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「今夜?」
「そうらしい。
その時が来たら連絡するから、
部屋で待機していてくれって」
トゥルーラ侯爵に因縁を付けられた
その日のうちに―――
セシリア様たちのチエゴ国送還が伝えられた。
もちろん、アルテリーゼ(ドラゴンVer)による
夜間飛行の件だ。
「もう夕方だけど……
ずいぶん急だね」
2、3日のうちにと前もって通達されていたので、
そろそろとは思っていたが……
メルの言う通り、慌ただしい一日になりそうで、
思わず大きく息を吐く。
「まあシンはいろいろあったからのう。
それにしても今回の件……
カーマン殿も、わざわざギルドまで
連れて来なくても」
「そーそー。
それにシンの言う通り、本部長で何とか
なったんじゃないのー?」
私を気遣ってか、妻2人が労いと不満を口にする。
「私も思うところが無いわけじゃ
ないけど……
でも2人とも巻き込まれたような
ものだしなあ。
それに、私が対応した方が確実だと
思ったんじゃないかな」
そう言うと、メルとアルテリーゼは
ウンウンとうなずき、
「シンに任せれば、たいていの事は
何とかなるからねー」
「それで厄介ごとを持ち込まれるのは、
ちと考え物だがのう」
まだ若干の文句はありつつも、何とか
トーンダウンしてきたようで―――
そこで帰りの話題を切り出す。
「アルテリーゼが彼らを送り届けたら、
すぐに馬車を用意してもらうよ。
カーマンさんに、一番良い馬車を
出してもらおう」
私が意地悪そうに笑うと―――
彼女たちもつられて笑い出した。
「ところでラッチは?
また職員さんたちのところ?」
「そだね。
みんな夢中で可愛がっているみたい」
「ベタベタに甘やかされるから、いい加減、
注意しておかねばならんかのう……」
ここで家族の悩みは―――
夫の私から子供へと移った。
その少し前―――
本部長室では、姿勢正しく立っている二人の
女性を前に、ライオットが対峙していた。
「―――以上が、今回の尾行の結果です」
「詳細はこちらにまとめてあります」
一人は、金髪を腰まで伸ばした童顔の女性。
またシンやその妻たちの顔見知りの受付であり……
レイドと同じく隠密を持つ、特殊系魔法の
使い手でもあった。
もう一人は眼鏡をかけたミドルショートの黒髪の
女性で―――
その彼女から彼は書類を受け取り目を通す。
「ご苦労だった。サシャ、ジェレミエル。
タイミング良く絡んできたかと思えば
やっぱりか。
トゥルーラ侯爵は深く関わってはいない
ようだな……」
「報告の通りです」
「途中で別れましたから―――
私は侯爵様の方を、サシャはヴォルクの方を」
その金髪を撫でながら、サシャと呼ばれた
女性は言葉少なめに話す。
彼女は、『その時』の事を思い出していた。
―――サシャ回想中―――
彼女はジェレミエルと一緒に―――
トゥルーラ侯爵とその従者・ヴォルクが
逃げるようにギルド本部から出てきた後から、
ライオットの命令で2人を追いかけていた。
「不愉快だ! 先へ戻るぞ!!
お前は屋敷まで歩いて帰ってこい!」
「わ、わかりやしたよ」
筋肉質の男は、ボサボサした短髪をかきながら
主人の乗る馬車を見送った。
「チッ、クソが!
てめぇだって乗り気だったじゃねぇか!!
