テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
睡蓮が悲痛な面持ちでその帰宅を待っていたとは露知らず、雅樹は笑顔で玄関の扉を開けた。その瞬間を見計ったかの様に足元にクッションが勢いよく投げ付けられた。
「えっ!な、なに!」
突然の出来事に呆然となっていると今度は皿に乗ったパウンドケーキが廊下に叩きつけられた。雅樹はその衝撃音に思わず飛び上がった。
「睡蓮、どうしたの!」
「心配だからって……….お義母さんが味見していたわ!」
「なんの事!」
「ケーキにお酒が入っていたら赤ちゃんに良くないからって!」
「……….赤ちゃん、母さんがそんな事を言ったのか」
睡蓮は髪を振り乱し仁王立ちになって雅樹を睨み付けた。
「赤ちゃんが出来る筈なんて無いわ!」
「睡蓮………..落ち着いて」
「だって雅樹さん、手もつな…….つなが……..ながいし!」
頬は涙で濡れ声は震えていた。
「キスだっ…….てしていないじゃない!」
「睡蓮、ごめん」
「ごめんってなにが!?」
睡蓮の怒りの在処が分からない雅樹は戸惑った。
「母さんには赤ん坊の事は話さない様に言い聞かせるから」
「そういう事じゃ無いでしょう!」
「睡蓮!睡蓮、落ち着いて」
雅樹は床で無惨に崩れたパウンドケーキを跨ぎ睡蓮を抱き締めた。
「睡蓮、ごめん」
睡蓮は背中に回された優しい手に応える事はなくその腕は悲しげに垂れたままだった。とめど無く流れる涙はやがて嗚咽に変わり雅樹はその亜麻色の髪を撫でた。
「…………810号室」
その手の動きがピタリと止まった。
「赤ちゃんが出来るのは木蓮じゃないの」
「…………..!」
「あの部屋で木蓮としたのね」
睡蓮の顔を凝視した雅樹の顔色は蒼白かった。
「違うって言わないのね」
睡蓮はショルダーバッグを手にパンプスを履いて玄関を飛び出した。
(どうして、どうして!)
けれどこの背中を追い掛けて来て欲しかった。
(いつの間に!)
木蓮とはなにも無かったのだと、勘違いだと言って欲しかった。睡蓮は一度足を止めて背後を振り返ったがそこに雅樹の姿は無かった。
(もう…….もう無理、もう駄目)
部屋に残された雅樹は睡蓮の後を追う事も出来ず、木蓮との一夜を否定する事も出来ずに開け放たれた扉に肩を預けそのまま座り込んだ。
「太陽が丘まで」
睡蓮はタクシーに手を挙げ実家の住所を告げた。
(…………でも木蓮が居る)
今、木蓮に会ったら自分がどうなってしまうのか、どんな言葉を吐くのかと考えると身の毛がよだった。赤信号で街の景色が止まる。
(会いたくない)
タクシーは住宅街の三叉路でウィンカーを右に点滅させた。
「あ、すみません」
「はい」
「すみません、やっぱり田上新町までお願いします」
睡蓮は伊月のマンションの住所をドライバーに告げた。
見上げると満月が馬鹿みたいに大きく見えた。タクシーの後部座席の扉が閉まりエンジン音が遠ざかる。一時停止の交通標識で赤いブレーキランプが点灯し、悲壮感漂う睡蓮の横顔を映し出した。月明かりの中、静かな住宅街にパンプスの音が鳴り響いた。
(……….先生の所に行ってどうするの)
山茶花の垣根を曲がるとやや小高い場所に如何にも単身者向けの5階建のマンションが見えて来た。駐車場に停まっているBMWは伊月の車だ。ボンネットを触るとまだ暖かかった。
(でも)
バルコニー側に回り込むと遮光カーテンの隙間から明かりが漏れている。
(でも、もしかしたら木蓮が居るかもしれない)
脇に汗が滲み、動悸が激しくなった。子どもの頃からの癖で緊張すると二の腕を激しく掻いてしまう。睡蓮の腕は赤く色付いた。
(で、電話)
睡蓮は財布の中から伊月の名刺を取り出し携帯電話を握った。
ルルルル
ルルルル
ルルルル
ルルルル
ルルルル
(出ない)
もしかしたら木蓮とベッドの中で睦み合って居るのかもしれない、婚約者なのだから有り得る事だ。何処に行っても木蓮が付き纏う。睡蓮は大きな溜息を吐いて10コール目で発信ボタンを切ろうと人差し指を伸ばした。
「………….どなたでしょうか?」
見慣れない発信者番号に訝しげな声が聞こえた。
「せ、先生」
「………..!もしもし!」
「睡蓮です」
「睡蓮さん!」
急に伊月の声色が変わり、慌てている事は明らかだった。
「睡蓮さん、どうしたんですか、発作ですか!」
「…………….」
「睡蓮さん、大丈夫ですか!」
主治医と患者の関係だと分かっていてもその声に縋り付きたかった。
「…………先生」
「はい!ネフライザーは!」
「先生、そこに木蓮は居る?」
「そこ、そことは何処の事ですか」
「カーテン」
その言葉に弾かれる様に伊月は寝室のカーテンを開けた。暗がりの中に携帯電話の明かりが睡蓮の姿を浮かび上がらせていた。
「なにをしているんですか!こんな寒い夜に!」
「木蓮は居るの?」
「居ません、今、オートロックを開けますから上がって来て下さい!505号室です。エレベーターを降りて左側です」
「行って良いの?」
「良いも悪いも、発作が起きますよ!早く!」
玄関エントランスに向かうと自動扉は既に開いていた。
(………….開いている)
雅樹が秘密裏に借りていた810号室の鉄の扉は睡蓮を拒絶していた。今の睡蓮にとってこのガラスの自動扉は自身を受け入れてくれている、そんな気がした。エレベーターホールに立つとそのボタンを押す前にそれは4階、3階と下りて来た。扉が左右に開くとそこには濡れた髪の伊月が立っていた。
(………….先生)
「睡蓮さん、どうしたんですか」
睡蓮はその胸に飛び込んでいた。