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ご提示いただいた小説を、本文の削除や改変を行わず、おおむね1,500字程度でキリの良い場面展開ごとに4つのパート(各パート約1,300〜1,700字程度)に分割いたしました。
以下のように区切っております。
『八月の黒い予感』 第一部(約1,400字)
そこは、街の呼吸が唐突に途切れてしまう場所だった。
新興住宅地の家々の背後に、古い痣のような雑木林が残されていた。都市計画という鋭いメスがなぜかそこだけを避け、切り忘れた皮膚のように放置された小さな林。周囲をアスファルトに囲まれながら、そこだけが時間の流れを拒絶し、濃密な影を溜め込んでいた。
八月の午後だった。逃げ場をなくした熱気が、遠くの景色を歪ませている。蝉の声は熱を帯びた砂粒のように空中を満たし、小学六年生の翼の体力を削っていった。
翼は、境界線のように横たわるガードレールをまたいだ。茶褐色の錆がところどころに浮き、塗装は剥げ、むき出しになった鉄は冷たかった。汗ばんだ掌に、その冷たさだけが執拗に残った。
一歩、足を踏み入れた瞬間、世界から音が消えた。
国道の振動もクラクションも、厚い水の底へ沈められたように遠のいていく。林の中は異様なほどひんやりとしていた。枝は互いに身を寄せ合って陽射しを拒み、地面に落ちるわずかな光は濁った緑色に変質している。
ここだけが、時間の規則から見放されている。
土と樹液、そして何かを埋めて忘れてしまった場所のような匂いがした。翼はその沈黙を肺の底まで吸い込んだ。
「……絶対に、いる」
肩にかけた虫取り網の竹の柄を握り直した。何度も使われて艶を失ったその感触だけが、現実とつながっている気がした。
目的は、この林の王と噂されるクワガタだった。クラスメイトが見たこともないほど大きく、漆黒の甲殻をまとい、威圧するような大顎を持つ個体。捕まえることができれば、夏休みのあいだ、誰にも負けない。そんな単純な栄光を、翼は信じていた。
昨夜、塾の帰り道に見たのだ。自転車のライトが林の入り口をかすめたとき、月明かりの下でうごめく巨大な影を。それは図鑑のどの頁にも収まりきらないほど神聖で、同時に言いようのない不吉さを帯びていた。夜の林へ入る勇気はなかったが、今はまだ太陽が高い。翼は意を決して、林のさらなる深部へと歩みを進めた。
奥へ進むにつれて、説明のつかない違和感が足もとから這い上がってきた。
それは靴底から脛へ、膝へ、腹のあたりへと少しずつ積もり、翼の身体の内側に薄い膜を作っていく。
地面には、何年分もの枯れ葉が折り重なっていた。乾いた葉もあれば、すでに形を失い黒ずんだ葉もある。それらは幾層にも沈殿して、もはや土と呼ぶべきものではなくなっていた。
記憶の残骸。
ふと、そんな言葉が翼の頭に浮かんだ。誰かに教わったわけでもないのに、そう呼ぶのがふさわしい気がした。
踏みしめるたびに、足もとから湿った音がした。そのたびに、林全体が翼の侵入を知り、ひそやかに拒絶しているようにも思えた。