面白くねぇ……
あんなちっぽけな報酬じゃ足りねえぜ」
それを建物の屋根の上から眺めていた
2人は―――
「ジェレミエルは馬車を追って。
私の足じゃ追いつけないかも知れないから」
ジェレミエルの方は身体強化こそ通常より
少し高い程度だが―――
目標印感知という特殊系魔法の使い手であり、
尾行にはうってつけの能力と言えた。
「わかったわ。
サシャはあのヴォルクって男をお願い」
こうして彼女たちは二手に別れ―――
サシャはヴォルクの後を追った。
「……ずいぶんと人の少ないところへ行くのね。
まあその方が好都合だけど」
ヴォルクの後をつけて1時間もすると、
王都の中でも、決して治安が良いとはいえない
地域に到着した。
そこで裏路地へヴォルクが入っていくと―――
その後をフード付きのローブをまとった、
いかにも怪しげな人物が続く。
隠密魔法をかけた彼女は、息を殺して
屋根伝いにそれを見守る位置へと移動した。
「ずいぶんと早かったな。
それで―――
チエゴ国の3人の情報は入ったか?」
「うるせえよ!!
てめぇの口車に乗って、俺は恥をかいたんだ!
マウンテン・ベアーを倒したヤツが、
あそこまで強いとは聞いてねえ!!」
いきなりけんか腰で怒鳴り始めるヴォルクに
対し―――
その人物はいささかも感情を揺るがせずに
淡々と対応する。
「お前は王都でも有数の―――
身体強化を使えると豪語していたではないか」
「化け物が相手だったんだ!
仕方ねえだろ!!」
さすがにフードの人物も呆れてきたのか、
ため息をつき、
「……約束の金だ。
今一度、ギルド本部の情報を調べてくると
いうのであれば、追加で払うが。
噂でも何でもいい」
「な、なんだよ。話がわかるじゃねぇか。
へへっ、またのご利用をお待ちしていますぜ」
金を受け取ったヴォルクは気持ちの悪い
笑顔を作ると―――
そのまま路地裏から姿を消した。
同時に―――
ヴォルクと入れ替わるようにして、
もう一人、フード姿の人物がいつの間にか
出現する。
「……またヤツを使うとは、正気か?」
「余計な騒ぎを起こされないためだ。
どうせ返還には、準備やら護衛を揃えるやらで
数日はかかるだろう。
その動きも隠し通せるものではない。
ヤツはそれまで大人しくしてくれればいい。
我々にも検討する時間は必要だ」
その後、いくつかの確認事項のような言葉を
彼らは交わした後―――
「新生『アノーミア』連邦のために」
「新生『アノーミア』連邦のために……!」
その会話を最後に2人のローブの人物は
別れ―――
それを見届けると、サシャは本部へと戻る
事にした。
―――サシャ回想終了―――
「……何が『新生』だか。
『旧帝国』の亡霊どもが」
彼女の報告を思い出したのか―――
本部長室でライオットは独り言のように毒づく。
「それでヴォルクはどうしましょうか。
これ以上本部を嗅ぎまわるようでしたら……」
彼はサシャの提案を途中で片手を振って止めて、
「止めとけ。
ああいうバカがいるから、俺たちが
楽出来るんだよ。
常時張り付く必要は無いが……
一応、そいつらの動向には目を光らせて
おいてくれ」
サシャとジェレミエルはその言葉に一礼すると、
「それで本部長。
私どもはもう失礼してもよろしいでしょうか」
「早くラッチちゃんを愛でながら微笑む作業に
戻りたいのですが」
「え? あ……ハイ」
間の抜けた本部長の許可が出ると同時に―――
2人の姿は光の速さで消えた。
「……何ですか、ここ」
夜、11時を過ぎたあたりだろうか。
部屋で待機していた私と家族は呼び出しを受け、
いったん1階にある訓練場へと通された。
さすがに王都にある本部だから、その広さも
半端ない大きさだ。
町にある訓練場もそれなりに増築したつもり
だったが、比較にすらならず―――
