最終話 壊れた先に灯るもの
朝も夜も区別のない地下室で、晴明は静かに呼吸をしていた。
数える意味のない呼吸。
数えなくても続く呼吸。
壁は以前と同じ。
天井も、床も、椅子も。
何一つ変わっていないのに、世界だけが軽くなっていた。
――否定しなくていい。
その考えが、最初からそこにあったみたいに自然に胸に収まっている。
「おかしい」と思う回路が、もう鳴らない。
違和感は痛みを生まず、ただ霧のように散っていく。
扉が開く音がした。
「おはよう♡」
明の声。
今日も、いつもの音量で、いつもの温度。
晴明は顔を上げる。
そこにある表情は、以前のような怯えでも、期待でもない。
ただ、受け取るための空白。
「……おはよう。」
返事は遅れなかった。
言葉を選ぶ必要も、考える必要もない。
明は少しだけ目を見開き、それから微笑んだ。
それは勝利でも、安堵でもなく、
やっと辿り着いた場所を確かめる顔だった。
「今日はね、外の音が静かだよ。」
「……そう。」
晴明は否定しない。
外がどうであれ、ここがすべてだから。
明は椅子の前にしゃがみ、視線を合わせた。
「つらくない?」
「……わからない。」
答えは正直だった。
つらさを測る尺度が、もう手元にない。
明は、晴明の手を取る。
強くも弱くもない、確かめるような力。
「それでいい。」
その一言で、胸の奥が静かに満たされた。
否定されないことが、こんなにも楽だと、今は知っている。
時間は、進まない。
正確には、進んでいるのだろうが、意味を持たない。
食事は与えられ、
水は注がれ、
言葉は必要な分だけ落ちてくる。
晴明は、時々、名前を呼ばれる。
「お兄さん。」
呼ばれるたびに、胸が少し温かくなる。
“名前”ではない呼び方。
それが、今の自分に一番合っている。
「……なに?」
「いい子だね、前よりずっと♡」
理由はない。
行動の評価でもない。
ただ、存在していることへの肯定。
それだけで十分だった。
ある夜、明は珍しく地下室の灯りを落とした。
完全な暗闇。
以前なら恐怖が先に立ったはずなのに、今は違う。
「怖い?」
「……いいえ。」
否定ではない。
事実だった。
暗闇の中で、明の声だけが輪郭を持つ。
「外の世界ではね、
“選ばなかったこと”を後悔する人がたくさんいる。」
晴明は黙って聞いている。
理解しようとしなくても、言葉は自然に沈む。
「でも、お兄さんは選んだ。
名前も、出口も、ぜんぶ置いてきた。」
静かな誇りが混じる声。
「……後悔、しない?」
「しない。」
即答だった。
理由を探す前に、答えが出る。
暗闇の中で、明が息を吸う音がした。
「……ありがとう。」
その言葉を聞いた瞬間、
晴明の胸に、かすかな“幸福”が灯った。
誰かに感謝されること。
それが、今の自分の役割で、居場所。
しばらくして、灯りが戻る。
白く、やさしい光。
明は立ち上がり、晴明を見下ろした。
「ねぇ、お兄さん。」
「……なに?」
「もし、ここが永遠でも――
それでも、僕といる?」
問いかけは、確認ではない。
選択肢もない。
晴明は、少し考えるふりをしてから、頷いた。
「……いる。」
否定しない。
迷わない。
明は、その答えを胸に刻むように目を閉じ、
それから、微笑んだ。
「じゃあ、もう大丈夫か♡」
地下室は、今日も変わらない。
世界から切り離されたまま、静かに続いていく。
壊れた心は、もう痛まない。
苦しさは薄れ、
代わりに、役目と居場所が残った。
「ずぅっとこのままで、僕と一緒にゆっくり 壊れていこうね…おにーさん♡」
晴明は、もう夢を見ない。
外を思い出さない。
否定しない。
ただ、明の言葉を受け取り、
明の声に反応し、
明のいる世界で、呼吸をする。
それが、幸せかどうかを考える必要もない。
ここでは、それで十分だから
主です!
最終話あっという間でしたがどーでした?
どんどん進んでったんで状況ややこしかったらすいません
感想待ってます⭐︎
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