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朝、バタバタと騒がしい音が玄関の向こうへと消えていった。白の「行ってきます! 今日こそ完璧な看板娘になるんだから!」という元気な声と、俺の「戸締まりをしっかりな。寄り道するなよ」という低い声。そして、パタンという乾いた音が、この家からすべての「熱」を持ち去っていった。
リビングに残されたのは、一匹の黒猫と、静まり返った空気だけだった。
「⋯⋯ん。⋯⋯いっちゃった。⋯⋯バカな、⋯⋯白。⋯⋯うるさいのが、⋯⋯いなくなって⋯⋯せいせいする⋯⋯」
黒はソファの上で、人間の姿からふわりと猫の姿へと戻った。ボルドーの首輪についた鈴が、誰もいない部屋で「チリッ」と心細げに鳴る。彼女はまず、俺の座っていた場所へ歩み寄り、まだ残っている微かな体温を確認するように体を擦り付けた。
黒はトコトコと寝室へ向かう。そこは、彼女にとっての「聖域」だ。
ご主人様――俺の枕に頭を乗せ、深く息を吸い込む。そこには、俺がいつも纏っている匂いが濃く残っていた。黒は満足げに目を細め、前足で枕をふみふみと捏ね始める。
「⋯⋯ここは、⋯⋯アタシだけのもの。⋯⋯白には、⋯⋯あげない。⋯⋯ずっと、⋯⋯ここに、⋯⋯沈んでたい⋯⋯」
しばらくの間、彼女は俺の匂いに包まれながら、幸せなまどろみの中にいた。だが、太陽が天高く昇り、部屋の影が形を変えるにつれ、その匂いも少しずつ空気の中に拡散し、薄れていく。
静かすぎる。
時計の針が刻む一定のリズムさえ、今の黒にとっては心臓を急かすノイズのように聞こえていた。普段は白の喋りすぎな声や、俺が発する生活音に紛れていた「沈黙」が、今は重圧となって彼女にのしかかる。
寂しさを紛らわせるように、黒はリビングへ戻ると、床に鎮座する「彼」の前で立ち止まった。
――ロボット掃除機、ルンバ。
俺がいないこの家で、唯一、自律的に動く存在。黒は慣れた手つき(前足)でスイッチを入れ、円盤の上にちょこんと飛び乗った。
ルンバは静かに「ブォーン」と唸りを上げ、無人のリビングを滑り出す。黒は猫の姿のまま、首輪の鈴をチリン、チリンと等間隔で鳴らしながら、主を失った領土を巡回し始めた。
「⋯⋯ん。⋯⋯パトロール、⋯⋯開始。⋯⋯不審な、⋯⋯空気は、⋯⋯ない。⋯⋯埃も、⋯⋯アタシが、⋯⋯許さない⋯⋯」
ルンバは高性能なセンサーで、俺が昨夜脱ぎ捨てたままのクッションや、白が散らかした雑誌を器用に避けていく。黒はその揺れに身を任せ、わざと普段は行かない部屋の隅々まで運ばれていった。
キッチンを通れば、白が朝に格闘した焦げたトーストの、あの香ばしい匂いが微かに鼻をくすぐる。洗面所へ行けば、俺が今朝まで使っていたタオルの湿り気が残っている。
だが、いくら家中を巡っても、求めている「本物の声」はどこにもない。ルンバが優雅に方向転換をするたび、ボルドーの鈴が虚しく鳴った。
ふと、窓際を通ったとき、黒はルンバから飛び降りた。
窓の外には、見慣れた、けれどどこか遠く感じる街並みが広がっている。白は今頃、あのカフェでベレー帽を深く被り、慣れない手つきでトレイを運んでいるのだろうか。誰かに「おいしい」と言われて、耳が動かないように必死に堪えているのだろうか。
そして、俺は。今どこで、誰と、何をしているのか。
「⋯⋯アタシは、⋯⋯ひとりが⋯⋯好きだったはず⋯⋯」
施設にいた頃、冷たい檻の中で独り、誰の体温も知らずに眠っていたあの夜。その時は、孤独なんて言葉すら知らなかった。暗闇こそが安らぎで、静寂こそが日常だった。
けれど、一度俺の温もりを知ってしまった身体は、この静寂を、まるでゆっくりと回る「毒」のように感じてしまう。
日が大きく傾き、部屋がオレンジ色から深い紫へと溶け込み始めた頃。
黒は玄関のマットの上に丸くなっていた。
ルンバは既に電池が切れ、ホームへと戻っている。
黒は人間の姿に戻ることもせず、猫のまま、ただじっとドアを見つめていた。耳を最大限に澄ませ、外の足音に神経を集中させる。
近所の犬の鳴き声。通り過ぎる車のエンジンの低音。遠くで響く子供の笑い声。それらはすべて、彼女が待ち望む「正解」ではない。
「⋯⋯遅い。⋯⋯もう、⋯⋯夜に、⋯⋯なっちゃう⋯⋯」
不安が胸を締め付ける。もし、このまま二人が帰ってこなかったら。もし、この扉が二度と開かなかったら。
そんな妄想が黒の脳裏を過り、彼女はたまらず「ナァ……」と、掠れた声で鳴いた。ボルドーの鈴が、震えるように細かく音を立てる。
その時。
カツ、カツ、カツ……。
遠くから、聞き慣れた足音が近づいてくる。
一つは、軽やかで少し跳ねるようなリズム。アルバイトをやり切った達成感に満ちた、白の足音。
もう一つは、重みがあり、迷いのない、愛しい主の足音。
黒の瞳に、瞬時にして黄金色の光が戻った。彼女は玄関で待機する間もなく、バッと人間の姿へと戻った。フードを被るのも忘れ、隠していた猫耳をピンと立て、ボルドーの鈴を精一杯鳴らしながら立ち上がる。
カチャリ、と鍵が回る音がした。
扉が開いた瞬間、俺の視界に飛び込んできたのは、涙目で、今にも壊れそうなほど震えながら俺の胸に飛び込んできた、一人の黒い少女だった。
「⋯⋯おかえり。⋯⋯遅い! ⋯⋯すごく、⋯⋯遅かったんだから⋯⋯っ!」
俺のコートを掴む彼女の指先は冷えていたが、その心臓の鼓動は驚くほど速く、熱い。
「ごめん、寂しかったか?」
「⋯⋯寂しく、⋯⋯なかった。⋯⋯でも、⋯⋯アタシの心臓が、⋯⋯勝手に、⋯⋯寂しいって⋯⋯言ってただけ⋯⋯」
背後では、白が「あー! 黒、ずるい! アタシの方がずっと頑張ったんだからね!」と騒いでいるが、黒は俺の腕を絶対に離そうとしない。
離れていた時間が、三人の絆をより一層「甘く、重い」ものへと変えていく。
今夜の「ご褒美」は、冷えた黒の心を溶かすために、いつもよりずっと長くなりそうだった。