「東京ドームを1/4くらいにしたら、
こんな感じだろうか……」
「トーキョウどーむ?」
つい私の口から出てしまった単語を、一緒にいた
セシリア様が不思議そうに聞き返す。
「しかし広いですな」
「ここで何をするんじゃ?」
従者であるミハエルさん、ゲルトさんもいるが、
戸惑いながら周囲を見回す。
「じゃあ付いて来てくれ。こっちだ」
本部長自らがみんなを率いる。
向かった先は、武器や防具以外の備品を
詰め込んだような倉庫で―――
「……よし、ここだ」
ライオットさんが、人ひとり分くらいの
開けた床の前に立つ。
するとおもむろにしゃがみ、何らかの操作を
したかと思うと―――
「わっ!」
「隠し通路か。
面白い仕掛けじゃのう」
メルとアルテリーゼが驚きと興味の声を上げる。
床―――正確には床と壁の双方が開き、
地下へと続く階段が出てきた。
「ここは本部でも俺とわずかな人間にしか
知らされていない。
このまま王都の外へ出られる通路だ」
そう言いながら彼は階段を下りていき、
私たちは黙って後を付いていった。
「ここは―――」
狭いながらも、明かりの魔法が施されて
いるであろう細い通路を15分ほど歩いた後、
7人は林の中に出た。
月……この世界にもあったのだが、
それが全く見えない。
新月というヤツだろう。
わずかながらに本部長が照らしてくれる
明かりが、完全な闇ではなくしている。
「この先に開けた場所がある。
ナルガ辺境伯様とその部下二名は―――
そこでドラゴンに戻ったアルテリーゼさんに
乗ってくれ。
チエゴ国までの誘導はゲルトさんにお願いする」
「あれ? でも私たちの荷物は……」
彼の説明に、ほとんど手ぶらのセシリア様が
疑問を口にすると、
「それは後で送る。
とにかく、アンタらを母国まで送り届けるのが
最優先だ」
「えええ、そんなあ……
芋もちが、くず餅が、デザートがあぁ……」
それを聞いてがっくりとうなだれる彼女を、
部下二人が慰めていた。
「まあ、安全のためだしねー」
「3人乗っても―――
少しなら荷物も大丈夫だったのだがのう。
事情が事情だけに仕方あるまいて」
妻2人も同性として同情する気持ちがあるのか、
セシリア様に声をかける。
「じゃあ行くぞ。
誰にも見つからないように移動したんだ、
早く済ませるに限る」
本部長が先導を再開し、いつの間にか
メルとアルテリーゼがセシリア様を挟む
ようにして歩き……
その後にミハエルさん、ゲルトさんと続いた。
一番最後を歩きながら、私は2人に声をかける。
「……これ、お土産にどうぞ」
「えっ?」
「これは……」
私が2人に渡したのは―――
500ミリリットル程度のビンと、
小さな袋だった。
「ビンには、メープルシロップが……
こっちの袋には例の片栗粉が入っています。
あっちに着いてからセシリア様に
お渡ししてください」
歩みを止めないまま、2人はそれぞれ
ビンと袋をフトコロに入れて―――
「最後までお気遣い、感謝する」
「この事は忘れぬぞ、シン殿」
そうして開けた場所に到着すると―――
アルテリーゼはドラゴンとなり、3人は
その背中に乗った。
「ふぁ~あ……」
翌日、夜明けから少し経って―――
時間にすると午前5時くらいだろうか。
あくびをしながら、アルテリーゼがギルド本部の
私たちの部屋へと戻ってきた。
「アルちゃん、お帰りー」
「お疲れ様」
「ピュ!」
家族の出迎えに彼女は少し驚いたようで、
「何じゃ、カギもかけずに不用心と思って
いたが……起きていてくれたのか?」
「さすがに私たちだけで寝るワケにはねー。
で、無事に終わったんだよね?」
メルが気まずそうに苦笑すると、私も続けて
「大丈夫だったか?
何か無かったか?」
心配する私を見ると、アルテリーゼは
プッ、と吹き出した。
「我はドラゴンぞ?
