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第4節 千崎雪絵『この子の前で泣かないために』―1―
雪絵は、ずっと分かっていた。
自分が、雄二にとって〝後回しにされる存在〟であることを。
それでも――それでいいと、思っていた時期がある。
彼の隣にいられるなら、それだけで十分だと。
けれど。
百香の名前の由来を知ったあの日から、その前提は静かに崩れ始めた。
あの子の名前に込められていたもの。
それが、自分とは無関係のところにあるのだと知ってしまった瞬間。
雪絵の中で、何かが確かに壊れた。
(……知らなければ、よかった)
何度もそう思った。
けれど一度知ってしまったものは、もう元には戻らない。
知らなかった頃の自分にも、戻れない。
だから雪絵は、少しずつ雄二から距離を置くようになった。
責めることも、問い詰めることもせず、ただ、静かに……。
もう、雄二には何も求めない、と冷めた心で決意した反面、それでも――。
(……彼を失いたく、ない)
その想いだけは、どうしても消えなかった。
こんなに憎らしいのに……どうしても雄二のことが好きだという気持ちが心の奥底深くでくすぶってしまう。
日々、〝極道の妻としての務め〟を淡々と熱のない様子で繰り返しながら、それでも……どうしても愛した男への未練を捨てきれない自分がいるのもまた事実で……それが堪らなく辛かった。
何より百香から、大好きな父親を奪うのは気が引けた。
だから、雪絵は踏みとどまっていた。
極道の妻として。
百香の母として。
『相良組』が解散し、新たに『雄相会』が発足した。
そのカシラに就いたのは、夫の雄二だった。
雄二にとって、大きな転機だっただろう。
そしてそれは、雪絵にとっても同じだった。
(……上に立つ男として、ここで変わってくれたら)
そんな淡い期待を、捨てきれずにいた。
百香の名前のことは、今も胸の奥に棘のように残っている。
抜くこともできず、ただ触れないようにしているだけのそれ。
それでも――。
カシラの妻として、これまで以上に雄二を支えなければならない。
そう思った。
もう一度だけ。
彼に寄り添ってみよう。やり直せるよう努力しよう。
彼が、夫としてそばに居続けてくれる未来を信じてみようとした。
けれど。
雪絵が百香の名のことで距離を置いたことは、確かに雄二にも伝わっていたのだろう。
水曜日だけではなく、他の曜日も……彼の帰りが遅くなる日が目に見えて増えていった。
――責めることは、できなかった。
自分が拒んだからだ。
触れられることも、言葉を交わすことも。
愛しさの裏返しのように凍り付いていく心のまま、どこかで雄二を避けてきたのは、雪絵自身だったのだから。
(……自分で、遠ざけたのよね)
そう思えば、何も言えなくなる。
けれど。
それでも。
静かな家の中で、一人でいる時間が増えていくほどに、胸の奥に溜まっていくものは、確かにあった。
寂しさと、不安と……それから――ほんの少しの、後悔。
金曜日の朝。
その日は、雪絵の誕生日だった。
けれど、特別なことは何もない。
いつもと同じように朝を迎え、いつもと同じように百香を送り出す。
「いってらっしゃい」
「いってきます!」
元気よく返事をして、玄関へ向かった百香が――ふと足を止めた。
ぱたぱたと小さな足音が戻ってきて、
「……ママ」
そっと呼ばれる。
振り返った雪絵の耳元に、百香は背伸びをして顔を寄せた。
「お誕生日、おめでとう」
内緒話みたいな、小さな声。
――父親に聞かれないように……と、言い含めてきたことを、ちゃんと守っている声音だった。
言い終えると、百香はぱっと離れて、いつも通りの笑顔を浮かべる。
「いってきます!」
何事もなかったみたいに、もう一度手を振って、外へ飛び出していった。
その背中を見送りながら、雪絵は――ほんの少しだけ、目を細める。
胸の奥に、あたたかいものが残ったまま、静かに息を吐いた。
それから、居間へと向き直る。
ネクタイを締め終えた雄二が、靴を履きに出てきたところだった。
「雄二さん」
声をかける。
ほんの一瞬、ためらってから、
「……今夜は、早く戻っていらっしゃいますか?」
なんでもないことのように問いかけた。
自分の誕生日であることは、言わなかった。
言えば、少しは気に掛けてもらえるかもしれない。
けれど、それをしたくなかった。
コメント
2件
言わなくても気づいてほしいんだろうな。 でも言わなきゃわからない相手だったんだよね、きっと(涙)
雪絵さんの心中、本当に切なかったです……。百香ちゃんが内緒話みたいにお誕生日おめでとうって言ってくれたシーン、胸がぎゅっとなりました。あの子なりにママを想ってるんだなって。それでいて、自分の誕生日を雄二さんに言えなくて「今夜は早く戻りますか」とだけ尋ねる雪絵さんの、寂しさと誇りの間で揺れる繊細な感情の描き方がとても好きです。距離を置いたのは自分だって分かっていても、やっぱり失いたくないという想い……すごくリアルで、続きが気になります。