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王城の審問の間は、異様な静けさに包まれていた。
ほんの数瞬前まで、そこには恐怖とざわめきが渦巻いていた。
でも今は違う。
誰もが見てしまったのだ。
“呪い”と呼ばれてきたものが、
リゼットの処置に反応し、
広がりを止めた瞬間を。
神秘ではない。
少なくとも、それだけではない。
その事実が、部屋の空気を根本から変えていた。
アルヴェインはまだ荒い呼吸を繰り返していた。
けれど、先ほどまでのように完全には飲み込まれていない。
リゼットは彼の腕を支えたまま、視線だけを上げた。
「この部屋に、何を置いたんですか」
管理局の男は沈黙した。
整えられた冷静さが、もう顔に貼りついていない。
「答えろ」
ユリウスの声が、今度は少し硬い。
「……私は知らない」
男が言う。
「発作が起きたのは偶然だ」
「偶然ではありません」
リゼットは即座に返す。
「前回までと立ち上がり方が違いました。速すぎる。しかも、この部屋へ入ってから急に熱が上がっている」
宮廷医師が口を挟む。
「環境や緊張で増悪した可能性もある」
「なら、確かめましょう」
リゼットはそう言って、部屋を見渡した。
香り。
ごく薄い。
でも、ある。
この部屋の匂いは本来、蝋と紙と人の気配だけのはずだ。
そこに、ほんのわずかに甘い花香が混じっている。
視線が止まる。
壁際の、小さな青銅の香炉。
儀礼の席なら不自然ではない。
でも今日は、火が弱く残っていた。
「それです」
記録官が思わず振り返る。
「香炉を止めてください。窓も開けて」
「待て、それは――」
管理局の男の反応は遅かった。
「開けろ」
アルヴェインが低く言う。
兵が一瞬迷い、それでも辺境伯本人の命を優先したのだろう。
窓が開かれる。
冷たい外気が一気に流れ込む。
同時に、香炉が運ばれた。
リゼットは灰を見た瞬間、確信した。
灰の中に、淡い紫の焦げ残り。
セレナの手紙に挟まっていた花片と、ほぼ同じ色。
「やっぱり……」
「分かるのか」
ユリウスが訊く。
「はい」
リゼットは灰を見つめたまま答える。
「鎮静系の香りづけに使われる花材です。でも、この焦げ方は香りづけだけじゃありません。薬効を運ぶ基材が混ざっています」
「香炉の一つで何が変わる」
宮廷医師が言う。
「辺境伯の継続処方と組み合わせれば、変わります」
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リゼットは顔を上げ、管理局の男を見た。
「ずっとそれをやっていたんですね」
静かに、はっきり言う。
「薬で体を整え、香りで起点を刺激する。だから発作は“規則正しく”起きた」
男のこめかみが、ぴくりと動く。
もう、それだけで十分だった。
知らない者の反応ではない。
「本当か」
ユリウスが問う。
「証拠にならない!」
管理局の男が声を荒げた。
「香炉に何が入っていたかなど、今ここで――」
「では、灰を調べればいいだけです」
リゼットは言い切る。
「この場で封をし、別の薬師にも見せてください」
部屋が静まる。
「私は逃げません。辺境伯も逃げない」
リゼットは続ける。
「でも、そちらも逃げないでください」
その一言で、これは感情論ではなく検証の話へ変わった。
向こうが一番嫌がる形へ。
管理局の男は口を開きかけ、閉じる。
逃げ道が狭まっているのを、自分でも分かっている顔だった。
そのとき。
「わ、わたしは知らなかったの……」
セレナの声が震えた。
皆の視線が集まる。
セレナは顔を青くして、首を振る。
「香油がそんなものだなんて……っ、わたしはただ、家の言うとおりにしていただけで……」
リゼットの胸が、冷たく沈む。
やはりそうか。
すべての中心ではない。
でも、無関係でもない。
「父の言うとおりに?」
リゼットが問う。
セレナは唇を震わせた。
「お姉さまは、いつも余計なことに気づくからって……っ」
場の空気が変わる。
「だから、しばらく黙っていてもらえばいいって……でも、毒殺未遂なんて、そんな大ごとになるなんて思ってなくて……」
ユリウスの顔色が変わる。
「何だと」
セレナは泣き崩れるように続ける。
「だって、お姉さまばかり見つけるんだもの……っ」
その声は幼く、狭かった。
「わたしが選ばれても、最後にはみんな、お姉さまの知識を頼るのに……!」
