時也は、ぼんやりと
桜の花弁が舞うのを見つめていた。
直ぐ隣からは
穏やかな青龍の寝息が聞こえる。
青々とした草原が広がる丘の上
桜の木の枝の上
知らぬ世界の風が吹く。
新しい命が芽吹くような、温かな風。
だが⋯⋯
時也の胸を満たすのは
そんな柔らかなものではなかった。
置いてきた世界の事を
思い出す。
かつて生きたあの世界。
地に根付いた、陰陽師の血統。
栄華を極めた、貴族の秩序。
神々と交わる事を許された者たち。
しかし、今や其処には──
神々は⋯⋯いない。
「⋯⋯滅んでいればいい」
静かに呟く。
桜の花が、さらりと肩に落ちた。
神を失った世界は
どうなっただろうか?
あの夜、十二神将は全て喰われた。
この世を守護していた
神々の化身が跡形もなく消えた。
陰陽師達は
あまりに強き神威を失い
術を行使する基盤すら失っただろう。
神威を受け
繋がっていた力の総てが
断ち切られたのだ。
術師達は混乱し、動揺し
神を呼び戻そうと
無駄な足掻きを
繰り返しているのだろうか?
それとも──
既に、崩壊しただろうか?
王がいなくなった国は
秩序を失い、混乱に陥る。
陰陽師の権力が揺らぎ
貴族達はもはや
己の力のみで生きねばならない。
ある者は術を捨て
ある者は神を呪い
ある者は絶望に沈む。
それでも
あの世界の人々は
生きる事に縋るのだろうか?
神の庇護が無くなった世界で。
ー哀れだー
ー愚かだー
ーだから⋯⋯滅べばいいー
時也は目を細めた。
どちらにせよ
今頃あの世界は
秩序を失い
破滅へと向かっているのだろう。
それでいい。
何もかも
全て滅んでいて欲しい。
「雪音のいない世界など⋯⋯要らない」
穏やかに、そう思う。
例え
どれ程の人々が叫ぼうと
どれ程の者が生き延びようと
もう、あの世界は
時也にとって無意味なものだ。
雪音がいない。
ただそれだけで
あの世界は無価値だ。
だから
どうなろうと知った事ではない。
炎に焼かれようと
戦乱に飲まれようと
飢えと疫病に滅ぼされようと。
どうでもいい。
ただ、滅んでいればいい。
寧ろ、一刻も早く⋯⋯滅んでしまえ。
彼が手を伸ばすべきものは
もう無いのだから。
時也は
枝に咲き誇る桜の花弁を
指先でそっと弾いた。
新たな世界の風が
それを遠くへと運んでいく。
何処までも
何処までも
遠くへ──
ふと桜に混じって
〝血の匂い〟がした。
それは何処か懐かしく
それでいて
胸を刺すような鋭い香り。
(⋯⋯血の、匂い⋯⋯?)
時也の鼻を擽るその刺激が
眠りに落ちる寸前だった意識を
淵から引き戻した。
ゆっくりと瞼を開く。
桜の花弁が
淡く光を受けながら
舞い落ちている。
ぼんやりとした意識のまま
時也は枝を掻き分け
下を覗き込んだ。
その瞬間──
寝惚けた身体が⋯⋯枝を掴み損ねる。
「──っ!」
重力が時也の身体を引き落とした。
木々のざわめき。
風の流れ。
視界が、回転する。
そして
地面に叩きつけられた。
衝撃に息が詰まる。
しかし
痛みを感じるよりも先に
彼の視界に
飛び込んできたものがあった。
一人の⋯⋯〝女〟
腰まで靡く
陽光を凝縮したような金色の髪。
白磁のように滑らかで
夜闇の月のように艶めく肌。
そして、燃ゆるような深紅の瞳。
時也の鼓動が
雷のように駆け巡った。
「⋯⋯⋯⋯美しい」
彼は瞬時に魅入られた。
まるで
この世界の理から
外れたかのような存在。
この世のものとは思えぬ程
鮮烈な美しさを持つ女。
その深紅の瞳が
時也を真っ直ぐに 見つめていた。
鋭く、冷たく
しかし何処か虚ろで
何かを探すような眼差し。
だが、次の瞬間──
時也の鼻を
より強く血の匂いが刺した。
「⋯⋯っ!」
時也は飛び起きた。
「なんて⋯⋯酷い!今、治療をっ!!」
彼の目に映ったのは
無惨な傷を負った女の姿。
足は裂けた傷口から
脈に合わせて血が溢れている。
腕は、あらぬ方向に
だらんと向いていた。
時也は
躊躇いなく着物の袖を食いちぎる。
「⋯⋯すぐに止血を⋯⋯っ」
咄嗟に彼女の脚に布を巻き
きつく結び止める。
さらに、桜の枝を折り
植物の力を使って蔓を伸ばす。
「⋯⋯っ!」
枝を添え木にし
蔓を巻き付けて腕を固定する。
全ては、迷いなく行われた動作だった。
しかし──
「⋯⋯痛みは⋯大丈夫ですか?」
恐る恐る
時也は彼女の顔を覗き込んだ。
その深紅の瞳が
さらに見開かれる。
何かを言う訳でもなく
ただただ
真っ直ぐに時也を見つめていた。
その視線が、時也の胸を焼く。
(⋯⋯何だ、この熱は⋯⋯?)
