ウーヴェがクリニックを開院して間もなく、そのクリニックからさほど離れていない賑やかな通りから通り一本離れた一角に、田舎でよくある農家が経営しているガストハウスを思い起こさせる外観の料理屋が開店した夜、ウーヴェが小さな花束とワインを持ってその店を訪れる。
店の外観を時間を掛けて見つめていたウーヴェは、店内からも見られていることに気付いておらず、軒先に銅か何かで流暢な文字でゲートルートと書かれているのを読み取った時、ドアベルの澄んだ音が響いて思わず飛び上がりそうになる。
『なーにを看板ばかり眺めてんだ、ウー?』
その声にウーヴェが眼鏡の下で瞬きをするが、眼鏡をそっと外してスーツの胸ポケットに差し込むと、ギムナジウムや大学で知り合った友人達が見れば驚愕に言葉を無くすか嫉妬してしまうほどの笑みを浮かべ、手にした花束とワインボトルをそのままに、満面の笑みを浮かべる幼馴染みの背中に腕を回す。
『バート、やっとお前の城が完成したな』
『ああ。やっとだ。これでお前が食いたい料理を作ってやれる』
幼かったあの時、将来の夢をウーヴェが一冊の本から得たようにベルトランもウーヴェから得ていたが、その夢がようやく叶ったと笑い合い、互いの背中や肩を叩き合った幼馴染みは、店の中から控え目に笑いかけてくる青年に気付き、ウーヴェがその笑顔で我に返って咳払いをする。
『彼は?』
『ライナーだ。前に一緒のガストハウスで働いていたんだけどな、独立するって言ったらついてきてくれたんだ』
『そうなのか?』
『ああ。とりあえず、二人で何とか切り盛りしていくつもりだ』
『人を沢山雇えるような店に早くしろ、バート』
『はは、そうだな。今日はお前が来ると思ってリンゴのタルトを焼いておいた。来なければ明日クリニックに持って行こうかと思ってたけど食って帰るか?』
互いの進路を夢に向かって定めたあの日に食べさせると約束したリンゴのタルトを焼いたことを教えられ店内に二人で入ったウーヴェは、幼馴染みを慕って付いてきてくれた彼に手を差し出し、幼馴染みをこれからも支えてやって欲しいと伝えると彼も真剣な顔で頷き、ウーヴェが差し出すワインボトルと花束を受け取ってパーティションの奥へと姿を消す。
『なかなか良さそうな人だな』
『ああ。誠実だな』
これからこの店を二人で繁盛させるつもりだからお前も毎日店に顔を出せとベルトランが笑ってウーヴェのネクタイのノットを指先で突くと、ウーヴェが喉に何かを詰めたような声を出す。
『相変わらず食うことに興味はないのか?』
『……これでも、少しは食べるようになったぞ』
『そうか? ああ、そうだ』
いつか必ず三つ星レストランとはいかなくともガイドマップに載るようなガストハウスになる、そうなれば予約を取らなければならなくなるだろうからお前専用のテーブルを作ってやったと笑う幼馴染みにウーヴェが目を丸くするが、先程誠実な人柄と褒めた彼が姿を消したパーティションの奥へと手招きされて近寄ると、二人がけのテーブルが厨房からしか見えない位置に置かれ、一人用のテーブルセッティングがなされていた。
『一人で来るときはここを使え。ここはお前専用だ。まあ、もしかすると俺やライナーがここでメシを食うことがあるかも知れないけど、お前以外には使わせない』
幼馴染みの心遣い-というよりはごく自然な特別扱い-に素直に頷いたウーヴェは、誰かと来ることがあればあの窓際の席が良いと指さし、どの席だとベルトランとライナーと呼ばれた青年が顔を出す。
窓際の席からは横長の楕円形の中でバレエのポーズを取っているように片足を上げている女性と、その彼女の名前と思われるゲートルートという店名が流暢な文字で装飾されている看板がよく見えるのだ。
