テラーノベル
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第八話 裂ける名前
ゆら、と景色が揺れた。
縁側。庭。障子。
見慣れた世界なのに、輪郭の端が薄く震えている。
「……?」
晴明は、違和感に気づいた。
風が吹いたわけでもない。
地震でもない。
ただ――音が、世界の裏側で擦れている。
す、と息を吸う。
「ご先祖様……?」
呼ぶ前から、そこにいるはずの人を探した。
しかし、その場には誰もいない。
「……あれ」
いつもなら、振り返ればいる。
笑って、落ち着いた声で答えてくれる。
今日は――いない。
胸がひやり、と冷えた。
「……おかしい……」
立ち上がると、畳の感触がほんの一瞬、病院の床の冷たさに変わった。
「っ……!」
瞬きした時には、もう畳に戻っている。
夢だ、と言い訳するには、変化が生々しい。
「……間違ってる、よね……?」
呟いた瞬間。
空気の奥から、誰かの声がした。
とても遠く、かすれていて、
それなのに、はっきり意味だけが届く。
――――……ま……
耳元ではない。
頭の内側をくすぐるような響き。
「……誰?」
晴明は耳を押さえた。
もう一度、声。
――……道……まん…………
ひびが入る音がした。
障子の上部、見えない壁に、細く白い裂け目が走る。
「……道……満……?」
口にした瞬間、胸がざわりと波打つ。
知っている気がする。
でも、思い出そうとすると、指から砂がこぼれるみたいに逃げる。
『――呼ばないで』
突然、背後で声がした。
振り向くと、いつの間にか立っていた。
晴明公
表情は穏やかなまま。
だが瞳の奥に、鋭い影がある。
「ご先祖様……今、名前が――」
『聞かなかったことにしなさい』
遮る声は、珍しく強い。
「でも……確かに聞こえて……
あのひび割れも――」
指差した先。
裂け目は、もうない。
「……え?」
自分がおかしいのかと、不安が込み上げる。
『ここには、何も起きていない』
落ち着いた声。
断言。
「……本当に、ですか」
疑いを向けたつもりはなかった。
けれど、その言葉に、晴明公のまつげが一瞬だけ揺れた。
『晴明、覚えておきなさい』
晴明公は、静かに近づく。
『“名前”は、扉だ』
耳元で囁く。
『呼べば、開く。
開けば、入る』
言葉の意味は、すぐには飲み込めない。
「……道満って、誰なんですか」
問うと、短い沈黙。
そして、別の答えが返ってきた。
『今の君には、関係がない』
真実でも嘘でもない、切り捨てる言い方。
それが初めてで、少しだけ怖かった。
「でも……僕はその名前を――」
『“外”が呼んだだけだ』
結論のように言い切る。
『起きろ、進め、思い出せ――
外はいつだって、そう言う』
その声音には、静かな嫌悪が混じっていた。
『けれど、それは優しさではない』
晴明公は、袖口を握る。
その手の甲に、薄いひびの模様が一瞬浮かび、すぐ消えた。
晴明は、それを見た。
「……今の……」
『何も見ていない』
微笑む。
優しい声。
でも、その否定は、焦りに似ていた。
ふと、耳鳴り。
遠くで、誰かが慌てる声。
――心拍、落ちてる!
――呼びかけ続けて!名前、もう一度!
白い天井が、ちらりと重なった。
「……っ」
喉が締めつけられる。
「……僕……呼ばれてる……」
小さく、呟く。
『行かないで』
即座に返る。
『君は、ここで息をしている』
肩に置かれた手。
温かいはずなのに、どこか掴まれている感覚がした。
「……ご先祖様……」
迷いが、言葉になる。
「僕……
間違ってる道を選んでるんじゃ、ないですか……?」
静寂。
晴明公の視線が、ほんの少しだけ揺れる。
その揺れは、答えの代わりだった。
『――間違いは、“外”にある』
ゆっくり、言い聞かせるように。
『君は守られている。
ここで眠ることは、逃げではない』
優しい。
けれど、その優しさは、鍵の音を含んでいた。
晴明は、胸に手を当てる。
苦しくはない。
痛くもない。
ただ、名前だけが残る。
――道満。
言いかけた唇を、彼は噛んで止めた。
晴明公の目が、それを見て、静かに細められる。
『賢い子だ』
撫でる手。
結界は、再び静かになった。
だが、草の影。
見えない場所の奥で、
細いひびが、まだ消えずに残っている。
そこから、かすれた声が、もう一度だけ零れた。
――……待っ……て……
誰の声か、まだ分からない。
ただ、晴明だけが、確かに聞いた。
コメント
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等々晴明君の頭の中に声が入ってきたのか!空間などにできたヒビは晴明君を目覚めさせようとしているのか… そして外で待ってる人は道満さんなのか 最後の言葉はどお言う意味なのか…続き楽しみにしてます!