レイチェルは
喫茶桜の居住スペース
時也に宛てがわれた部屋で独り
ベッドの中で膝を抱えながら
震えていた。
目の奥が熱い。
何度涙を拭っても
次から次へと零れ落ちる⋯。
「⋯⋯なんで⋯⋯こんな⋯っ」
震える声が
掠れた嗚咽に消えた。
彼女はソーレンの提案で
〝時也〟に擬態した。
擬態能力を持つレイチェルは
その姿になった相手の
人格、思考、記憶すらも
完全にその者になってしまう。
時也に擬態した時
彼の記憶が流れ込んできた。
其処に、広がっていたのはー⋯。
鼻の奥まで
こびりつく血の匂い。
焼け焦げた屋敷の残骸。
そして⋯⋯
張り裂けるような悲鳴。
「雪音ぇええええええええええっっ!!!!」
彼の喉が
引き裂けるような
叫びを響かせる。
その声には
怒りでも、絶望でもない。
もっと原始的で
剥き出しの〝喪失〟が滲んでいた。
目の前には
血に染まった桜色の着物。
膝の上に抱かれた首。
穏やかに微笑む
血塗れの少女の顔。
——その名は、雪音。
彼の〝心の半身〟
時也が、何よりも守りたかった存在。
「雪音⋯⋯雪音っ⋯⋯!」
声にならない嗚咽と共に
時也の体は小さく丸まっていた。
その手には
まるで落としてしまわないように
必死に雪音の首を抱きしめながら⋯⋯
その光景が、頭から離れてくれない。
「──⋯⋯っ!」
息が苦しい。
胸が痛い。
涙が止まらなかった。
「なんで⋯⋯あんまりよ⋯っ」
レイチェルは、独り呟く。
「⋯⋯こんなの、酷いじゃない⋯⋯」
声が震え
唇が噛み締められる。
レイチェルは
枕に顔を埋め嗚咽を漏らした。
ー雪音のいない世界など⋯⋯
滅んでしまえばいいー
時也の心の声が、頭から離れない。
冷たく、虚ろで
それでいて絶望に染まった声。
彼の中で
何度も、何度も
その言葉が木霊する。
それでも
彼は新たな世界に辿り着いた。
アリアと出会い
彼女に〝一目惚れした〟と告げた。
それが⋯⋯
雪音の代わりだったとしても。
彼が、アリアに〝執着〟している
だけだったとしても。
どんなに
歪んだ愛だったとしても──
「⋯⋯幸せに⋯なってほしいよ⋯⋯」
レイチェルは、ぽつりと呟いた。
「⋯⋯だって⋯だって⋯⋯あんなに⋯っ」
時也の記憶が、何度も蘇る。
笑顔の雪音。
時也の隣で、無邪気に笑い
兄を見上げる少女の姿。
その光景が、痛いほど眩しく感じた。
「⋯⋯もう⋯考えるの、やめよ⋯⋯!」
レイチェルは
涙を拭おうとするが
指先が震えて⋯⋯涙は止まらない。
「⋯⋯っく⋯ぅ、う⋯⋯っ」
ベッドにしがみつく。
声を押し殺しながら独り
必死に涙を堪えた。
でも⋯⋯
次から次へと涙が溢れて
枕が濡れていく
「⋯⋯なんで⋯なんでよぉ⋯⋯っ」
ー幸せに、なってほしいー
それは、偽りのない願いだった。
例え、歪んでいたとしても。
例え、雪音の幻影を追っていたとしても。
時也が〝大切な誰か〟と
笑い合えるのなら
今度こそ
その幸せを壊さないでいてほしい。
「⋯⋯雪音さん⋯っ」
逢った事もない少女の名前を
レイチェルは何度も呟く。
涙に濡れた声は
掠れて聞き取れない程だった。
それでも
誰に伝える訳でもなく
ただただ、その名を呼び続けた。
独り、ベッドの中で
声を殺して
泣き続ける事しかできない。
ーコンコン⋯!ー
「レイチェルさん⋯⋯?」
小さなノックの音と共に
時也の声が響いた。
静かで、落ち着いた声。
今一番、聞きたくなかった
だが⋯⋯
今一番、聞きたかった声。
レイチェルは
シーツの中で息を潜めた。
涙で顔はぐしゃぐしゃ
目は腫れ上がり
熱を帯びた頬が火照っている。
声を出す気力も
扉を開ける気力もなかった。
