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名前は田村|真昼《まひる》、年齢32歳、彼女は3年間同棲していた夫と2年前に正式に結婚した。夫の名前は田村|龍彦《たつひこ》、年齢38歳、|飄々《ひょうひょう》した気質で何事にも淡白、性行為に関しても貪欲ではなかった。
「ねぇ、たっちゃん」
「うーーーん、今日はしたくない」
悩ましい下着を身に着けて誘った事もある。
「したくないって、もう半年はしていないよね!」
「そうだっけ」
「そうだよ!」
(たっちゃんは、そう、あれよ、草食系なのよね)
真昼は掴み所のない彼の気質をそう分析していた。
龍彦は木材を扱う<田村工務店>の跡継ぎで仕事場は新居から歩いて数歩の距離にある。朝起きて歯も磨かず当然顔も洗わない。寝巻きのスエットスーツで出勤してゆく。
「もう!ちゃんと顔を洗って!着替えて!」
「はいはい、分かりました」
「はやく!」
「へいへい」
「へいへいじゃないの!」
「へいへい」
この調子でだらしがない。
しかも出勤時間が朝9時と定まっているにも関わらず、向かいにある母屋の母親に起こされるまでベッドの中で丸まっている。
「龍彦ーーー、龍彦、起きなさいーー!」
「ーーーーー」
「龍彦ーーー!起きてるのーーー!」
「ふぁぁぁ」
退勤時間はその日の気分で早々に自宅に戻る日もあるらしいが工務店社長である父親は何も言わない。
「今日は何時に仕事が終わったの!」
「ん、15:00かなぁ」
「信じられない!」
「うるさいなぁ」
「一般常識は何処に行ったの!」
「これがうちの一般常識なんだよ」
「ぐ、ぐぬぅ」
正社員として他社に勤務する真昼としては開いた口が塞がらない。そして片道35分の自動車通勤、疲労困憊で帰宅した真昼が先ず耳にする言葉は「おかえり」ではなく夕食の催促だ。
「ただいまーーー」
「なぁ、飯、まだ?」
「たっちゃん知ってる?今、帰って来たばかりなんですけれど」
「あ、そ」
そして振り返れば土砂降りの中、ベランダで物干し竿にぶら下がったままのバスタオル。
「ねぇ、ゲームする時間があるなら洗濯物取り込んで」
「あ、気が付かなかった」
「そこに見えるでしょう!その目は何の為に付いてるの!」
「・・・・」
「ねぇ、たっちゃん!」
龍彦の世界はオンラインゲームで成り立っている。仕事から帰宅すると翌朝まで仲間たちと|PlayStation《仮想世界》でこの世の平和を守っているのだ。
「返事してよ!」
「へいへい」
(格好良いのになぁ、残念すぎ)
龍彦は透き通る薄茶の瞳、長いまつ毛、通った鼻筋、そり返った薄い上唇、日本人離れした美しい顔の造りで真昼は一目で恋に落ちた。そして|飯事《ままごと》のような同棲期間を経て結婚、これからも二人穏やかに時を積み重ねてゆけるものだと思っていた。
(なんでこうなっちゃったかなぁ)
真昼にとって現在の新婚生活は薔薇色どころか|荊《いばら》に囲まれた歪で素っ気ない毎日の繰り返しでしかなった。
ところが数ヶ月前の金曜日、龍彦に変化が起きた。
「今日はロータリークラブの会合なんだ」
「いつもお義父さんが出席している会議でしょ」
「会議じゃないよ、会食」
「お義父さんは如何したの」
「腰を痛めたんだって、その代理」
「えぇ、たっちゃん、大丈夫なの。太陽の熱で溶けるんじゃないの」
「そうかもね」
龍彦はいつになく早起きをし、髭を剃り、髪型を整えた。そして一番仕立ての良い焦茶のスーツに袖を通した。
「珍しい、お洒落しちゃって」
「お偉いさんの前でスエットスーツはないだろ」
「それはそうね」
そのスーツは真昼と結納を交わした時に着用していた物だった。
「いってらっしゃい」
「うん」
「溶けないでよ」
「頑張る」
ところが龍彦の肢体は太陽の熱さで蕩けて崩れた。それは和紙に水が染み込むようにジワリと真昼の結婚生活に拡がっていった。
真昼は龍彦が身なりを気遣うようになったのは義父の代理でロータリークラブ金沢に出席するようになったからだと考え、その変化を喜んだ。
「今日もロータリークラブなんだ」
「頑張って」
「うん」
(ちょっとは社会人らしくなったわね)
ロータリークラブは地域社会への団体奉仕という名の下に集う著名人の集まりで二週間に一度、クラブ会員|所以《ゆえん》のホテルや料亭などで昼食会を催し親睦を深めている。
「たっちゃんがヘアーサロンに行くなんて青天の霹靂だね」
「そんな難しい言葉、知っていたんだ驚いた」
「失礼な!」
「ごめんごめん」
そして何気に朗らかだ。