店に入る前もじっと見つめていたその看板がウーヴェの琴線に触れるものだったのか、どうせならば美味しいものを食べているときに目に入ってくるのが心が気持ちいいと思っているものであって欲しいと笑うと、ベルトランが意外そうに目を見張るが幼馴染みの言葉に腕を組んで頷く。
『看板、気に入ってくれたか?』
『ああ。良いな、あのデザイン』
ガストハウスはどっしりとした料理を食べさせてくれる雰囲気だしメニューもそういった感じだろうが、看板は繊細で優美さを感じさせる。どんな由来があるとウーヴェが笑うと、初めて下働きした店に眠っていた看板を見つけてそれをオーナーの好意で貰って来たことを教えられる。
『じゃあその店の名前なのか?』
『いや? ゲートルートは何かで見たんだよなぁ』
それの印象がずっと残っていて看板を見た時に店の名前にしようと決めたとベルトランが肩を竦め、立ち話をしていないで何か食って行けと笑ってウーヴェの背中を軽く叩くとついさっき自分専用のテーブルだと教えられたそこに腰を下ろす。
『今日は何を食べる?』
『……メニューにあるもので一番簡単にできるもので良い』
『本当に食わないな、お前は』
『その代わり、お前のガレットが食べたい』
いつだったかおばさんに食べさせる為に作ったと言って持ってきてくれた事があっただろう、あれを食べさせてくれと笑うとベルトランの顔に自慢の笑みが浮かび、分かったと頷いた為ライナーと呼ばれた青年がカウンターの中で支度を始める。
『ゆっくりして行けよ』
『ああ。そうする』
ここに座っていれば店内からは決して見えないし、人がいるとは思わない為に本当にくつろげる場所だと頷いたウーヴェは、程なくして食材が焼かれる匂いと音に珍しく胃袋が素直な声を上げる。
『ライナー、ビールとチーズを出してやってくれ』
『はい』
料理が出来るまでの間食べていろと差し出されるチーズとビールだったがそれをありがたく受け取ったウーヴェは、幼馴染みが料理をする姿を少し離れたテーブルから頬杖を付いて見守り、希望のガレットが出てくるのを随分と久しぶりに早く来い、早く食べさせてくれと思いながら心待ちにするのだった。
リオンが命の水と一緒にウーヴェとその家族に与えたのは、彼らを長年苦しめている事件の本当の意味での解決と家族間の溝を埋めるための契機だった。
その方法はウーヴェの涙と共に本心を吐露させるというある種の強硬手段ではあったが、リオン自身が常々口にするようにウーヴェのような人の心に入り込める言葉も手段も持っていないため、愛する人の心にある封印を強引に破りその痛みに耐えて貰わなければならなかった。
大の男が子どものように大泣きするというある意味恥ずかしい顔をウーヴェは素直にリオンに見せ、また見せられた方は己の言葉に素直になってくれた感謝を伝える代わりにどんな顔を見せられようとも言葉を投げかけられようとも全力でそれを受け止め受け入れ、そしてもう大丈夫なのだと安堵させるだけだと腹を括ったのだが、その結果が今リビングを満たす穏やかな空気と言い表せない安堵感だと気づき、己の腿に座ったまま肩に懐くように寄りかかっているウーヴェの白い髪に手を差し入れたリオンは、何だと言いたげに顔を僅かに動かすウーヴェの髪にキスをし、頭は痛くないのかと問いかける。
「……平気、だ」
「そっか。今日はこれからどうする?」
その問いかけは室内にいた皆に対するものにもなったのか、レオポルドとギュンター・ノルベルトが顔を見合わせ確かにまだ午前中だと苦笑すると、少し離れた場所から家族を今までのように見守り続けていた老夫婦が顔を見合わせ昼の用意をすると笑う。
「ハンナのメシ食えるのか!?」