そうそう危険な事など―――」
メルは抱いていたラッチをアルテリーゼに
渡すと、
「でもアルちゃん、シンとの初めての
出会いは……」
「あ、あれは油断したのだ!
具合の悪いラッチをかばいながら、
戦わねばならなかったし」
そういえば複数のワイバーンに襲われている
ところを助けたのが―――
アルテリーゼとの出会いだったっけ。
「……いや、心配してくれておるのに悪かった。
しかし、ドラゴンの我を心配する人間など、
世界広しと言えどメル殿とシンしかおるまい」
「そりゃ、同じ旦那様を持つ妻同士だし」
「夫として、妻の身を心配するのは当然だよ。
ドラゴンだろうが人間だろうが関係無い」
すると彼女はラッチを抱いたまま、ベッドへ
腰かける。
「まあ―――無事に終わったぞ。
本部長との打ち合わせ通りじゃ」
さすがに帰りはゲルトさんがいないので
夜間飛行は避け……
夜が明けてきたら、低空飛行で王都を目指す。
北東の門番の一人が王都ギルドの手の者で、
彼の手引きにより雑務用の裏口が開かれ、
そこから先はギルド本部まで徒歩で帰る。
これが、打ち合わせの内容で―――
その通りにアルテリーゼは帰ってきたのだった。
「ともかくお疲れ様」
私の言葉が合図になったかのように、
室内の全員が急に無口になったかと思うと―――
「ふぁあ~」
「ふぁー……」
「ふあぁあ……」
「クルゥ~……」
ラッチも含めて、ほとんど同時に家族が
あくびをして―――
誰からともなく、ベッドに横になった。
「ほんでシン、これからどーすんの?」
「そうだなあ……
今日一日はゆっくりするとして」
寝たのが早朝と言っていい時間だったので、
起きるのは昼過ぎとなり―――
朝食兼昼食を食べながら、家族で今後の事を
話し合う。
「取り敢えず帰りの馬車の手配かなあ。
カーマンさんに頼んで……
あ、でも帰る前にシーガル様があいさつに
来るって言ってたし」
「あの坊やか。
しかし、身分というのは厄介だのう。
いろいろと気を遣わねばならん」
ラッチは母親の言葉に、意味がわからない、
という表情を見せる。
「それより―――
王都でも料理の種類が結構増えているって
厨房で聞いたんだ。
後で食べ歩きに出ないか?
2人とも」
「あーそれ、私もココの職員さんから
聞いた事あるよ。
シンの料理が刺激になったのか、
いろいろ新作料理が出てきてるんだって」
「ほう、それは楽しみじゃのう♪」
「ピュウ~♪」
話の意味がわかっているのか、ラッチも
喜ぶように鳴き声を上げるも、
「あ~……
ラッチはここで留守番しててくれ。
欲しがる貴族や、拉致誘拐を考えると―――
ギルドが一番安全なんだよ」
それを聞くと小さなドラゴンは、シュン、と
気落ちするように下を向く。
「ちゃんとラッチの分のお土産は買って来るよ。
一緒に食べような」
「ピュッ!」
私が撫でながら話すと、機嫌を直したのか、
ラッチは力強く声を上げた。
「……いない!?
チエゴ国の3人がか?」
王都のとある安宿の一室で―――
フード姿の人物が声を荒げる。
「ああ。
確かな情報だ。
どうやったかは知らんが―――
あの3人は王都から『消えた』。
今やっているのは、荷物だけを
送り返す準備らしい」
もう一人が抑揚の無い声で追認する。
「信じられん。
昨日の夕方までは王都ギルドにいたと」
「そのギルドから出て来た形跡も無い。
隠し通路があれば王都の外まで出る事は
可能だが―――
護送するにもそれなりの人数が必要なはず。
我々に気取られずに行動するのは不可能だ」
自分の言葉も信じられないというように、
そこでしばらく2人は黙り込む。
「まさか消されたのでは?」
「他の妨害する勢力がか?
