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伊月は一瞬たじろいだがその腕は睡蓮を抱き締めていた。
「睡蓮さん、どうしたんですか」
柔らかな絹糸の亜麻色の髪に顔を埋める。睡蓮は伊月の跳ねる鼓動に耳を澄ませた。静かに閉まるエレベーターの扉、伊月は迷う事なく5階のボタンを押した。
「雅樹さんと喧嘩でもしたんですか」
「違うの」
「じゃあ、どうして」
「家に居られなくなったの」
ぽーーん
扉が開き2人は自然と身体を離し、伊月は睡蓮の二歩先を歩き睡蓮はその背中を目で追った。只事ではないと慌てていたのだろう革靴が右に左にと転がり鍵も掛けずに部屋を飛び出した形跡があった。伊月は革靴を揃えると睡蓮を招き入れた。
「お邪魔します」
「どうぞ」
淡いグリーンを基調とした2LDKの部屋にはシダーウッドの香りとそれに絡み付く男性独特の匂いがした。伊月もいつもの白衣ではなく黒いTシャツに紺色のハーフパンツを履いて髪の毛はシャワーを浴びた後の湿り気が有った。
「散らかっているけれど、座って」
「散らかってるなんて、とても綺麗です」
「そう?」
「はい」
銀縁眼鏡を外した伊月は男性の顔をしていた。その時睡蓮は如何に自分が突拍子も無い事をしているのかと我に帰った。ソファの脚が軋み、その音に居心地の悪さを感じた。なにか話さなければならないと思うが言葉が出て来ない。
「ホットミルクで良いかな」
「あ、ありがとうございます」
結婚前、病院の談話室で伊月に悩み事を相談していた時睡蓮はホットミルクを注文していた。伊月はそんな些細な事を憶えてくれていたのだ。雅樹はどうだろう、雅樹は睡蓮がなにを好みなにを苦手としているか知っているだろうか。目頭が熱くなった。
「はい、熱いから気を付けて」
「ありがとうございます」
伊月はカーペットの床に胡座を掻いて座った。ふと見遣ると睡蓮の腕には掻きむしった跡が有った。幼馴染の伊月はそれが極度の緊張から来る動作である事をよく知っていた。
「睡蓮さん、なにが有ったんですか」
ホットミルクの湯気の中、睡蓮は声を震わせた。
「あの」
「はい」
「何処から話して良いのか分からない」
「話せる所からで良いですよ」
「あの」
「はい、落ち着いて」
いつの間にか睡蓮は両腕に力を入れて拳を強く握っていた。睡蓮は言葉を詰まらせながらゆっくりと口を開いた。
「…………私、した事がないんです」
「した事がない、なにをですか?」
「ないんです」
「ない」
「はい、私、新婚旅行で出来なかったんです」
伊月は一瞬驚いた顔をしたが、なるべく平静を装い医師の顔で接する様に心掛けた。
「そうなんですか」
「…………はい」
「それは雅樹さんに問題が有ったのでしょうか」
「いえ、そうではありません」
「……..そうですか」
「はい」
睡蓮は伊月を凝視した。
「先生、話しても良いですか」
「はい、私でも宜しければ」
「本当に良いんですか」
「どう言う事でしょうか」
「も………….木蓮の事です」
「木蓮?」
睡蓮の思い詰めた顔、伊月に大方の予想は付いた。
「雅樹さんと木蓮、付き合っていたんです」
「…………..まさか」
「木蓮は雅樹さんの部屋の鍵を持っています」
「雅樹さんの部屋とはなんの事ですか」
「雅樹さんが「夜眠る為に借りていた部屋」です」
(………….ああ、やっぱり)
「雅樹さんは木蓮と……..木蓮と………もう耐えられない」
堪えきれなくなった睡蓮の目から大粒の涙が溢れワンピースの太腿を濡らした。伊月としてもまさか結納まで交わした木蓮が雅樹と通じているとは思いも依らなかった。
(木蓮とは明日、明後日にでも本人と話せば良い)
伊月は取り敢えず、人妻を夜の部屋に招き入れているこの歪な状況をなんとかしなければならないと考えた。
「それで西念のご自宅を飛び出して来たのですか」
「………….はい」
「叶家に行こうとは思わなかったのですか」
「叶には木蓮が居るから」
「それで私の所へ」
「はい、ごめんなさい」
伊月は温くなったコーヒーに口を付けた。時計の秒針の音だけがする静かな部屋、睡蓮は黙り込んだままカップを両手で持った。
「あ、ミルク冷めちゃいましたね。取り替えましょうか」
「先生、憶えていて下さったんですね」
「なんの事でしょうか」
目の周りを真っ赤にした睡蓮は力無く微笑んだ。
「まえ、病院で私がホットミルクを注文した事を憶えていてくれたんですね」
「たまたまですよ」
「嬉しかった」
「嬉しかった、ですか」
「はい、私を見てくれる人に出会えた様な気がして嬉しかったです」
「叶家の皆さんだって睡蓮さんの事を大切にされているじゃないですか」
「…………..それとこれとは違うわ」
「そうですか」
「私も血の繋がりが無い誰かと結び付きたい」
「雅樹さんが居るじゃないですか」
「紙の上だけの繋がりだわ」
睡蓮は左の薬指を弄りながら半ば投げやりな口調で言い切った。
「雅樹さんと話し合いはされたんですか」
「…………していません」
「まだ結婚式を挙げられて1ヶ月です、他人同士分かり合えない部分も多いと思います。一度真正面から向き合われては如何ですか?」
「………….先生」
「送って行きます。雅樹さんもご心配されているでしょう」
「心配なんて」
「準備しますから待っていて下さい」
伊月はコーヒーカップをシンクの中に置くと隣の部屋に向かった。リビングの明かりを頼りに暗がりでジーンズを履き、シャツのボタンを指で摘んだ。
「……….!」
睡蓮は伊月の背中から手を回し軽い羽根の様に抱き付いた。
「睡蓮さん、なにをしているんですか」
「先生、昔みたいに伊月くんって呼んで良い?」
「………え」
「呼びたいの」
伊月の身体は硬直して微動だにしなかった。背中に感じる睡蓮の温もりと激しい鼓動、匂い立つ女性の香り。理性と欲望がせめぎ合いゆらゆらと揺れた。
「睡蓮さん、私は焦茶のくまですよ」
睡蓮の絡めた指先がピクリと動いた。
「私はベージュのくまではありませんよ、あなたが木蓮に投げつけて捨てた焦茶のくまです」
「それは」
「ベージュのくまが思っていた物じゃなかった」
「…………..」
「だから今度は焦茶のくまにするんですか」
伊月は睡蓮の指先を一本、また一本と静かに外してシャツのボタンを留め始めた。その後ろ姿は少し哀しげに見えた。
「はい、これを羽織って下さい」
睡蓮に向き直った伊月は普段と変わらぬ笑顔でデニムのオーバーシャツを手渡した。我儘な自身の行動を恥じた睡蓮はその面立ちから視線を外した。