいる」
胸が上下する。
「何を見ても思い出す」
「紅茶でも、風でも、人混みでも、全部」
「このままだと」
そこで言葉が切れる。
「このままだと、僕……」
最後までは言えなかった。
言わなくても、スネイプには伝わったのだろう。天文塔で見た時と同じ匂いが、今のハリーからも立っていた。ほんの少し手を離せば、そのままどこまでも落ちていきそうな危うさ。
スネイプは唇を引き結んだ。
「だからと言って、忘却が答えだと?」
その声には、今度は怒りが混じっていた。
「お前は分かっているのか。記憶を薄めるということが何を奪うか」
視線が鋭くなる。
「苦しみだけが消えると本気で思っているのなら、救いようのない馬鹿だ」
ハリーはそれでも引かなかった。
「構わない」
「構う」
スネイプは低く言い切る。
「感情は切り分けられん。愛した記憶だけを削ぎ、悲嘆だけを残すことはできない。逆も同じだ」
その言葉は妙に具体的だった。
「薄れるのは、輪郭だ。熱だ。人間が人間であるための部分だ」
ハリーは目を閉じた。
「それでも、今よりはましだ」
その一言に、スネイプは沈黙した。
地下牢の蝋燭が小さく揺れる。
薬品の匂いが濃い。
ハリーは立っているだけでもう限界に近かった。何かにしがみついていないと、本当にここで崩れそうだった。
やがてスネイプは、ひどく疲れた顔で机へ向かった。
引き出しを開ける。
小さな黒い瓶を一つ取り出す。
その手つきは、嫌悪と諦めが半分ずつ混ざっていた。
「……これは忘却術ではない」
ハリーが顔を上げる。
スネイプは瓶を見下ろしたまま言う。
「忘れ薬だ。記憶を完全には消さない」
そこでようやくハリーを見る。
「代わりに、記憶へ繋がる感覚を鈍らせる」
一拍置いて、さらに低く続ける。
「無気力になる。無感動になる。自分の中身が抜け落ちる」
唇の端がかすかに歪む。
「それでも欲しいか」
ハリーは迷わなかった。
「ください」
その即答に、スネイプの目に一瞬だけ、本当に嫌そうな色が浮かんだ。
ハリーは気づかない。
あるいは、もう気づける余裕がない。
スネイプだけが、その薬の恐ろしさを知っていた。
リリーを失ったあと、苦しみに耐えきれず、その薬に縋った時期がある。
思い出が薄れるかわりに、世界の色も薄れた。食事の味も、人の声も、季節の匂いも、全部遠くなった。泣くことすらできず、ただ空いた器のまま一日をやり過ごす。あれは救いではない。ただ、壊れた人間が壊れたまま延命する方法に過ぎない。
それでも今のハリーには、その空虚さすら救済に見えている。
スネイプは瓶を差し出した。
「自分が何を手放すのか」
冷たく言う。
「せめて覚悟だけはしておけ」
ハリーは瓶をひったくるように受け取った。
そして、躊躇なく飲んだ。
スネイプが制止する間もなかった。
喉が鳴る。黒い液体が一気に流れ込む。
苦い。
ひどく。
舌の上で薬草と金属の味が広がり、胃へ落ちた瞬間、身体の内側がすっと冷えた。
ハリーは机に手をついた。
最初は何も変わらない。
だが数秒後、頭の奥で何かが緩む感覚が来た。きつく張られていた糸が一本ずつほどける。あまりにも鋭く胸を刺していた思い出の輪郭が、じわじわとにじみ始める。
ドラコの声を思い出そうとする。
できる。
でも少し遠い。
天文塔。
温室。
礼服。
最後の「これでいい」。
どれも、さっきまでのように刃ではない。
代わりに、ガラス越しに見ているような遠さがある。
ハリーはその変化を感じて、ひどく安堵した。
楽だった。
胸を締め上げていた痛みが、一段薄くなる。
まだそこにある。
でも、直に触れなくて済む。
「……あ」
小さく息が漏れる。
ドラコの顔が、少しぼやける。
完全には消えない。
けれど、輪郭が柔らかくなる。笑った時の口元の細かい癖も、目を細める角度も、もうさっきほど鮮烈ではない。
ハリーはそのことに一瞬だけ恐ろしくなり、でも次の瞬間には、その恐ろしささえ遠のいた。
感じなくて済む。
喪失感も。
痛みも。
後悔も。
全部が少し鈍くなる。
そのかわり、心の真ん中に穴が開いたような感覚が残った。
空虚だった。
寒いわけでも熱いわけでもない。ただ、何か大事なものが抜け落ちた後の空洞だけがある。
だが今のハリーには、それでもましだった。
ドラコの思い出と喪失を、あの温度のまま抱え続けるよりは、ずっと。
「……もう一つ」
ハリーが小さく言うと、スネイプは顔をしかめた。
「駄目だ」
「でも」
「効き始めたばかりだ」
スネイプの声は鋭い。
「これ以上はただの中毒だ」
ハリーは反論しなかった。
もう反論する熱量すら、少し遠くなっていた。
その夜を境に、ハリーは定期的に地下牢へ降りるようになった。
最初は数日おきだった。
やがて、もう少し短い間隔になった。
薬を飲むたび、思い出の輪郭は少しずつ曇る。
ドラコが夜に呼び出して本音を打ち明けた場所の風の冷たさも、温室の湿った匂いも、最後に見た礼服の黒も、だんだん鮮烈さを失っていく。
「僕は、生まれてからこのかた――」
そこまで思い出しても、その先が霧に沈む日が来た。
「これでいい」
最後の言葉も、音だけが残り、響きは遠ざかった。
ハリーはそれに安堵した。
そして同時に、うっすらとした恐怖も感じた。
大事だったはずなのに。
何より失いたくなかったはずなのに。
その人の声さえ、自分の中から薄れていく。
だが、その恐怖すら長くは続かない。
薬が効いているあいだ、感情は深く沈まない。大きく揺れもしない。
空っぽだった。
朝が来ても、以前ほど胸は痛まない。
夜も、塔へ行きたくはならない。
誰かに話しかけられれば応じる。食事も最低限は取れる。授業も受ける。
だから周囲から見ると、少し持ち直したように見えたかもしれない。
実際には違った。
持ち直したのではなく、削ったのだ。
痛みを。
喜びを。
記憶へ繋がる感覚を。
ロンはある日、ハーマイオニーに小声で言った。
「なんか……ハリー、変じゃないか」
ハーマイオニーは何も言わなかった。
だが、その目はひどく曇っていた。
周囲には別の噂も立った。
吸魂鬼にキスでもされたのではないか、と。
それほどハリーの顔は空になっていた。
笑わない。
泣かない。
怒りもしない。
ただ、何かをしている時だけ動いていて、止まるとそのまま視線がどこへも向かなくなる。
スネイプはその顔を見るたび、目を逸らしたくなった。
知っているからだ。
あの薬が人から何を奪うかを。
悲しみだけではない。愛していた証の輪郭ごと、静かに鈍らせていくことを。
だが今のハリーは、それを救いとして飲んでいる。
そしてスネイプ自身も、一度は同じところへ落ちた。
だからこそ、強く止めきれなかった。
地下牢の扉が開く。
またハリーが来る。
青白い顔。空いた目。小さな瓶へ向ける手だけが妙に迷いなく伸びる。
そのたびに、スネイプは胸の奥へ鈍い不快感を沈めながら、新しい薬を差し出した。
ハリーは貪るようにそれを受け取る。
忘れたいからではない。
思い出す苦しさに、もう耐えられないからだ。
その違いを、スネイプは誰より知っていた。