テラーノベル
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嵐のような日々を越え、俺たちが手に入れた平穏な日常。しかし、白の尽きることのない好奇心が、その平穏に小さなさざ波を立てた。
きっかけは、テレビに映る「街の人気カフェ」の特集だった。
「ご主人様! アタシ、お外でお仕事っていうのをしてみたい! 」
彼女のキラキラとした瞳に、俺は拒絶する言葉を持たなかった。
とはいえ、彼女たちの正体は秘匿されなければならない。俺は知り合いが経営する、静かな路地裏のブックカフェに無理を言って、一日だけの「見習い」として白を預かってもらうことにした。
当日、白は気合十分だった。
「どうかな? ちゃんと隠れてる?」
白は大きめのベレー帽を深く被り、その中に自慢の白い耳を器用に畳み込んでいる。一見すれば、少しお洒落な人間の少女にしか見えない。だが、帽子の下で耳がもぞもぞと動くたびに、首元に光るピンクの首輪の鈴が「チリン……」と秘密を囁くように鳴った。
「⋯⋯ん。⋯⋯白、⋯⋯変なの。⋯⋯アタシは、⋯⋯その格好、⋯⋯嫌い」
客席の隅に陣取った黒が、不機嫌そうに鼻を鳴らす。彼女は「監視役」兼「唯一の身内客」として同行していたが、自分は耳を隠すつもりなど毛頭ないらしく、いつものパーカーのフードを深く被って、ボルドーの首輪を弄んでいる。
「いらっしゃいませぇ! 本日の気まぐれセットですっ!」
フリルエプロンをなびかせ、白は慣れない手つきで接客をこなしていく。彼女が運んでくるのは、縁が少し黒く焦げてしまった厚切りトーストや、形が崩れて黄身が流れ出した目玉焼きといった、見た目こそ「少し残念」だが味は絶品の料理たちだ。
耳を隠していても、彼女の放つメロメロなオーラは隠しきれない。店内の客たちは、その一生懸命でどこか危うい看板娘の姿に、自然と笑みを浮かべていた。
しかし、平穏な時間は長くは続かない。
昼過ぎ、酒の匂いをさせたガラの悪い男たちが数人、場にそぐわない足取りで店に入ってきた。彼らは最初こそ静かだったが、白が注文を取りに行くと、卑屈な笑みを浮かべて彼女の細い腕を強引に掴んだ。
「ねえちゃん、可愛いねぇ。その帽子、何隠してんの? 脱いで見せろよ」
「ひゃっ! ⋯⋯あ、あの、離してくださいっ」
「いいじゃん、減るもんじゃねぇだろ。この後、俺らと遊びに行こうぜ。こんなトコでバイトするより、いい思いさせてやるからよ」
男たちの下卑た笑い声が静かな店内に響く。白は恐怖で身をすくませ、被せられたベレー帽が脱げないよう必死に押さえながら、俺の方を向いた。ピンクの鈴が、悲鳴を上げるように激しく乱打される。
「……その汚い手を離せ。彼女が嫌がっている」
俺が立ち上がろうとしたその瞬間、隣にいた黒が「影」のように動いた。
彼女はフードを深く被ったまま、音もなく男の背後に立つと、その耳元で氷のように冷たい声を落とす。
「⋯⋯アタシの、⋯⋯白に⋯⋯触るな。⋯⋯その指、⋯⋯噛みちぎられたいの?」
黒の瞳に宿る、かつて「黒い悪魔」と呼ばれた頃の冷徹な殺気。男たちは、目の前の少女が放つ、生物的な格の違いを本能で察知して、一瞬で顔を引きつらせた。その隙に、俺は男の手を力任せに振り払い、白を自分の背後へと守り抜く。
「二度と来るな。……失せろ」
俺の拒絶と、黒の射抜くような視線に、男たちは「なんだよ、化け物かよ……!」と震えながら、逃げるように店を飛び出していった。
夕暮れ時。アルバイト体験が終わり、俺たちは閉店後の店内で一息ついていた。
緊張が解けた白は、俺の胸に顔を埋め、畳み込んでいた耳をぴょこんとベレー帽から解放した。
「ご主人様……怖かったぁ……っ。でも、アタシ、ちゃんと耳は隠し通したよ! 褒めて、褒めてくれる?」
白は俺のシャツを握りしめ、安堵でメロメロになった瞳で俺を見上げる。ピンクの鈴が、甘えるようにチリ……と鳴った。一方で黒は、やり遂げた感に満ちた白をどこか冷めた目で見ながら、俺の腕を強引に自分の方へ引き寄せる。
「⋯⋯ん。⋯⋯アタシも、⋯⋯がんばった。⋯⋯お給料、⋯⋯あーんして。⋯⋯白の作った、⋯⋯焦げたパン、⋯⋯食べさせて」
俺は残っていた賄いのトーストを小さくちぎり、黒の口元へ運ぶ。黒はそれを愛おしそうに受け取ると、俺の指先を小さく舐めとり、蕩けるような溜息をついた。
「わかった。二人とも、今日は本当によく頑張ったな。……でも、明日はちょっと予定が変わるんだ」
俺の言葉に、二人が耳をぴくつかせる。
「明日は俺、少し遠出をしなきゃならない。どうしても外せない用事でね。実は、今日の店主さんが『明日も人手が足りないから助けてほしい』って言ってる。白、一人で大丈夫か?」
白は一瞬不安そうに俺を見上げたが、今日の「助けてもらった」という経験と、店主に必要とされた喜びを噛みしめるように、力強く頷いた。
「……うん! アタシ、明日も頑張る! ご主人様が安心して帰ってこられるように、もっと立派な看板娘になるもん!」
しかし、黒はあからさまに不満げな声を上げた。
「⋯⋯ん。⋯⋯アタシは、⋯⋯行かない。⋯⋯あんな、⋯⋯バカな人間がいるところ、⋯⋯もういい。⋯⋯お家で、⋯⋯寝てる」
黒の性格からすれば、妥当な判断だった。彼女は群れることを嫌い、俺の匂いが染み付いた静かな場所を何よりも好む。
「悪いな、黒。明日は一人でお留守番だ。……寂しくないか?」
「⋯⋯平気。⋯⋯ご主人様の、⋯⋯枕⋯⋯独占して、⋯⋯一日中、⋯⋯夢を見るから⋯⋯」
強気な言葉とは裏腹に、ボルドーの鈴はどこか寂しげに、微かな音を立てた。
外に出ると、夕焼けが街を深い朱色に染め上げている。
明日は、白は賑やかなカフェへ。俺は外回りへ。そして黒は、静寂に包まれた家の中へ。
三人が離れ離れになる、初めての長い一日が幕を開けようとしていた。
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