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バスに乗ると、運転手の大きめの帽子の下から、真一文字に結んだあどけない口元が見えた。出発、の声がまだ声変わりしきっていない。また今日も中学生運転手だ。
老人の交通事故が増えて免許の更新が厳しくなった数年前から、運輸界は急激に人手不足になり、一方、免許は中学生から取れるようになったから、最近ではこういう光景も珍しくはなくなった。ちなみに、小学校でも「運転」の授業があり、健太は今、縦列駐車を習っている。
大きなハンドル、広い窓、ミラーの位置、アクセルペダルとブレーキペダルの角度、垂直で小さなシート。それぞれが、授業で見るものとは違った。
バスは急発進すると、急停車した。車内が前後に大きく揺れる。外からクラクションが聞こえ、「バカ野郎」という声がそこに続いた。運転手は追い抜いていく車に頭を下げる。停留所を出て車線変更をする際に、後続車と接触しそうになったようだ。これでも、反射神経の鈍い高齢者ドライバーに事故を起こされるよりはずっとましだと言わんばかりか、乗客からは誰一人文句が出ない。確かに、事故でバスが運休になるケースは、以前よりは少し減ったかもしれない。しかし、一歩手前なら確実に増えている。
停留所に着くと、新しい乗客に押されて健太は奥へ流された。後部ドア付近のつかまり棒を握る。前に座っていた主婦が次の停留所で下りると、彼女の頭があった窓に擦れたシールの跡が残っていた。何か文字らしきが読める。健太は顔を近づけてみた。
「○ル○ーシ○○」
こういう文字組み系のパズルは、地域の大会で何度か優勝している。ところが、○のところにあれこれ文字をあてはめてみるのだが、答えのイメージが見えない。
「ボク、知らないでしょう」と隣に立つおばあさんが言った。口調は冷静沈着である。健太は黙っていた。
「昔、『シルバーシート』っていうのがあったのよ」おばあさんの声に、入れ歯のかくかくした音がかすかに混じる。
「あったあった、若い頃」その隣のおばあさんが言った。
彼女は腰が思いっきり曲がっている。
「私らの子供の頃は、空席といえば老人の座る場所って決まってたものだわよねぇ」と入れ歯のおばあさん。
「時代は変わりましたねぇ」と、腰の曲がったおばあさん。
バスは揺れる。前後、左右に身体が動くたびに、足が痛い。いくら毎日履いてても、革靴は慣れてこない。
「いいのよ、僕」
隣のおばあさんは健太の背を押してきた。彼は言われるままに進んだ。クッションが部屋のよりも硬い椅子に座ると、裾がぼぼけた乗客のジーンズが目に入った。膝小僧はびりびりに破れている。まるで物乞いの服だ。腰のベルトは穴がすっかり楕円になっていて、その上に幾筋もの横皺がはいった脇腹が垣間見られた。白いTシャツの胸のあたりには、スプレー文字で「PANK」とある。ローマ字は読めるが、意味は分からない。その上で、皺だらけの首筋が動く。
「昔って、年寄りは今よりいくらか貴重だったからかしら」入れ歯のおばあさんだった。
「今と違って、数が少なかったからでしょうね」腰の曲がったおばあさんは、上下おそろいの紺色スーツに首元スカーフだ。
美緒から借りたままのマンガでは、飛行機のキャビンアテンダントが着ている。
健太は平和橋交差点で降りた。木枯らしが肌に冷たい。ビルとビルの谷間は夕焼け色に染まっている。
塾の看板が、交差点の向こうにぼやけて見えた。
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