連中にそんな度胸はあるまい。
―――そうか!
『匿われている』としたら?」
ようやく納得した答えが出てきたのか、
彼らはそれをさらに補強していく。
「なるほど……!
一時的に身柄を隠して情報を統制し、
機会を伺っているのか。
あの施設では、魔力や魔法を遮断する部屋が
あると聞く。
であれば3人程度、秘する事は
難しくは無い」
「よし―――
念のため、荷物の返還のためという馬車も
追尾させろ。
後はあのヴォルクというゴミを、
ギルド周辺でうろつかせよう。
我々の目くらましにちょうどいい」
同意したように2人は向かい合ってうなずき、
「これからギルド本部の監視を行え。
ネズミ一匹見逃すな。
とっくに捕虜の返還期限は過ぎているのだ。
いつまでも引きこもっているわけには
いくまい……!」
こうして方針を決めた彼らだが―――
1週間後、セシリア一行がチエゴ国に
到着したという報告を受けるまで、
時間を無駄に過ごす事を知る由も無かった。
「では、行きます。
メル殿……!」
「いつでもどーぞー♪」
セシリア様たちをチエゴ国へ送り届けてから
3日後……
メルとシーガル様が、ドーン伯爵邸の訓練場で
相対していた。
「弟子と妻の戦いじゃ♪
シンはどちらを応援するのじゃ?」
「確かに、彼にも少し教えた事はあるけど―――
また2人の対戦を見る事になるとは」
(41話・はじめての どくけし参照)
どうしてこうなったのかと言うと―――
カーマンさんに帰りの馬車を用意してもらった
私たちは、ドーン伯爵邸に向かう事になった。
レオニード侯爵家からシーガル様が、帰りの
見送りに来るという話もあったので―――
彼も伯爵邸で会う段取りとなり、
ギリアス様、アリス様も交えて歓談して
いたのだが、
(この時、ニコル君はグレイス家へ戻っていた)
シーガル様もあの後ずいぶんと反省したらしく、
今まで因縁を付けた人たちに謝罪して回り、
少なからぬ賠償金を払ったのだという。
「おお、それは父上も喜ばれたでしょう」
そこでご褒美というわけではないが、私が
料理を作ろうかと提案したところ、
「何かお願いを聞いて頂けるのであれば……
今一度、どうか手合わせを!!」
と、土下座せんばかりの勢いでシーガル様が
頼み込んできたのだが、
「シンは今回いろいろあって疲れてるから、
まず私とやってみません?
あれからどれだけ強くなったか―――
私も興味ありますし」
と、メルが割って入り……
今回の対戦が組まれる事になったのである。
ただし、町へ戻る直前でもあるので、双方
飛び道具系の魔法は無し・素手という条件
である。
「2人とも、ケガはしないように……!」
「素手での対戦だし、
そのへんは大丈夫だと思うが―――」
アリス様とギリアス様も、やや緊張した
面持ちでそれを見守る。
ちなみにアリス様は、当然のようにラッチを
抱いたままだ。
「こっちもアレからいろいろと
教えてもらいましたからねー。
シンには及びませんが、期待してもらって
いいですよー♪」
「……!
