テラーノベル
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怜
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今さっき急いで書き上げた百合。
色々おかしい。
外はとうに夜の帳が下りている。ヨコハマの不夜城を包む闇は深く、しかしその中にある一つの部屋だけは、安っぽい蛍光灯の光に白々と照らされていた。
お互いにろくに家に帰る暇もなく、任務の報告と擦り合わせのために用意されたアジトの一室。散乱した書類と、飲み干された缶コーヒーの空き缶が転がる机の傍らで、二人の女が並んで座り込んでいた。
「おい、太宰。お前、最後に髪洗ったのいつだ」
「失礼な言い方をしないでよ、中也。昨日だよ、昨日の朝。……ちょっと泥塗れの任務があったから、水で流しただけだけど」
「それを洗ったとは言わねえんだよ、馬鹿」
中也は深く溜息をつき、自分の頭をがしがしと掻いた。くすんだ橙色の髪が、その乱暴な手の動きに合わせてパサついた音を立てる。人のことを言えた義理ではなかった。ポートマフィアの最前線で「双黒」と恐れられる彼女たちの日常は、血と硝煙、そして慢性的な睡眠不足で満ちている。
鏡を見る余裕すらなく、ただ生き残り、敵を殲滅することだけに費やされた数週間。その代償は、無惨に絡まり合った互いの髪に如実に表れていた。
いつもなら丁寧に巻かれているはずの中也の髪は、湿気と潮風と放置された汗のせいで、すっかりボリュームを失って毛先が跳ね返っている。対する太宰の黒髪もひどいものだった。包帯の隙間から覗くうねった髪は、普段のアンニュイな癖毛というよりは、単に手入れを放棄された鳥の巣に近い。
「あーあ、せっかくの私の美髪が台無しだ。これも全部、次から次へと仕事を押し付ける森さんのせいだね。心中するならもっと綺麗な髪の時にしたかったよ」
「死ぬ話すんな。つーか、文句垂れる元気があんなら少しは梳かせ。見てるこっちがイライラすんだよ」
「嫌だよ、面倒くさい。それに、自分でやると絶対に引っかかって痛いもの」
太宰はそう言って、床に体育座りの姿勢のまま、中也の膝に容赦なく頭を預けてきた。ずしりと乗っかる重みに、中也は眉をひそめる。
「おい」
「中也、やって」
「はあ?」
「お互いにボサボサなんだから、お互いにやればいいじゃない。私は手先が器用だからね、中也のその哀れな山鳥の尾羽みたいな髪を、少しはマシにしてあげるよ」
「誰が山鳥だぶち殺すぞ」
口では険しく罵りながらも、中也の手は既に太宰の髪に触れていた。
指先を滑り込ませようとして、すぐに強烈な引っかかりを覚える。毛先の方が完全に絡まって団子になっていた。
「うわ、最悪だわこれ。お前、本当にどんな動き方したらこんな絡まり方すんだよ」
「異能力者を三人ほどまとめて川に叩き落とした時かなあ。あの時の水質が悪かったんだよ、きっと」
「道具箱に確か、支給品の櫛があったはずだな……」
中也は自由な方の手を伸ばし、転がっていた鞄の中から無骨な黒い櫛を引っ張り出した。
太宰の髪の毛先を少しずつ指でつまみ、毛先の方から優しく解いていく。無理に引っ張ればブチブチと切れてしまうのが分かっているから、普段の荒々しい戦闘スタイルからは想像もつかないほど、その手つきは慎重で、繊細だった。
「……痛いか?」
「ううん。中也のくせに随分と手際が良いね。どこぞの女にでも仕込まれたのかい?」
「んなわけねえだろ。自分の髪が鬱陶しい時に弄ってりゃ、嫌でもコツくらい掴むわ」
ガシガシと手荒に扱われるのを覚悟していた太宰は、拍子抜けしたように目を細めた。中也の指先が頭皮に触れるたび、そこからじんわりと熱が伝わってくる。連日の緊張で強張っていた頭の芯が、ゆっくりと弛緩していくのが分かった。
付き合っている、という関係になってからそれなりに経つが、こういう平穏な、しかし酷く生活感に塗れた接触は滅多にない。戦場では背中を預け合い、互いの命を握り合っているが、それは常に生と死の境界線上の話だ。