ハンナが笑って告げた言葉に敏感に反応したのはリオンで、何故お前が一番嬉しそうなんだとギュンター・ノルベルトが眉を寄せると、初めてウーヴェの過去に触れることが出来た時、ヘクターの家で食べたスープが美味しかったこと、そのスープは今ではウーヴェが作ってくれる料理の中でも定番中の定番になっていることを満面の笑みで伝えると、ウーヴェの背中を撫でて髪に頬を宛がうように顔をすり寄せる。
「俺の仕事がすげー忙しい時とか疲れてるときにオーヴェがレバーケーゼのスープとスクランブルエッグを作って食わせてくれるけど、それがすげー好き」
「リオン……」
「マザーの命の水、あいつのドーナツ、アリーセが教えてくれたスクランブルエッグとハンナのスープ。全部好き。ドーナツはもう同じものは食えないけど、それでもオーヴェが作ってくれる」
今まで己の心に深く残る食べ物は中には最早再現は不可能なものもあるが、それでもそれに近づけようと努力して作ってくれる人がいる、そうして受け継がれていくものがあることは幸せだし受け継いで行ってくれる人がいることは本当に嬉しいことだと笑い、だからオーヴェ、ハンナと一緒にいられるときにいっぱい料理を教えて貰ってくれ、ムッティの得意なお菓子もアリーセの料理もと笑い、顔を見下ろしてくるウーヴェに笑いかける。
「……うん」
「今日のおやつはカスタードプディングとリンゴのタルトだし。お前の好物ばかりだから次に来たときはチーズケーキ作って貰って良いか?」
「ああ」
そう言えばリオンがウーヴェの好きだったお菓子を作ってくれと言っていた事を思い出したイングリッドとハンナは、おやつに食べるそれらを作らなければと顔を見合わせ、準備に掛かりましょうと笑い合う。
ハンナとヘクターが田舎のあの村に引っ越してから料理人を雇って普段の食事の支度をして貰っているのだが、彼らにも手伝って貰おうとイングリッドがソファから立ち上がり、今日のお昼は気になるが何だか疲労困憊の気持ちだとレオポルドが苦笑したため、軽く食べるものを用意するが今夜はどうすると皆の顔を見回す。
「リオン、あなた明日は仕事でしょう? 今夜は泊まって帰るのですか?」
今ここにいる者達はイングリッドとアリーセ・エリザベスを除いた皆は仕事を持っているが、ハンナがここにいる間は休暇を取っている為、明日仕事に行かなければならないのはリオンただ一人で、その事実にリオンの顔がみるみるうちに曇っていく。
「あー、明日からまーたクランプスの顔を見なきゃならねぇのかぁ」
ああ、イヤだイヤだ。あんな怖い顔を見続けたくない、助けてオーヴェとウーヴェの腰にぎゅっと腕を回してしがみつくが、刑事は天職だろうと笑われて口を尖らせる。
「ここから出勤するのは時間が掛かるでしょう? どうするの?」
リオンのまるっきり拗ねた子どもの態度に呆れ、先程まで見ていた顔と今のそれが同一人物のものとは到底信じられないが、この切り替えの早さやきらきらと目を光らせる子どものような顔から一気に達観した老人のような顔になるリオンの心のありようが本当に不思議だったアリーセ・エリザベスだが、ウーヴェにもしっかりと引き継がれている心配性を発揮して問いかけると、あの広い家で一人で寝るのはイヤだ、今日も泊まって帰る、明日は多少朝が早くても頑張ると宣言するが何かが気になったのかウーヴェの顔を窺うように見上げる。
「良いか?」
「ああ。……仕事に行くときはAMGを使え」
「ん。ダンケ」
と言う訳で今夜はここで泊まること、明日の朝飯が楽しみだと今日の昼食も夕食も食べていないのに明日を楽しみにするリオンに皆が呆れた様に笑うが、ウーヴェが小さく欠伸をしたことに気付いて部屋に戻るかと問いかける。
「……うん」
「分かった」
リオンの腿の上からようやく降り立ったウーヴェは皆に見つめられていることに気付いて僅かに目尻を赤くすると、少し疲れたから寝てくると伝えて残念そうな顔のハンナの頬にキスをし、昼を食べないから夜は沢山食べると思う、美味しいものを食べさせて欲しいとも伝えてハンナを笑顔にさせ、リオンの頭にキスを残して部屋を出る。
