千秋さんは一週間ほど海外出張に行っている。
彼と会えないのを残念に思うどころか、私は少し安堵していた。
会社に行けば針のむしろで、私は息をひそめながらやるべき仕事だけをして定時になればすぐに帰宅した。
5日くらい休暇を取ることを検討している。
実家に帰る選択肢はない。
だけど、他ならどこでもいい。誰も知らない場所へ行ってひとりでゆっくりしたい。温泉に行ってもいいかもしれない。ホテルステイでも構わない。それくらいの貯蓄はある。
美玲にだけは旅行をすることを伝えた。すると彼女は自分も休みを取って一緒に旅行しようかなと言った。だけど、それも断った。
美玲には悪いけど、とにかくひとりになりたかったから。
その日はめずらしく残業して、暗くなってからオフィスビルを出た。いつも通り寄り道せずにまっすぐ帰宅するつもりだった。
駅へ向かう途中、路地に入っていく乃愛の姿を見つけた。
一番見たくない顔を見てしまって胸の奥がもやもやしたけど、ふと気づいた。以前、乃愛と千秋さんを目撃した場所に近いということに。
ああ、きっと乃愛はまた別の男と遊ぶんだと思った。なぜなら千秋さんは今、出張だから。
でも、もし出張が嘘だったら――。
千秋さんに対して疑心暗鬼になっている自分に嫌気が差した。また相手が彼だったら、私はショックのあまり壊れてしまうかもしれない。
そんなことを自覚しているくせに、私は乃愛の相手を確かめたかった。
いや、正確には千秋さんでないことを確認して安心したかった。
私は乃愛のあとを追いかけた。
乃愛は高いヒールをカツカツと鳴らしながらご機嫌な様子で歩いていく。そして彼女はホテルの前を通り過ぎて、古い店のとなりにある路地を横切った。
見失わないように急いで駆けつけると、乃愛の声が高らかに響いた。
「やぁだ。こんなところに呼び出して何ですかあ?」
やっぱり誰かと待ち合わせしていたんだ。
私は気づかれないように壁の陰に隠れた。相手の顔は見えない。
「あたし、喉乾いたんで、早くお酒飲みたいんですけどぉ」
となりの店は古いバーのようだった。乃愛は早く店に入りたいみたいだけど、相手がそれを許してくれないようだ。
「で、今日はいくらくれるんですかあ?」
お金のやりとりをしている?
一体、誰と……。
私が壁から顔を覗かせてみると相手の顔は見えなかったけど、声だけ聞こえてきた。
「うるさいわね。あなた、がめついのよ」
どくんっと胸の鼓動が鳴った。同時に頭が真っ白になった。
これは、美玲の声――!
うそ! うそでしょ! どうして!?
わけがわからなくて、私はパニックになっている。
どうして美玲が乃愛にお金を渡しているの?
意味がわからない。
どくどく鳴り続ける鼓動がうるさくて、頭がガンガンしてきた。動揺しすぎて呼吸も乱れている。だけど、どうにか自分を落ち着かせながら、ふたりの声に耳を澄ませた。
「ええ~? たった3万ですかぁ? パパ活だともっと稼げるのにぃ」
「はぁ、あなたねぇ。優斗といい思いしたでしょ? それでも高いくらいよ」
優斗と?
どういうこと?
え、もしかして、美玲が仕組んだことだったの?
「でもぉ、優くん下手くそすぎてサイアクだったの。お金もらえないなら絶対寝なかったよぉ」
「嘘ばっかり。あなたも楽しんだでしょ」
楽しんだ?
美玲は乃愛にお金を渡して優斗を誘惑したってこと?
壁からそっとふたりを覗くと、美玲は煙草を取り出してライターで火を点けたところだった。彼女は煙草を深く吸い込んでふうっと煙を吐き出すと、にやりと笑みを洩らした。
「すべてうまくいったわ」
どくんっと私の鼓動が激しく鳴った。
「ほんと、石巻さんってバカですよねー。友だちに裏切られているとも知らないで」
「妙なこと言わないでちょうだい。紗那と私は友だちじゃないわ」
「あ、そうでしたぁ。でも、信頼している同僚が裏切り行為をしたなんて知ったら石巻さん精神病んじゃいますよぉ」
「あなたと一緒にしないでちょうだい」
「でもぉ、林田先輩って結構策士ですよね! あたしが石巻さんにいじめられてる写真、あれ拡散したの先輩でしょ?」
あの写真……あれは、私が乃愛をいじめていると勘違いさせてしまうような写真だ。あの写真を撮ってSNSを使って拡散させた犯人が……?