「⋯⋯レイチェルさん?」
再び、ノックが響く。
声は、少しだけ近付いた気がした。
「⋯⋯お邪魔しても、よろしいですか?」
やがて、扉が静かに開いた。
軋む音が、部屋の中に広がる。
「⋯⋯失礼しますね」
時也は、そっと部屋に入った。
薄暗い部屋。
ベッドの上で
シーツの山が、小さく動いていた。
時也は、躊躇いがちに歩み寄ると
ベッドの横に膝をつく。
「⋯⋯レイチェルさん」
静かに、名前を呼ぶ。
シーツの中のレイチェルの身体が
ぴくりと動いた。
「⋯⋯聞こえていますか?」
沈黙が、重く降りる。
時也は
そっとシーツの端に触れようとして
しかし、すぐに手を引っ込めた。
「⋯⋯大丈夫です。
話したくなければ
そのままで⋯⋯構いません」
彼の声は
いつもの穏やかな敬語。
だが、その声音には
僅かに苦しさが滲んでいた。
「⋯⋯ただ、少しだけ
話させてください」
レイチェルは
シーツの中で目を閉じたまま
ぎゅっと拳を握った。
どうしても⋯⋯
顔を見せられなかった。
何も知らない顔で
笑うなんて⋯⋯もうできない。
彼の苦しみを──
知ってしまったのに。
「⋯⋯僕の記憶を
見てしまったのですね⋯⋯?」
その言葉に
レイチェルの肩が震えた。
「⋯⋯雪音の、妹の事を⋯全部⋯⋯?」
「⋯⋯うん⋯ごめん、なさい⋯⋯」
「どうか⋯⋯謝らないでください」
時也の声は、何処か苦しげだった。
「レイチェルさんが
僕に擬態した後に⋯⋯
貴女の心の声が
僕に伝わりました⋯⋯」
彼は、ゆっくりと続ける。
「僕の過去を知ってしまって⋯⋯
辛い思いをさせましたね。
僕の方こそ、すみません」
「⋯⋯そんなの⋯⋯っ」
レイチェルはシーツの中で
ようやく声を絞り出した。
「そんなの⋯⋯つらいのは
時也さん、なのに⋯⋯」
声が震えた。
嗚咽が、また込み上げる。
「あんなに⋯⋯
あんなに、大切だったのに⋯⋯
雪音さん⋯⋯っ」
レイチェルの声が詰まった。
涙が、シーツの中で再び溢れ出す。
「⋯⋯雪音さんがいなくなって⋯⋯
でも、時也さんは⋯⋯っ」
声が、震えの中に紛れていく。
「⋯⋯アリアさんを⋯っ」
「……ええ」
時也の声が、微かに緩んだ。
柔らかく、寂しげな
笑みが滲む声だった。
「⋯⋯きっと、僕は⋯⋯
あの時、心の何処かで
⋯⋯雪音の代わりを
求めていたのかもしれません⋯⋯」
「⋯⋯⋯でも、僕は」
時也は、そっとシーツの端に触れた。
「⋯⋯最初は、そうだったとしても
今は心から⋯アリアさんを愛しています」
レイチェルは
シーツの中で顔を埋めた。
涙が止まらない。
言葉が上手く紡げない。
「⋯⋯どうか⋯⋯」
レイチェルは頭から被ったシーツを
掴む指に力を入れた。
「⋯⋯どうか、幸せに
⋯⋯なってください⋯⋯っ」
絞り出したその声は、懇願だった。
「どんなに歪んでいても⋯⋯
どんなに、傷付いていても⋯⋯っ」
「⋯⋯雪音さんは、いない、けど⋯」
「アリアさんと⋯⋯!」
「⋯⋯時也さんが!
幸せに、なって、ほしい⋯⋯っっ」
レイチェルは
声を押し殺しながら泣いた。
まるで、壊れた蛇口のように
涙が止まらなかった。
その涙を
時也はただ黙って聞いていた。
やがて、彼はそっとシーツの上から
レイチェルの頭に手を添えた。
「⋯⋯ありがとう」
その声は、震えていた。
穏やかで、深くて、何処か切なかった。
「ありがとう⋯⋯レイチェルさん」
レイチェルは
涙に濡れた顔をシーツに埋めたまま
小さく頷いた。
敬語が取れた時也の言葉が
仮面を脱いだようで⋯⋯
それ以上、何も言えなかった。
ただ
時也の手の温もりを感じながら
彼の幸福を
何度も、何度も
心の中で願い続けた。