今ここにあるのは、ただの泥臭く、ボサボサな二人の人間の、ひどく些細なやり取りだった。
「中也の指、あったかいね」
「お前が冷え性すぎるんだよ。包帯ばっか巻いてるから血行が悪ぃんじゃねえの」
「これは私のアイデンティティだよ。外したら死んじゃうかもしれない」
「んな訳あるか」
ふっと中也が鼻で笑う。その振動が膝を通じて太宰に伝わる。
櫛が頭頂部から毛先まで、すんなりと通るようになった。手入れを怠っていたとはいえ、元々の髪質は悪くない。中也の丁寧な施術によって、太宰の髪は本来の柔らかな黒い癖毛のまとまりを取り戻しつつあった。
「よし、大体解けたぞ」
「じゃあ、次は結んでよ」
「注文が多いな。どうすんだよ」
「何でもいいよ。中也のお好みの髪型にしてくれて構わない。どうせなら、ポートマフィアの誰もが見惚れるような可憐な少女にしておくれ」
「気色の悪い注文つけるんじゃねえ」
中也は呆れ果てながらも、ポケットから予備の黒いヘアゴムを取り出した。太宰の長い髪を後ろで一つにまとめようとして、ふと指を止める。
いつも鬱陶しそうに顔の横に垂れている髪をかき上げると、白い首筋があらわになった。そこには、戦闘でついた古い傷跡や、いつのものか分からない擦り傷がいくつも残っている。
それは自分も同じだった。この街の闇を生きる女の身体だ。決して綺麗とは言えない。
けれど、中也はその首筋にそっと触れ、髪を丁寧に集めて、少し高めの位置で一本に結い上げた。いわゆるポニーテールというやつだ。普段の太宰の陰湿な雰囲気が少しだけ薄れ、どこか幼い印象になる。
「できたぞ。ほら、交代だ」
「わあ、首元がスースーする。新鮮だね」
太宰は膝から頭を退けると、くるりと身を翻して中也と向き合った。そして今度は、中也の前に回り込むようにして彼女の背後に座り直す。
「さあ、次は私の番だ。中也のその、可哀想な毛並みを整えてあげよう」
「手加減しろよ。力任せに引っ張ったら、その手を重力で潰すからな」
「怒りん坊だなあ。私は中也と違って、紳士的……いや、淑女的なんだから安心したまえ」
太宰の手が中也の橙色の髪に触れた。
太宰の指先は、中也の言った通りひんやりと冷たかった。しかし、その動きは驚くほど優しく、滑らかだった。
中也の髪は太宰のそれよりも少し硬く、自己主張が強い。潮風にさらされて固くなった毛先を、太宰は自分の細い指先で一本一分解くように弄っていく。
「中也の髪は、本当に綺麗な色だね。戦場でもよく目立つ。まるで遠くからでも『私はここだよ』って主張しているみたいだ」
「目立とうと思ってこの色にしてるわけじゃねえよ。生まれつきだ」
「知っているよ。だからこそ、私はこの色が好きなんだけどね」
さらりと、何でもないことのように太宰が言った。
中也は前を向いたまま、耳の付け根がわずかに赤くなるのを感じた。心臓が少しだけ早く鼓動を打つ。背後から聞こえる太宰の息遣いや、髪を弄る指の感覚が、いやに鮮明に伝わってきた。
「……お前、たまにはそういう殊勝なことが言えるんだな」
「おや、照れたのかい? 可愛いねえ、中也は」
「照れてねえ! 殺すぞ!」
「あはは、動くと危ないよ。ほら、櫛を使うからじっとして」
太宰は先ほど中也が使った櫛を受け取り、中也の髪を梳かし始めた。
頭皮に適度な刺激が与えられ、心地よい感覚が脳を痺れさせる。連日の徹夜で限界を迎えていた中也の瞼が、自然と重くなっていった。
沈黙が部屋を満たす。聞こえるのは、プラスチックの櫛が髪を擦る微かな音と、二人の静かな呼吸音だけだ。
外の世界では、いつ敵が襲ってくるかも分からず、明日をも知れない命の応酬が続いている。ポートマフィアの幹部候補として、二人は常に気を張っていなければならない。弱みを見せれば、そこから喰い殺される世界だ。
けれど、この狭く薄汚れたアジトの、この瞬間だけは、世界から切り離されたような絶対的な安全圏だった。お互いが側にいる。それだけで、奇妙なほどの安堵感が二人を包み込んでいた。