それは楽しみです。では―――」
2人は改めて構え直す。
体を斜めにして、正面からの被弾面積を少なくし、
ボディへの攻撃はヒジで、頭への攻撃は肩で防ぐ。
ボクシングの型でもあるこれを教えたのは
自分なのだが……
打撃はあまり教えられる事が無いのだ。
「ハァッ!!」
「フッ!!」
中央でメルとシーガル様が打撃を合わせる。
両者とも身体強化を使っているのだろうが、
同条件なら女性であるメルの方がやや不利で、
押される形となる。
今2人がやった打撃は―――
ひじを直角に曲げて、垂直になった腕を
相手に押し付けるようにぶつけたものだ。
「あれは……」
「何ていうか、妙な……
パンチ? ひじ打ち?」
ドーン伯爵家の者、いやこの世界には
馴染みのない打撃だろう。
実際、父親から教えてもらったり、または
父の知り合いから武術を学んだ自分だが―――
父の打撃は、目つぶしや鼻の下から掌底で
突き上げる等、再起不能目的のものが多く……
教えるのは無理だった。
ならば他の、父の知り合いや関係者から
教えてもらった技になるわけだが、恐らく
日本武術が元であろうそれは、打撃らしい打撃が
あまり無かったのである。
これには理由がある。
そもそも武術というものは、戦争の技術だ。
武の術、手段と書いて武術―――
武道とは異なるもの。
武道のように、『道』を定めたり志す
ものではなく、単純に技術・手段を追い求めた
ある意味実用に特化したものである。
そして戦闘の条件としては、当然武器防具で
争う合戦―――
相手は鎧や甲冑を着込んでいる事が前提となる。
防御装備フルの相手に、素手での打撃が
有効であるはずがない。
それでも武器が壊れたり、失ったりする場合は
あるわけで……
そこで考えられたのが、まず体当たりだ。
ただの突進だが、野生動物は当然のように使う。
中型犬が自分へ向かって走ってきて、頭突きして
くるのを想像してもらえればいい。
相手は甘えるつもりでも―――
よろけたり倒れたりした経験がある人は
少なくないだろう。
腕を直角に曲げてぶつけるのは、当たる面積を
大きくするためと、伸ばして腕を取らせない
ためで―――
つまり基本は全体重をかけた突進であり、
『体当たり』の延長線上にある技なのだ。
「っ! おっとぉっ!?」
すかさずシーガル様がメルにつかみかかる。
体勢を立て直し、メルは距離を取って避けた。
相手の体勢を崩し、腕を取る。
もし倒してマウントを取れれば、それでほぼ
勝負は決する。
「ほぉ。
あれはかなり強くなっておるぞ」
アルテリーゼも彼と一手交えた相手だが―――
彼女の目から見ても、腕はかなり上がっている
みたいだ。
「あれから私も鍛え直しましたから……!
せっかく救って頂いた命です、時間を
ムダにはしませんよ」
当初出会った時のような、油断も慢心も
見られない。
以前、メルとアルテリーゼの試合が終わった後、
一通り彼には戦いの基本を教え込んだが……
それを忠実に守りながら戦っているのがわかる。
『相手との距離を常に意識する』
『相手の出方を予想する』
もともとポテンシャルは高いのか―――
メルに取っては相当厄介な相手になっている
ようだ。
「ハッ!!」
「フンッ!!」
もう一度、両者が走り寄り―――
互いの体重をかけた打撃を繰り出す。
だが、同じ身体強化を使えるのであれば
シーガル様に分があるのか―――
再びメルは後方へ弾かれた。
それを数度繰り返した後……
さすがにメルの顔にも疲労が見え、
セミロングの黒髪を揺らしつつ、肩で息を整える。
「水魔法を使わずともこれほどとは……
やはり、シン殿の妻という事でしょうか」
彼も決して疲れていないわけではないだろうが、
体力差は誰の目から見ても明らかだ。
「ふ~ん……なかなかやりますねえ。
じゃあそろそろ私も、シンから教えてもらった
新しい技を見せますよ」
そう言うとメルは構えを変えた。
左腕をひじを張るようにして、正面に突き出し
手をやや下方へ垂らし―――
右腕を曲げてやや垂直にし、体に密着させる。
