テラーノベル
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第九話 聞こえない世界
風の音が、消えていた。
庭の木々は揺れているのに、葉擦れの声が聞こえない。
鳥も鳴かない。
虫もいない。
音という音が、丸ごと削ぎ落とされたみたいだった。
「……音…聞こえない…」
晴明は呟く。
静かなのが好きなわけじゃない。
ただ――この静けさは、深すぎる。
息を吸っても、胸の奥の鼓動が聞こえない。
「……僕の、音……」
手を当てる。
確かにそこに心臓はある。
だけど、鼓動は遠い。
誰か別の人間の胸を、離れた部屋越しに聞いているみたいだ。
『気づいたんだね』
背後から、柔らかな声。
振り返ると、晴明公がそこに立っていた。
優しい笑顔。
けれど、今日はその笑みの影が、ひどく濃い。
「ご先祖様……
世界が、静かになって……」
『怖いかい?』
「少し……」
正直に言うと、晴明公は一度だけ瞬きをした。
『大丈夫だよ晴明』
静かに歩み寄る。
『外からの刺激を、少し弱めただけだよ。
呼びかけも、痛みも
無理矢理に引き戻そうとする手も――全部』
「……守るために?」
『そう』
ためらいなく、肯定。
『ここにいる君を、守るために』
言いながら、視線がふと庭へ向いた。
境界の向こう側で、薄い光が明滅している。
あれは、外からの信号。
諦めきれない声の残滓。
――名前を呼べ、心拍は——
――反応が――
言葉の端だけが、かすかに届く。
「……まだ、呼ばれてる……」
晴明は呟いた。
『呼ばせておけばいい』
晴明公の声は穏やかだ。
『やがて、静かになる』
「……静かな方が、いいんですか」
問いかけると、少しの沈黙。
そのあとで、言葉が落ちる。
『静かであれば、苦しみは来ない』
淡々とした事実のように。
『目覚めれば、また傷つく。
失い、選び、間違え、責められる。
ここなら――君は、ただ在るだけでいい』
甘くて砂糖を溶かしたみたいな声…
甘くて溶けているはずなのに…中心はひどく冷たくて砕けているような
「……ご先祖様は、それでいいんですか」
ふと、訊いてしまった。
『僕は、もう“こっち側”の人間じゃない』
静かに微笑む。
『だから、外の理屈には縛られない』
言い換えれば――
戻る必要がない。
晴明は、胸を押さえた。
心臓の音が、また遠ざかる。
「……僕が、ここにいたら……
外の人は、どうなるんでしょう」
掴みかけた疑問。
晴明公は、一瞬だけ答えに迷い――それを、やわらかく包んだ。
『そのうち慣れるよ』
優しく、静かに。
『“いない世界”として進んでいく』
それは慰めの言葉に似ているのに、
どうしてか、喉の奥が冷たくなった。
「……僕、いないままの方が、いいのかな」
思わず零れた弱音。
晴明公は、すぐに首を振る。
『違う』
声が少しだけ低くなる。
『ここでは、“消えない”』
晴明の目を、真っ直ぐ見つめる。
『君は僕と同じ場所で、
未来の時間を、ゆっくり分け合える』
未来――眠ったままの未来。
「……永遠に、ですか」
その言葉に、晴明公の微笑みが静かに深くなった。
『永遠は、悪いものじゃない』
柔らかな声。
『終わらないということは、
失わないということだから』
外の光が、一つ消えた。
騒がしい声が、一段静かになる。
――反応が……ない
――少し……待とう……
誰かが、諦める方向へ舵を切りかけている。
「……僕の鼓動……」
胸に置いた指先に、何も返らない瞬間があった。
「……止まりそうで……」
『止まるわけじゃないよ、ここでは動いてる』
即座に否定。
でも、その声のどこかに、抑えきれない期待が滲む。
『あっちではただ、静かに、落ち着くだけだ』
落ち着く先が、どこなのかは言わない。
晴明は、静かな庭を見渡した。
何も起きない世界。
何も奪われない代わりに、何も増えない世界。
「……ご先祖様」
ゆっくりと口を開く。
「僕、
ここにいれば――
ずっと、一緒なんですよね」
問いかけなのに、ほとんど確認みたいだった。
晴明公は、静かに頷く。
『ああ』
短い肯定が、やわらかく胸に入り込む。
その瞬間、外の音がさらに遠のく。
――心拍……
――…………
言葉が、溶けていく。
世界が、深い水の底みたいに沈んでいく。
『怖くないように、僕がそばにいる』
晴明公の声だけが、くっきりと残る。
『ここは、君の場所だよ』
晴明は、目を閉じた。
暗闇の奥で、
自分の鼓動を探す。
――聴こえない。
代わりに、
すぐ近くで、晴明公の声が呼吸みたいに続いている。
『大丈夫』
『離れない』
『選ばなくていい』
その言葉に包まれながら、
晴明は、ほんの少しだけ息を吐いた。
「……ご先祖様……」
極わずかに笑う。
「僕……ここに、残ってもいいんですよね……?」
問いは、宙に漂ったまま。
答えは――まだ落ちてこない。
ただ、空気は一層静かになり、
遠くで微かに、誰かの焦った声が消えていった。
コメント
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晴明君が内側に完全に入り込んだか? 外には道満さんともう1人いる、明くんか? 心拍が聴こえなくなでたのは外で止まったからなのか… 最後晴明公の声が聴こえなかったのは、何故なのか 続き楽しみにしてます!