初めての感覚だった。
その存在だけで
彼の中に雷が駆け巡るような──
言葉にできない衝動。
そして──
彼女の口が、僅かに動いた。
「⋯⋯お前、魔女なのに⋯⋯」
「⋯⋯え?」
「私が⋯⋯恐ろしくはないのか?
憎く⋯⋯ないのか?
この血を、欲し求めぬのか?」
時也は、一瞬だけ眉を寄せた。
魔女?
血?
「⋯⋯いえ、僕は⋯⋯」
時也は、ゆるりと首を振る。
「まだ貴女の事も
それどころか、この世界の事すらも
何一つ知らないので⋯⋯」
彼女は、沈黙した。
時也を、じっと見つめたまま。
その深紅の瞳に
僅かに揺らぎが生まれる。
しかし、次の瞬間──
彼女は、視線を腕に向ける。
「⋯⋯治療など、不要だ」
そして、強引に蔓を剥ぎ取った。
「⋯⋯っ!
そんな事をしたら、また傷が──!!」
引きちぎられた蔓が
彼女の白い肌に
赤い線を残す。
だが、それは一瞬の事だった。
何事も無かったかのように
肌は直ぐに
元の白さを取り戻していく。
時也の瞳が、驚愕に見開かれる。
さらに、彼女は足の布も剥ぎ取る。
「⋯⋯っ!!」
時也は息を呑んだ。
先程まで裂けていた傷口は
布に血が染み込んでいるだけで
既に跡形も無かった。
「⋯⋯それが
貴女の悲しみなのですね」
時也は、静かに呟いた。
彼女の心が
ぽっかりと穴の空いたように
虚ろな音を立てる。
(⋯⋯⋯僕と、似ている)
時也は、その悲しみに
見覚えがあった。
それは
自分が抱えていたものと
よく似ていた。
「僕は⋯⋯櫻塚 時也、と申します」
時也は
真っ直ぐに彼女を見つめた。
彼女は
しばらく時也を見つめたまま
言葉を発さなかった。
しかし、やがて──
「⋯⋯⋯⋯⋯アリア、だ」
低く、掠れたような声。
時也の中で、その名が響いた。
「⋯⋯アリア、さん」
彼は、その名をそっと繰り返す。
「アリアさん。
僕は、貴女に⋯⋯
一目惚れしてしまったようです」
その言葉に
アリアの瞳が微かに揺れる。
彼女の瞳を見つめる度に
時也の胸の奥が
どんどんと熱くなるのを感じた。
「貴女のお傍に⋯⋯
居させていただけませんか?」
言葉が、溢れるように口から零れた。
己の意思とは関係なく──
ただ、心が
彼女の傍を望んでいた。
この瞬間⋯⋯
時也の運命は
決定的に狂い始めた。
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過去を知り、痛みを知り、それでも願う。 涙に濡れた少女は、壊れた心にそっと祈った。 ──どうか、あなたが幸せでありますように。