「……!」
初めて見る構えに困惑したのか、彼は一度
表情を強張らせるも、
「シン殿の新たな技ですか。
それは是非とも受けてみなければ……!」
「じゃ、遠慮なく♪」
メルは返事と言わんばかりに、彼に近付く。
しかしそれは今までの全体重をかけたダッシュ
ではなく、早歩きのような感じだ。
シーガル様もそれに応じるように―――
ダッシュではなく彼女に合わせるように、
早歩きで近寄る。
そしてお互いの攻撃範囲に入った時……
「ハァッ!!」
先に手を出したのはシーガル様の方だった。
用心したのか、それまでの直角に曲げた
ひじ打ちを捨て、ノーマルなパンチを
彼女へ突き出す。
恐らく全体重での突進を、何らかの手段で
対応される事を警戒したのだろう。
「ん!」
「かかったのう」
それを見ていた私とアルテリーゼは―――
次にどうなるかを正確に予想していた。
「……っ!?」
シーガル様が片目を閉じて表情を歪ませる。
彼の突きは―――
メルが下げていた左腕によって弾かれたからだ。
メルの構えは、変則的ではあるが空手の一種で、
まず利き腕を曲げてやや体の正面に拳を上にして
密着させる。
利き腕の反対の腕は―――
ひじを正面に出すようにして、手を下に垂らし、
相手の打撃が来たら、ひじを中心に回して外側へ
はらうのだ。
同時に、利き腕はひじを正面から腰、そして
後ろへと弓のように引きしぼり……
「たあっ!!」
一方の腕で敵の攻撃を払うと同時に、
もう一方の腕は攻撃のスタンバイを行い―――
一連の動作として発動させる。
身体強化があるとはいえ、それは彼女も同じ。
これで胴体に叩き込めば……
と思った瞬間、
「勝ったっ!!」
シーガル様は、メルの攻撃を完全に読んでいた。
彼の利き腕は払われたものの、左腕はフリーで……
メルの右腕をガッシリとつかむ。
「取られた……!」
「メルさん、このままでは―――」
ギリアス様とアリス様が不安そうに声を上げる。
『武器は外へ回せ、体は内へ回せ』―――
これは戦闘の基本として、アリス様が率いる
兵を私が指導する際―――
(34話・はじめての だんたいしどう参照)
伯爵邸の私兵にも教え込んでいた。
当然、兵を率いる2人もそれは知っている。
後は腕を回せば終わる。
その結果を予想しての反応だろう。
だが……
「最後まで気を抜いちゃダメですよ、
シーガル様♪」
「!?」
メルは微笑むと、腕をつかまれたまま―――
さらにその腕を押し込むように直進した。
腕を回すのは、当然横方向に回転させる
事になる。
それに対し、同じ方向へ抵抗するのは
同程度の力が無ければ厳しく―――
さらに内側にねじられれば、体の構造上
あっという間に身動きが取れなくなる。
ではどう返すのが正解か。
これは、ベクトルの概念を知っていれば
すぐわかるのだが……
別の方向へ力を逃がす事だ。
横回転に対し、縦方向へ進めば―――
さらに服の上から腕をつかまれれば、
別の物質を挟んでいる分だけ滑りが生じ……
「うぐあっ!!」
シーガル様はつかんでいた腕を外され、
逆にメルに腕をねじられ―――
彼女に背中を向けて跪く。
「こ、降参……です!」
こうして二度目の勝負は―――
またもメルに軍配が上がった。
「あの技はいったい……」
「相手の投げやつかみを外す技です。
真正面から抵抗するのではなく、
『流す』というイメージですね」
試合が終わった後、私はギリアス様や
アリス様を加え、彼にレクチャーしていた。
2人も自分の腕を持って、ねじったり
伸ばしたりして確かめる。
「ちなみにこの『外す』技は、ごく一部の人にしか
教えていません。
悪用されると困るから、というのが一番の
理由ですが―――
もちろんそれなりの腕も要求されます。
……シーガル様も、これをマスター出来ると
期待しています」
それを聞いた彼は、ガバっとその場に
正座するようにして頭を下げ、
「はいっ!! 必ずや!!」
こうして私たちはドーン伯爵邸を離れ―――
帰りの馬車へと乗り込んだ。