「おはよう」
「え、なに、たっちゃんが起きた!天変地異!」
「早起きすると気持ちがいいね!」
「もう7:00過ぎてるけどね」
もうひとつの変化は深夜までオンラインゲームに没頭して自分で起きられなかった龍彦が規則正しい生活を送っている。そこまでは良かった。
「真昼、もう30分だよ」
「今日は遅番だから良いの!」
「でも道が混んでいるかもしれないよ!」
(ーーーーーーうるさい)
早寝早起き、それは良い傾向なのだが逆に真昼が出勤時間にもたついていると「早く行かないの」「いつもより遅いね」とその背中を追い立てるようになった。
「どうしてそんなに急がせるの!」
「遅刻するよ」
「まだ大丈夫よ!」
その言動は《《なにかを行う為に》》真昼の存在を排除しようとしているように思え、決して気分の良いものでは無かった。
(ーーーーよーし)
初めは興味本位だった。
「いってきまーーす!」
「いってらっしゃい」
龍彦に笑顔で手を振った真昼は駐車場から裏手の勝手口に周り込んでリビングの様子を窺い見る事にした。砂利を踏む足音を立てぬようにパンプスをずらし、ドアノブに手を掛けた。
カチャン
軽い音がして扉が開いた。
(よしよし)
キッチンの戸棚と冷蔵庫の隙間からリビングが見渡す事が出来た。ソファに中腰で座る龍彦の横顔が見えた。ボリボリと頭をかき、壁掛け時計を眺める。
(・・・・7:45)
すると龍彦は携帯電話を取り出して顔にかざし顔認証でログイン、手慣れた風に画面をタップする。スピーカーから聞こえる発信音、一回、二回龍彦は二回発信音を鳴らしてすぐにボタンを押した。
(ん?消したの?気が早いわね)
ところが折り返すかのように着信音が流れた。
(ん?)
龍彦の口元は綻び、飛び付くように携帯電話を耳に当てた。とても嬉しそうで話の内容は聞き取れないがただの友だちでない事は確かだ。
(ーーどういう事?)
「あら?真昼さん?」
背後から声を掛けて来たのは母屋の義母だった。
「なにしてるの?」
「ちょっと」
「龍彦は起きてるの?」
「起きてます、電話中みたいです」
「電話、龍彦が電話なんて珍しいわね」
「はい」
「お仕事、遅れるんじゃない?」
「あっ、本当だ、行って来ます!」
「気を付けてね」
義母は真昼の顔を見れば「赤ん坊は出来たのか」「龍彦とは如何なの」と口煩い。けれど今はそれどころではない。
(誰と話していたの)
龍彦の横顔は少年のようにはしゃぎ、声のトーンも上向き加減だった。真昼の中に違和感がポタリと落ちた。
車のハンドルを握る真昼は内心は穏やかではなかった。二回発信音を鳴らして切る、そして折り返しの着信音。
(あれって何かの合図だよね、映画とかドラマでよく見るアレだよね)
同棲期間から約五年、龍彦が電話を掛けている姿を見る事など殆どなかった。
(お友だちと言ったら仮想世界の勇者たちよね)
その龍彦が電話を掛けている。
(こんなに朝早く。サラリーマンじゃない事は確かよね)
同棲を経て夫婦という形に納まってはみたもののスキンシップは皆無に近い、まともな会話も成り立たない。龍彦は|現《うつつ》から切り離された世界に生きている大人になりきれない子どもだった。誘い出さなければ買い物にも行かない、彼の定位置はリビング続きの洋室に鎮座する大画面のテレビモニターとパソコンの前だ。
なんの為の結婚だったのかと日々悩んでいるのは真昼だけのような気がする。
(子どもでも居たらまた違うのかな)
義両親には「孫はまだか」と顔を合わせる度に言われるが性行為が皆無で如何して赤ん坊が授かると言うのだ。義母からは<不妊検査>の検査を受けなさいと言われ、渋る龍彦を説得してマタニティクリニックで検査を受けて来たところだ。
(たっちゃんにとって私はなに)
赤信号で停車したルームミラーに映る真昼は二重の黒目がちな大きな瞳、通った鼻筋、ぽってりとした唇で愛らしい顔立ちをしている。豊満な胸、程よくくびれたウェスト、手足も長く女性として見栄えは悪くない。それでも龍彦の指は真昼に触れる気配がない。
(もう半年、一年近くしていない、これってセックスレスだよね)
そして目にした夫の不可解な行動。
(相手は女の人、しかもなにかの合図をしなければならない相手)
砂漠のように《《枯れた》》夫婦生活にポタポタと滴れるその気配。
(ーーーーまさか、相手の女の人も家庭がある|W《ダブル》不倫とか)
昼下がりのドラマや映画の世界で繰り広げられる不倫行為。
(そんな、たっちゃんに限ってそんな筈はないわよね)
真昼は疑いの心を打ち消すようにアクセルを踏んだ。