「中也の髪、だいぶ真っ直ぐになったよ。やっぱり、手入れをすれば見違えるね」
「そりゃどうも。……で、どんな風に結ぶんだよ」
「うーん、そうだねえ。中也はいつも左側だけ結んで垂らしているじゃない? あれも悪くないけれど、今日は特別な仕様にしてあげよう」
太宰は中也の髪を二つに分けた。そして、それぞれの束を器用に編み込み始めた。
中也は背後で何が起きているのか見えなかったが、太宰の指先が細かく動いているのを感じて、大人しく身を委ねていた。
「おい、まさか変な髪型にしてねえだろうな」
「まさか。私の美的センスを信じたまえ」
「お前のセンスは信用ならねえんだよ」
「酷いなあ。よし、これで完成」
太宰が満足そうに中也の肩を叩いた。中也は振り返り、太宰の顔を見る。太宰は自慢げに胸を張っていた。
「鏡、鏡は……まあ、これでいっか」
中也はスマートフォンの画面を起動し、内カメラで自分の姿を映し出した。
画面に映ったのは、左右で綺麗に三つ編みにされた自分の姿だった。きっちりと編み込まれた橙色の髪は、普段の戦闘的な雰囲気とは真逆の、どこか素朴でカントリー風な少女の装いを見せている。
「……おい、太宰」
「どうだい? 凄く可愛いよ、中也。まるで田舎の農場でお芋でも掘ってそうな素朴さだ」
「誰がお芋掘りだ! 似合ってねえだろ、こんなの!」
「そんなことないさ。普段が狂犬みたいだから、これくらいギャップがあった方が男受け……いや、私受けが良い」
「お前受けなんか狙ってねえよ!」
中也は顔を真っ赤にして怒鳴ったが、その三つ編みを解こうとはしなかった。
スマートフォンの画面を切り、今度は太宰の姿を見る。ポニーテールになった太宰は、いつもより顔の輪郭がはっきりとしていて、その端正な顔立ちが際立っていた。黒い髪が揺れるたび、白い首筋が見えるのが、なんだか妙に生々しい。
お互いに、普段とは全く違う髪型。
ボサボサだった髪は綺麗に整えられ、そこにはお互いの手が加わった痕跡がはっきりと残っている。
「……まあ、悪くはねえか」
「そうだろう? 私の技術に感謝してほしいね」
太宰はそう言うと、再び中也の隣に腰を下ろした。今度は膝の上ではなく、肩と肩が触れ合うほどの距離で、寄り添うように。
どちらからともなく、ふっと息を吐き出す。
髪が綺麗になったからといって、身体の疲労が消えたわけではない。泥のように重い疲労感が、再び二人の身体を支配し始める。
「中也、眠いよ」
「私だって眠いわ。……報告書、まだ半分も終わってねえぞ」
「明日の朝の私たちが頑張るよ。今の私たちは、もう機能停止だ」
「おいおい、幹部補佐がそんなことでいいのかよ」
そう言いながらも、中也は自分の肩に頭を乗せてきた太宰を突き放さなかった。
太宰のポニーテールが、中也の頬に当たって少し擽ったい。中也の三つ編みの毛先が、太宰の鎖骨のあたりに触れている。
「ねえ、中也」
「あ?」
「次、また髪がボサボサになったら、またやってくれる?」
「……お前がちゃんと大人しくしてるならな」
中也のぶっきらぼうな返事に、太宰は満足そうに目を閉じた。
繋いだ手のひらは、いつの間にかどちらのものか分からないほど、同じ熱さで満たされていた。
白々とした蛍光灯の下、奇妙な髪型をした二人の少女は、寄り添ったまま深い眠りへと落ちていった。ヨコハマの夜はまだ長く、彼女たちの戦いも終わらない。けれど、この髪を結び合った温もりだけは、誰にも奪えない二人の真実だった。
コメント
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一生このままでいてくれ頼むからぁァァァァァァァッッッ!!! 夏の穂さんの小説読んでるときの満足感と幸せ感が半端ないです
なんだろ髪フェチには刺さる物語だ←髪フェチの人 なつほさんの参考にして物語を書きたいんですけどいいですか?
癒されまくりの回でした!! 文句を言いながら、お互いの髪を整えるシチュが最高!! しかも、髪型まで互いの好みに結ぶって、もうエモすぎました!!