「……俺も寝てこようかなー」
ウーヴェが開けたドアが静かに閉まった瞬間誰からともなく溜息をつくが、それは今までにない明るさを感じさせるもので、この家族を覆っていた真冬の分厚い雲のような空気がその溜息によって薄れていくのを感じ取ったリオンは、安心したような笑みを浮かべて膝に手をつく。
「ウーヴェを頼みますね」
「今日の晩飯を親父や兄貴と一緒に食えたらもう大丈夫。あと少し時間は掛かるけど、オーヴェの中で事件が収まるべき場所にちゃんと収まると思う」
食べる事への関心の薄さの由来は間違いなくあの事件だからそれを解消すれば残る問題はあと一つ、ハシムの弟と会うことだけだと告げてジーンズの尻ポケットに手を突っ込んだリオンは、ああ、もう一つ問題があると告げレオポルドに促されて肩を竦める。
「今年のヴィーズン、一緒に行ってくれねぇかなぁ」
付き合いだしてから一度も行けていない世界中に名の知れ渡るビール祭り、それに一緒に行って限定のビールを飲んでチキンを食いたい、そしてあわよくばレーダーホーゼンを着て欲しいと嘆息するが、さすがに子どもの頃以来着ていないので持っていないこと、そもそもあの子がハーフパンツを穿くだろうかとギュンター・ノルベルトが顎に手を宛がうと、絶対に似合うと思うのになぁとリオンが呟き、まあそれは折を見て説得するがとにかくヴィーズンにだけは一緒に行きたいと再度告げて大きく伸びをし、ウーヴェと一緒に寝ているのでおやつが出来たら起こしてくれとも残し、呆れ顔の恋人の家族に手を振って大股に部屋を出て行くのだった。
リオンがウーヴェの部屋に戻った時、ウーヴェはレオポルドの書斎に残してきた巨大なテディベアを持って来たようで、窓際のソファ前に鎮座しているのを発見し、そのソファで横臥するウーヴェにも気付くと静かに近寄ってゆっくり開くターコイズ色の双眸に笑いかけながら胡座をかいて床に座る。
「今日はホントに疲れたな、オーヴェ」
「……うん」
泣いて笑ってまた泣いて、心の中でずっとずっと出番を待ち続けていた感情に出口を示して涙と共に吐き出したことはかなりの気力が必要だっただろうと笑い敬意を示すように額にキスをしたリオンは、ウーヴェの手がのろのろと上がって先程までのように首に回された為、身体を僅かに傾けるとウーヴェが寝返りを打つように身体を捻る。
「……リオン、本当に……ありがとう」
「うん。さっきも言ったけどさ、お前も親父も兄貴もみんな強い」
一人一人が同じ問題をそれぞれの心の中で抱えて苦しいはずなのに一人で長い年月耐えてきたことは真似できないと手放しで褒めたリオンは、ウーヴェの背中を抱くように腕を回してさっきのように強い力でソファからウーヴェを引きずり下ろすと、そのままウーヴェの身体に覆い被さる。
「オーヴェ、俺のオーヴェ。今まで本当によく頑張った。お前の気持ちはみんなちゃんと分かってる。だからもう事件のことで泣くな。これからは一緒に笑っていよう」
今までもそうだったがこれからもそうしようと笑ってウーヴェの額に額を重ねたリオンは、小さな掠れる声がうんと返してくれたことが嬉しくて薄く開く唇にそっとキスをし、背中に回された手に軽く力がこもったことに気付くと触れるだけのキスを何度も繰り返す。
「リーオ、ありがとう……」
「今夜、兄貴達と一緒にメシが食えたらもう大丈夫だよな?」
繰り返すキスで満足した後にウーヴェが吐息で礼を言うとリオンがそれに目で頷いたが、さっきも告げた様に後少しだけ懸念があるがそれもいずれ払拭されるだろうと笑うと、ウーヴェの目に強い光が宿る。
「ああ……大丈夫、だ」