あまりにも小さい嫉妬。
でも、小さいからこそ厄介だった。
そこへ王都側の都合が乗れば、人ひとり簡単に切り捨てられる。
リゼットは目を閉じかけて、やめた。
もう、ここで傷ついて止まるわけにはいかない。
「説明しろ」
ユリウスが管理局の男へ向き直る。
「……私は正式な管理手続きを――」
「まだ言うか」
低い声が落ちる。
アルヴェインだった。
発作の余熱を残しながらも、彼はゆっくり体を起こした。
先ほどまで支えていたリゼットの手が、逆に軽く支え返される。
「帰還後に継続処方を始め、症状を“呪い”として固定し、今この場でも誘発した」
アルヴェインは男を見た。
「そこまで揃っていて、まだ手続きだと言うつもりか」
男は答えない。
答えられないのだ。
ユリウスの目から、ようやく“整えられた正しさ”の膜が剥がれ始めていた。
「記録官」
「は、はい」
「香炉、灰、納品記録、手紙、花片、すべて封印保管しろ。管理局側と関係者の出入りも止める」
「殿下!」
「黙れ」
初めてだった。
王子の声が、誰かの用意した正しさではなく、自分の遅すぎた判断として響いたのは。
ユリウスはリゼットを見た。
その目にあるのは、かつての断罪の冷たさではない。
でも、だからこそリゼットは静かに思う。
遅い。
あまりにも遅い。
「……私の見誤りだった」
ユリウスが絞るように言う。
リゼットは何も答えなかった。
許すとか、許さないとか。
今ここで言葉にすることではない。
ただ一つ分かるのは、
もうこの人の評価が、自分の価値を決めることはない、ということだった。
騒ぎのあと。
アルヴェインは王城内の控えの間へ移された。
窓を開け、香りの残るものを遠ざけても、発作の余韻はまだ体に残っている。
リゼットは付き添いを下がらせ、彼の前に座った。
テーブルの上には、自分で持ち込んだ薬箱。
香炉の灰。
比較記録。
そして、今まで積み上げてきた証拠。
すべてがつながった今、残るのは一つだけ。
症状の核。
ここで断ち切らなければ、向こうが拘束されても終わらない。
アルヴェインは椅子にもたれ、浅く息を吐いた。
「……顔が悪いぞ」
「辺境伯に言われたくありません」
「そうか」
少しだけ、口元が動く。
こんな状況なのに、その小さなやり取りだけで息がつける。
リゼットは薬箱を開いた。
「今なら、できます」
「何を」
「核を断ちます」
部屋が静かになる。
アルヴェインはすぐには答えなかった。
「発作は広げられました。でも同時に、起点もはっきり出たんです」
リゼットは言う。
「あの誘発で、隠れていた流れが表に出ました」
「危険は」
「あります」
ごまかさずに答える。
「でも、今を逃したら、また奥へ潜ります」
アルヴェインの灰色の瞳が、まっすぐこちらを見た。
試すようでも。
疑うようでもない。
ただ、この選択を共有するための目。
「お前は、やれると思うのか」
「やります」
一拍置いて、言い直す。
「……やりたいです。終わらせたい」
自分のためにも。
この人のためにも。
アルヴェインはしばらく黙っていた。
やがて、目を閉じる。
「任せる」
その一言で、覚悟が決まる。
リゼットは彼の襟元を開き、鎖骨の下へ残る黒い起点に指先を当てた。
まだ熱い。
でも前より、芯が露わだ。
薬液を一滴。
二滴。
その上から、別の中和液を重ねる。
紋様が細く震える。
アルヴェインの呼吸が浅くなる。
「苦しいですか」
「今さらだ」
そう言いながらも、彼の手は椅子の肘掛けを強く掴んでいた。
リゼットはその手に、自分の手を重ねる。
アルヴェインがわずかに目を開ける。
「大丈夫です」
もう、それしか言えなかった。
理屈は尽くした。
記録も積んだ。
最後は、目の前の変化を追うしかない。
黒い起点が、ゆっくり色を失っていく。
外へ伸びる線が、一本、また一本と薄れる。
逆流している。
リゼットは息を止めた。
合っている。
なら、このまま――
アルヴェインの指が、リゼットの手を強く握り返す。
苦痛の波が来たのだと分かる。
でも彼は声を上げなかった。
ただ、逃げずにそこにいる。
「あと少しです」
自分に言い聞かせるように呟き、最後の一滴を起点へ落とす。
次の瞬間。
黒い線が、ふっと消えた。
完全に、ではない。
でも今までのように脈打たない。
熱の質が変わる。
刺すような異常さではなく、
人の体が持つ普通の熱に戻っていく。
「……終わった」
