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第4節 千崎雪絵『この子の前で泣かないために』―2―
雪絵が要求したから帰ってくるのではなく、何も言わなくても思い出して帰ってきて欲しかった。
――そんな、子どもみたいな願い。
結婚してから一度も祝われたことがないのに、儚い希望なことは分かっていた。
雄二は、常にはない雪絵の言動に何事かと思ったんだろう。少しだけ考えるような間を置いてから、視線を外したまま答えた。
「……なるべく善処する」
それだけだった。
「……分かりました」
それ以上は、何も聞かない。
何かあるのか? とも、どうして欲しいのか? とも雄二は聞いてくれなかったから。
雪絵はいつも通りの隙のない冷たい微笑みを作る。
「お待ちしていますね」
言葉では期待しているようなことを言いながら、態度では雄二に縋り切れない。小さなプライドが本音を邪魔して、決して自分を愛してくれない男相手に、馬鹿なことを言ってしまったとすら、考えさせてしまう。
「……ああ」
ドアの閉まる音が、やけに遠く感じられた。
振り返らず出ていく雄二の背中から、〝期待はするな〟と言われている気がした。
(……やっぱり覚えていないのね)
分かっていたことなのに。
胸の奥が、ほんの少しだけ軋んだ。
***
夕方。
百香が、学校から帰ってきた。
「ただいまー!」
「おかえりなさい」
ランドセルを部屋へ置いて戻ってくるなり、百香はぱっと顔を輝かせる。
「ママ! 朝も言ったけど……今日はママのお誕生日だね!」
その一言に、雪絵は一瞬だけ息を詰めた。
「……そうね」
「パパ、今年こそは一緒にお祝いしてくれるかな!?」
無邪気な期待。
けれど、その言葉の裏にあるものを、雪絵は知っている。
これまで一度も、母である雪絵の誕生日が、父からまともに祝ってもらえたことがないことも。
それでも毎年、百香が〝今年こそは〟と期待してくれていることも。
雪絵は、ゆっくりと首を振った。
「パパは忙しいから。ママの誕生日のことで煩わせたらダメなのよ」
「……うん、それは分かってる。でも……」
百香は素直に頷きながらも、でも、と言葉を濁した。
――でも、百香の誕生日は毎年祝ってくれるのに……。
娘と妻とでは何かが違うのだろうか?
きっと、百香はそれを図りかねている。
百香の表情に浮かんだわずかな影を、雪絵は見逃さなかった。
娘にそんなことを気遣わせてしまう雄二と自分の関係が、堪らなく申し訳なく思えた。
***
「百香がお皿用意するね」
二人で、食事の支度をする。
普段よりも少しだけ手の込んだ料理。
百香は楽しそうに手伝いながら、何度も玄関の方を気にしていた。
毎年のことだけれど、一応ケーキも用意した。
例年より少しだけ大きな号数にしたのは、もしかしたら……という思いがあったからだ。
箱を開けると、甘い香りがふわりと広がる。
(……期待しすぎちゃダメ)
そう、自分に言い聞かせる。
今日はただの誕生日ではない。
――最後の確認。
雄二が帰ってきてくれたら……まだやり直せるかもしれない。
カシラになった今なら……上に立つ者のけじめとして、少しは変わってくれるかもしれない。
そんな、最後の希望。
ふと見つめた先で、百香が珍しくスマートフォンを触っていることに気が付いた。
どうやら何かを打ち込んでいるらしい。雪絵が声をかけるより先に、送信ボタンを押してしまう。
雪絵からは死角になっていて見えなかったけれど、百香のスマホには【パパ、今日は早く帰ってこられる?】という、父親宛のメッセージが表示されていた。
それは、百香なりの小さな勇気だった。なんだかいつもと様子が違う母に、このままじゃいけないと思った結果だった。
すぐさま既読がつく。
百香は、祈るような気持ちで端末をぎゅっと握りしめた。
――その直後。
雪絵のスマートフォンが、鳴った。
画面に表示された名前を見て、雪絵の指先がわずかに震える。
(雄二さん……)
今朝――、勇気を出して口にした言葉を思い出す。
もしかしたら、『今から帰る』という連絡かもしれない。
淡い期待を胸に、雪絵は通話ボタンを押した。
「……はい」
『今夜は帰れない――』
短い一言だった。
謝罪も、理由も、説明もない。
ただ、それだけ。
雪絵は、一瞬だけ言葉を失った。
けれど。
コメント
2件
これは辛すぎるね😭
うわあ……胸がぎゅっとなる回でした。今朝「善処する」とだけ言った雄二から、誕生日当日に「帰れない」の一言。謝罪も理由も説明もなくて、雪絵さんの「分かってた」という諦めと小さな傷みがひしひしと伝わってきました。それでも「最後の確認」と希望を持ち直そうとするのが切ない……。百香がこっそりパパにメッセージ送った直後にこの電話、というタイミングの残酷さも効いてますね。娘の前で隙のない微笑みを保つ雪絵さんの強さと弱さ、どちらも描かれているこのバランスが好きです。続き、気になります。