「ええ、そうよ」
美玲がすんなり認めた。
その瞬間、私はくらりと眩暈がしてその場に倒れそうになった。
じゃあ、何……今まで私に寄り添ってくれていたのはすべて、偽りだったの?
私はそれを知らずに美玲に何でも相談して、それを聞いた美玲は心の中であざ笑っていたの?
美玲はずっと私を裏切っていたの――?
「それって、石巻さんに恨みがあるってことですかあ? 石巻さん、仕事デキル人ですもんね」
「あなたの安っぽい思考でものを言わないで」
「でもぉ、このままだと石巻さん、会社辞めちゃいますよお」
「辞めればいいのよ。あたしが紗那の代わりになるから」
「えーそれって、石巻さんを排除して出世しようってことですかあ? 女の嫉妬こわあっ!」
私は息が止まりそうになり、苦しくなる胸をぎゅっと押さえて浅い呼吸を小刻みに繰り返す。ちゃんと息をしなきゃいけないのにできなくて、ひゅっと短い空気を吐き出した。
まずい。苦しい。倒れそう。
「だから、あなたのおバカな思考で発言しないでちょうだい。こっちが頭痛くなるわ」
美玲は煙草の吸殻を足下に投げつけるように捨ててヒールのつま先でぐちゃぐちゃと潰した。
私は耳鳴りがして、それ以上ふたりの話を聞き取ることができなかった。
ふたりは裏口からバーに入っていき、ひとりになった私はその場に崩れ落ちた。目の前が真っ暗で、耳も聞こえにくい。
通りかかった見知らぬ人が声をかけてきた。
「君、大丈夫か? どうしたんだ?」
「誰か救急車を呼んで」
私は手を差し出してくれた人になんとか伝える。
「救急車は、大丈夫です……ただの、過呼吸なんで……」
ちゃんと深呼吸しなきゃ。でも、できない。
どうやって病院に来たのかよくわからない。不明瞭な視界の中でうっすらと店の中から複数人が出てくるのを見た。その中に美玲の姿もあった。
美玲は私に声をかけてくれた。まるで本当に心配しているような声だった。
私は誰かの車に乗せられて病院へ連れていかれ、そこで点滴を受けているうちに意識がはっきりしてきた。
私のそばにいたのは美玲だった。
「紗那、気がついたのね。よかったわ。心配したのよ」
美玲は本当に心配そうに私を覗き込んでいる。その顔を見て吐き気がした。
よくも平然とそんなことが言える。胸の奥から嫌悪感が込み上げてきて、私は美玲から目をそらした。
「立ちくらみだそうよ。あなた、ちゃんと食べてないんでしょ。不眠もひどいみたいだし、一度心療内科で診てもらったほうがいいわ」
美玲の嘘っぽい言葉が頭に響く。
私は吐き気を堪えながら、彼女に再び目を向けて言った。
「美玲と乃愛の話、聞いたよ」
「えっ……」
美玲は笑顔のまま固まった。
「ねえ、私は美玲に何か恨みを買うようなことをしたの? どうして私を陥れるようなことを……」
「何言ってるのよ。頭でも打ったの?」
薄ら笑いを浮かべながら話をそらそうとする彼女に向かって、私は冷たく言い放つ。
「誤魔化さないで。ぜんぶ美玲が計画したことでしょ」
「紗那、落ち着いて」
「乃愛と繋がっていることを私は知らないで、あなたに彼女の愚痴を言っていたのね。聞いててさぞ気持ちよかったでしょ?」
「バカね、そんなこと……」
「美玲、出ていってくれる? あなたの顔を見たくない」
「紗那」
美玲が手を伸ばしてきた瞬間、私は思いきりその手を叩いてやった。
「出ていってよ! 二度と顔を見たくない!」
美玲の顔をまっすぐ見つめて怒鳴りつけると、彼女は驚いた顔をしたあと、すぐに微笑を浮かべてため息をついた。
「落ち着きなさい、紗那。すべてあなたのためにしたことよ」
「何が……」
「山内くんから救ってあげたでしょ。感謝して」
美玲の言い分に私は空いた口がふさがらなかった。
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