声が震える。
アルヴェインはしばらく目を閉じたまま、やがて深く、初めて楽そうな息を吐いた。
「……軽い」
その一言に、リゼットの胸の奥がほどけた。
泣きそうになるのを、ぎりぎりでこらえる。
「よかった……」
アルヴェインはゆっくり目を開け、重なったままの手へ視線を落とした。
それで初めて、リゼットも自分がまだ手を握ったままだと気づく。
離そうとして、離せない。
「リゼット」
名前を呼ばれる。
やさしい声だった。
あまりにも不器用で、でもごまかしのない声。
「もう、契約で縛る理由はない」
胸がどくりと鳴る。
いつかは来ると分かっていた言葉だった。
「お前の無実は明らかになる。症状の件も、ここまで来れば王都は隠しきれない」
彼の視線が、まっすぐ自分に落ちる。
「辺境へ戻ったら、契約花嫁の話は終わりだ」
リゼットは何も言えなかった。
終わり。
本来なら、喜ぶべきことのはずだった。
自由になる。
役目を果たした。
もう仮の名目に縛られなくていい。
なのに胸の奥に生まれたのは、安堵じゃない。
少しの痛みと、
それ以上に、失いたくないというはっきりした感情だった。
「お前は自由だ」
アルヴェインは静かに言う。
「王都でも、辺境でも、好きに生きればいい」
その言い方が、あまりにもこの人らしかった。
手放すことでしか、大事にできないみたいな言い方。
リゼットはゆっくり息を吸う。
ここで黙ったら、また同じだ。
誰かに決められた物語の中で、本当に言いたいことを飲み込むことになる。
それはもう、嫌だった。
「……嫌です」
アルヴェインの目が、わずかに見開かれる。
「自由になりたくないわけじゃありません」
リゼットは震える声で続ける。
「でも、あなたの隣を離れる形での自由なら、いりません」
声は震える。
でも、止まらない。
「私は、あなたを診て、助けたかった。最初はそれだけだったかもしれません」
指先に、まだ彼の体温がある。
「でも、今は違います」
アルヴェインは何も言わない。
ただ、息を詰めたようにこちらを見ている。
「契約だからここにいたんじゃありません」
やっと言える。
本当に言いたかったことを。
「好きになってしまったから、ここにいたいんです」
静寂が落ちる。
王城の外では、どこかで鐘が鳴っていた。
けれどその音も遠い。
アルヴェインは長いあいだ何も言わなかった。
やがて、握られていた手に少しだけ力が返る。
「……そうか」
たったそれだけ。
でも次に彼が見せた表情は、リゼットの知らないものだった。
冷酷でもない。
苦痛でもない。
諦めでもない。
どうしようもなく安堵した人の顔。
「なら、訂正しないとな」
「……何をですか」
「契約の終わりは、そのまま終わりじゃない」
彼はゆっくり立ち上がる。
まだ完全ではないのに、その動きは前よりずっと軽い。
そしてリゼットの前へ来ると、少しかがんで視線を合わせた。
「改めて言う」
その灰色の瞳は、もう痛みに曇っていない。
「契約ではなく、私の妻になってくれ」
涙が、今度こそこぼれそうになる。
リゼットは笑おうとして、うまく笑えなかった。
でも、それでよかった気がした。
きれいに整った言葉より、
こうして少し崩れたまま返すほうが、自分たちらしい。
「はい」
それだけで十分だった。
後日。
断罪未遂事案は正式に再審理され、リゼットの無実は公に認められた。
アーヴェル伯爵家は王都側との不自然な取引を問われ、セレナもまた涙で覆えない選択の責任を負うことになった。
宮廷魔術管理局側の管理官と薬房の記録も封じられ、アルヴェインに施されていた処置は、治療ではなく制御目的の混成処方として調査対象となる。
けれど、リゼットにとって本当に大事だったのは、そのあと辺境へ戻った朝だった。
雪解けの始まりの光。
辺境伯邸の窓から差し込む、やわらかな朝日。
それを見ながら、ようやく思う。
断罪された夜、自分はすべてを失ったと思っていた。
でも違った。
あの夜の先にあったのは終わりじゃない。
誰にも理解されなかった知識で、
誰より孤独だった人を救い、
そして自分自身の居場所を選び取る未来だったのだ。
「何を見ている」
振り返ると、アルヴェインが立っている。
もう首元を隠す必要はない。
そのことが、何よりうれしかった。
リゼットは小さく笑う。
「本当の始まりを見ています」
そう答えると、アルヴェインはいつもの少しだけ不器用な顔で、でも確かに笑った。