さっき家族の前で大泣きしてしまったのだ、あれ以上に恥ずかしいことなどないし心身の不調の原因をお前が暴いてくれたおかげでもう何も心配は無いと小さく笑う顔がリオンが褒める強い男の顔だったため、良かったと呟きつつまた惚れてしまうと笑ったリオンは、ウーヴェの手が頭を抱えるように回されたことに目を細めて唇を重ねる。
そのキスが随分と久しぶりに交わすもののようで、どちらもガマン出来ずに離れてはまたキスを繰り返し、息が上がりそうになる直前にほぼ同時に離れると、肩に額を宛がいながら笑い合う。
「……ダメだって分かってるんだけどな」
もし許されるのなら今ここでお前を抱きたいとリオンがウーヴェの肩に告白すると、堪えてくれと背中を撫でられてやるせない吐息を零す。
「……さっきのオーヴェ、マジで可愛かったもんなぁ」
子どもみたいに大泣きする顔も可愛いが、その後に降り続いた雨が一気に上がったときの空模様と同じ笑顔を浮かべたウーヴェが本当に愛おしいと今度は肩ではなくウーヴェの顔を見下ろしながら告白したリオンは、照れたように赤くなる目尻のほくろにキスをして覆い被さる。
「明日から仕事だけど、仕事が遅くなってもここに来ても良いか?」
あの広い家で一人で寝ることには耐えられそうにない、だから例えどれほど遅くなり翌朝の出勤が辛くなったとしてもお前のいる場所に横に帰ってきたいとリオンがそっと本心を告げると、ウーヴェの手が優しくリオンの背中や肩、そして頭を撫でる。
「ああ。……俺もお前が帰ってくるのをここで待っている。だから遅くなっても帰って来い、リーオ」
「ああ」
例えどこにいたとしてもお前が帰ってくるのをこうして抱きしめてくれるのを待っていると穏やかな声で告げたウーヴェにリオンが無言で頷き、明日からの仕事も頑張ることを伝えて床の上ではなくベッドで一緒に寝ようと誘いかけてウーヴェを引き起こすと、そのままベッドに縺れ込んで鼻先がくっつきそうな距離で笑い合う。
「おやつが出来るまでお休み、オーヴェ」
「ああ……お前も、リオン」
二人で暮らすあの家のベッドの中で夜ごと繰り返される言葉を何となく照れながら交わし合った二人だが、いつもの習慣というのは気持ちを落ち着かせる効果も持っているのか、程なくしてどちらのものかが分からない穏やかな寝息が流れ出すのだった。
結局その日、二人はおやつが出来たと起こしに来たハンナの声にも気付かずに眠り続け、満足したと目を覚ましたのは皆で食べる夕食に用意されていたチキンが美味しそうに焼き上がる直前だった。
匂いで目が覚めたと笑うリオンに少し照れながら頷いたウーヴェは、ギュンター・ノルベルトの姿がダイニングにないことに気付き、事情を知っていそうなアリーセ・エリザベスに問いかける。
「……キッチンで食べるって言って聞かないのよ」
午前中の出来事は彼の中で衝撃を持って受け入れられたのだが、まだ信じられない、フェリクスと一緒に食事が出来るとは思えないと言い残し、自分はいつものように一人で食べるからと妹の頬にキスを残してダイニングを出て行ったと教えられて軽く目を瞠ったウーヴェは、リオンの手が腰にそっと回されてキスをされたことから力を分け与えてくれたことに気付いて頷く。
「……まだ食べないで欲しい」
食事の用意が並んだテーブルを見回しもう少しだけ待っていてくれと言い残してギュンター・ノルベルトと同じようにダイニングを出て行ったウーヴェは、背中に疑問と期待とそれ以上に信じている思いを感じつつキッチンのドアを開けると、ヘクターとハンナと一緒に小さなテーブルに座って今まさに食べ始めようとしているギュンター・ノルベルトに気付き、躊躇うように何度か口を開閉させた後、震える声で兄の名を呼ぶ。
「ノル……」
「……どう、した?」
