テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
latte
642
#極道
鷹槻れん

9,425
鷹槻れん

11,068
鷹槻れん

30,726
第2節 千崎雄二『百の香り』―1―
水曜の午後。
カーテンは半分だけ閉じられていた。
柔らかな光が、シーツの皺を淡く照らしている。
百合香の指先が、雄二の肩をなぞる。
「今日は、来てくれるの、少し早かったね」
低く、甘い声。
いつもの水曜。
雄二は決まった時間よりも早めに百合香の前に姿を現した。
今日はいつも通りに優しく、だけど激情をぶつけるみたいに激しい行為で百合香を愛した。
「ちょっとだけ仕事が片付くのが早かったからな」
さして熱量があるように感じられない突き放すような言い方の中に、照れが隠されていることを、百合香はきっと気付いているんだろう。
一瞬だけ瞳を見開いて、「そう」とつぶやくなり、ふっと淡い笑みを浮かべる表情からそのことがありありと窺えた。
雄二は銀行員をしていた頃はもっと分かりやすく百合香に愛情を口にしていたことを覚えてくれているだろうか。
こんな風に不器用にしか愛情表現が出来なくなったのは、雄二なりの百合香に対する後ろめたさだ。
百合香はそっと手を伸ばすと、雄二の髪に触れてくる。
それを合図にしたように、雄二は百合香へ顔を近付けた。
口づけを待ちわびるみたいに、二人の吐息が甘やかに混ざる。
その瞬間、床へ脱ぎ捨てられた雄二のスーツのポケットへ入った、携帯電話が無情にも着信を知らせて震えた。
無機質な振動音が、部屋の空気を切り裂く。
百合香の動きが止まった。
動こうとしない駄々っ子を宥めるようにして、百合香がベッド下へわだかまった雄二のスーツを持ち上げる。
中から取り出したスマートフォンを見る表情が一瞬だけ暗くなったのを雄二は見逃さなかった。
「雄ちゃん、……葛西組の人から」
百合香から差し出されたスマートフォンには、『葛西組 真壁』と、表示されていた。雄二の瞳がほんのわずかばかりためらいに揺れる。
「……私のことはいいから、出て?」
雄二は百合香には何も言っていなかったけれど、きっと百合香は相良組の面々からそれとなく聞いて知っているんだろう。自分の妻が、そろそろ産み月だということを――。
雪絵のことを娘のように可愛がっている葛西了道が、雄二と雪絵が住む家の離れに、自分の組のものを配したのはもう十年以上前のことだ。
基本家の外回りをモニタリングしている男たちだが、雪絵も彼らがいることは知っている。自分が不在の時に何かあったら、離れの者たちを頼るように言ってあった。
外出している雄二へ直接電話を掛けず、言いつけ通りそちらを頼るあたりが極道の妻としてはよくできた女だと思う反面、そういうところが可愛くないとも思ってしまう。
その見回り役から直接雄二の携帯が鳴ったということは、きっと――。
「……」
電話に出るよう促してくる百合香を、雄二は我知らずまじまじと見つめてしまう。
今ここでこの電話に応答するということはきっと……百合香にとって聞きたくない事実を聞かせてしまうことになるんじゃないかと思ったからだ。
「雄ちゃん、早く……」
だが、雄二の視線の先、百合香は表情も声も、至極穏やかに見えた。
それにわずかばかり安堵して、雄二は百合香に促されるまま通話ボタンを押す。
珍しく、少し逼迫した様子の男の声。
落ち着いているが、急いているのが分かった。
『千崎さん、奥様が産気づかれました。すぐに病院へ来てください』
奥様。
その言葉が、やけに重く響いた。
雄二は無言で立ち上がる。
シャツを掴む手がわずかに震えている。
百合香はシーツを胸元まで引き上げたまま、雄二を見上げた。
「早く行ってあげて」
それだけ。
責めも、問いもない。
雄二は一瞬、百合香を見つめる。
それから、視線を逸らした。
本来なら夜まで二人きりで過ごすはずの水曜日。愛しい百合香の部屋を、後にする。
ドアが閉まる。
***
残された百合香は、静かに目を閉じた。
――今日は、水曜日。何もこんな日に生まれてこなくても……と思ってしまってから、泣きそうになりながら首を振った。
子供の誕生に、こちらの都合を押し付けていいはずがないのだから。
***
差し出されるままに握っていた手に、痛いくらいに込められていた雪絵の力がようやく緩んだ。
声なき悲鳴とともに、雪絵の乱れた吐息が室内に響く。
次の瞬間、「ほぎゃぁぁぁ」と、甲高い産声が室内を震わせた。
雄二はそこでようやく大きく息を吐き、自分が無意識のうちに呼吸を止めていたことに思い至った。
「おめでとうございます、元気な女の子ですよ」
助産師の短い声。
それだけで十分だった。
血に濡れた小さな身体が、慌ただしく処置を受ける。綺麗だとも、可愛いとも思わない。ただ、五体満足かどうか。それだけが気になっていた。
コメント
2件
雄二さん、子供産まれて変わるのかな?
うわぁ……このタイミングで雪絵さんが産気づくのか。百合香の「何もこんな日に生まれてこなくても」っていう本音と、すぐに首を振って我に返るところがすごく切なかった。責めも問いもせず「早く行ってあげて」って送り出す百合香の強さと、その裏にある寂しさがじんわり刺さる。最後の「五体満足かどうか。それだけが気になっていた」っていう雄二の心情も、父親としてのリアルで何とも言えない。