兄は兄で緊張しているのか珍しく口ごもりながらもウーヴェに正対するように身体を向けると、ウーヴェが小さな小さな笑みをギュンター・ノルベルトに向けて浮かべ、一緒に食べようと誘いの声を掛ける。
「フェリクス……」
「あっちで、みんな一緒に食べよう、ノル。ヘクターもハンナも一緒に食べよう」
ウーヴェのその言葉に三人が目を瞠って顔を見合わせるが、言葉がもたらす衝撃に目を瞬かせるギュンター・ノルベルトの皿をヘクターが素早く取り上げ、ハンナもそんな夫の行動に従う様に立ち上がるとギュンター・ノルベルトに向けて笑顔で頷く。
「ギュンター様」
「良いのか?」
「うん……もう、ノルだけ、一人で食べなくて、いい」
己の本心を吐露したのは今日の午前中だった為、まだまだやはり緊張してしまうことから言葉が途切れ途切れになるが、それでもみんなと一緒に食べようとウーヴェが誘いの言葉を伝えると、ギュンター・ノルベルトが拳を握っては開くを何度か繰り返し、ウーヴェの目に頷いて立ち上がる。
「今日のこのチキンに合わせるワインは何が良いと思う、フェリクス?」
「……白のスパークリング、か……な」
「そうか」
二人が肩を並べて前を歩く姿にハンナとヘクターの目に涙が浮かぶが、彼女たちが今のように仲良く歩く姿を見たのが事件の前だと思い出し、いつの間にかウーヴェの肩がギュンター・ノルベルトと並ぶほどの高さになっていること、歩く背中がそっくりであることに気付くと、遙かな昔、レオポルドとギュンター・ノルベルトが肩を並べていた時のことまで思い出されてしまうようで、ハンナが前掛けで目元を押さえるとヘクターも服の袖で顔を拭う。
背後からなにやら鼻を啜るような音が聞こえたことに二人同時に振り返り、祖父母のように接してくれている老夫婦が泣いていることに気付くとウーヴェが慌てて駆け寄り、ギュンター・ノルベルトもゆっくりと彼らの前にやってくる。
「ハンナ? どこか痛いのか?」
「いいえ、いいえ、ウーヴェ様。痛くなどありませんよ。嬉しいのですよ」
「ハンナ……」
彼女の言葉にウーヴェが目を瞠るが遠慮がちに頭に乗せられた手に上目遣いになると、少しだけ高い場所にある兄の目が優しく細められていることから、ハンナの喜びが自分たちの和解にあると気づきハンナとヘクターの肩をそれぞれ撫でる。
「二人にも今まで心配を掛けた……ありがとう、ハンナ、ヘクター」
ウーヴェの言葉に感極まったのかハンナが両手で顔を覆い隠して声を上げて泣き出したため、さすがにこればかりはギュンター・ノルベルトもウーヴェも慌てるしかなく、ああだの大丈夫だのと言いながら彼女のいつの間にか小さくはなってしまったがそれでも変わらない暖かな身体を抱きしめ、泣かないでくれと懇願するしか出来なかった。
今日は本当に皆良く泣く日だとギュンター・ノルベルトが微苦笑するが、ヘクターがそそくさと皆が集まるダイニングに向かったことから、きっと彼も今泣きたいが必死に堪えているのだろうと気持ちを察しハンナの背中を撫でて泣くなと宥めるが、ヘクターの様子がおかしいことからアリーセ・エリザベスがダイニングから飛び出してきたかと思うと廊下で泣いているハンナを抱きしめて今にも泣きそうな顔になっているウーヴェと、そんな二人を守るように腕を回しているギュンター・ノルベルトに気づき、静かに兄弟の元に駆け寄る。
「フェルまで泣きそうな顔をしているわね」
ハンナの涙の理由は後で聞くからとにかく今はあなたもその顔を何とかしてきなさい、このままだとまたリオンが大騒ぎをしかねないわよと苦笑する姉の言葉に頷いたウーヴェは、ハンナの頬にキスをしもう一度ありがとうと告げてキッチンに逆戻りする。
「ノル……」
「……フェリクスが一緒に食べようと言ってくれた」
「そう」
兄の言葉に妹は短く返すだけだったが、だからといって何も感じていない訳ではないことは彼女の目元が赤くなっていることからギュンター・ノルベルトは気付いていた。
ウーヴェが顔を洗って戻って来たことに笑みを浮かべ、リオンが空腹を訴えてうるさいから早く食べましょうとウーヴェを挟んで左右に兄と姉が並ぶと、ようやく止まりかけていたハンナの涙がまた溢れ出す。
悲しい事件の後、こうして三人が仲良く肩を並べる日が来ることを願っていたが半ば諦めかけていた彼女は、その夢が叶ったことがなかなか信じられなかったが、アリーセ・エリザベスが肩越しに振り返ってハンナを呼んだため涙を拭って笑顔で一歩を踏み出す。
「今日はハンナ特製のチキンのマスタードソースですよ」
「……美味しそう、だな」
ギュンター・ノルベルトとアリーセ・エリザベスの間でウーヴェがハンナの声に笑みを浮かべ、左右からも楽しみだとの言葉が聞こえてくると、リオンも楽しみにしているだろうと当然のように笑うが、その途端左から不機嫌な気配が伝わってきて驚きつつ顔を向けると、ギュンター・ノルベルトの顔に不満がありありと浮かんでいた。
「ノル、あなたリオンを認めるって言ったじゃない」
一度認めたのだからそんな顔をするなと妹に窘められるが、認めたがやはり気にくわない、気に食わないんだと兄が最も子どもじみたことを呟いたため妹と弟が仕方が無いと溜息を零す。
「フェリクス、今からでも遅くない、他にすてきな女性を探さないか?」
このご時世だから男女間の恋愛や同性同士の恋愛についても認めるが、やはりお前には女性と結婚をして子どもをもうけて幸せになって欲しいと半ば本気でギュンター・ノルベルトが告げたとき、ダイニングのドアが開いて話題の主が顔をヌッと突き出す。
「オーヴェぇ、腹減ったから早く来いよー。せっかくの鳥が冷めるだけじゃなくて羽を生やして飛んでいくって」
「……分かった」
確かにリオンの素行は誉められたものではないだろうが、彼以外に己を受け止め支えてくれるような存在は見当たらないこと、心の奥底に眠る思いを強引であれ引っ張り出したが、それごと受け止めてくれるのはやはりリオンだけだと静かに兄に告げたウーヴェは、諦めの溜息が間近に落ちた事に気付くが、二人で幸せになるつもりだから見守ってくれとも告げ、片目を閉じつつ子どもならばあそこにもういると笑う。
「……確かに」
「ああ。だから俺たちの間に子どもはいなくても平気だ」
いつかもしも心境の変化で自分たちの生き様を間近で見守り受け継いでくれる存在が欲しくなった時には公的な機関やリオンの実家である児童福祉施設から子どもを引き取って育てても良いとも笑うが、今はそこにいる万年欠食児だけで手一杯だと告げ、何事だと小首を傾げるリオンの前に駆け寄ったウーヴェは、待たせたお詫びだとその頬にキスをする。
「早く食おうぜー」
「ああ。……ハンナ、ヘクターも一緒に皆で食べよう」
「ええ。ミカも待ちくたびれているわね」
ギュンター・ノルベルトの顔に不満未満納得以上の笑みが浮かんでいることに安堵し、リオンが一足先にダイニングに戻ったのを見送ったウーヴェは、兄の背中に小さくありがとうと告げ、肩越しに振り返るギュンター・ノルベルトの目に頷くと待たせて悪かったと詫びながら席に着くのだった。
その日のバルツァー家の広いダイニングにはその広さをまったく感じさせない賑やかな笑い声や悲鳴じみた声、窘めつつもおかしさをかみ殺す声などの幾種類もの明るく楽しげな声が響き、ここに勤めて長いブルーノが最近入ったばかりのメイドなどに昔はこんな感じで賑やかだったと感慨の滲んだ声で今夜の賑やかさを喜ぶのだった。
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