優斗とあの家族から解放されたことはよかったと思う。だけど、それ以外は納得できない。
「じゃあ、どうして私を社内で孤立させるようなことをしたの?」
「それは、あなたがあたしを裏切る真似をしたからよ」
「裏切る? 私は美玲のこと一度だって……」
裏切ったことなんてない。むしろ一番信頼してて、ずっと悩みを彼女に打ち明けてきたのに。
美玲は困惑の表情で私を見て嘆息する。
「あなた、男はこりごりだって言っていたのに、どうしてもう別の男になびいているの?」
「えっ……」
別の男というのは、私にとってひとりしかいない。
「千秋さんの、こと?」
「その名前、聞きたくないわ」
美玲は突然眉間にしわを寄せて表情を強張らせた。
よくわからないけれど、美玲のその反応で彼女が千秋さんをかなり嫌っていることだけはわかる。
「どういうことなの? 千秋さんが、美玲と何の関係があるの?」
「だから、その名を口にしないでって言ってるでしょ!」
美玲がイラつきながら声高に叫び、私はびくっと肩が震えた。
美玲ははっきりものを言うタイプだ。だけど、理不尽に感情をむき出しにする彼女を見たのはこれが初めてかもしれない。
私が絶句していると、彼女はクスっと笑って言った。
「紗那のことを本当に理解しているのはあたしだけよ。わかるでしょ? あたしたちは不遇な境遇で育った者同士。お互いによく理解し合える関係なの。男に依存しない生き方をしましょ。ねえ、紗那」
「言っている意味が、わかんないよ。美玲は私をどうしたいの?」
美玲はふふっと笑って私に顔を近づけてきた。
ふわっと煙草の香りがして、同時にキツイ香水の匂いも漂った。
「あたしが紗那を養ってあげる。これから先もずっと、あたしがあなたを救ってあげるわ。男なんて一生理解できない生き物よ。そんな鬼畜とは離れてあたしたちふたりで暮らすの。あなたは何も心配せずあたしに身を委ねていればいいわ」
理解が追いつかない。頭が混乱して動揺が激しく、正常な思考が働かない。
やっとのことでどうにかわかったのは、彼女が私を(同性の)恋人にしたいということだ。
そんなの、私には無理。考えられないし、考えたこともない。
美玲が私の頬に触れた。その瞬間ぞわっと嫌悪で背筋が凍りつきそうになった。
「やめて! 触らないで!」
「どうしたの? いつもはあたしが髪を撫でても肩に触れても腕を組んでも平気でしょ」
「そのときと状況が違うよ。私は美玲のこと友だちとして見ていたから平気だったの。そんな目で見るなら私に触れないで」
「紗那、そんな残念なことを言わないでちょうだい」
美玲は本当に落ち込むように肩をすくめてため息をついた。
「残念なのはこっちだよ。美玲のこと信じていたのに。本当に私の味方はあなただけだって信頼していたのに、こんな裏切りってないよ!」
「裏切ってなんかないわ。紗那は少し混乱しているから今はそう思っているだけ。冷静になればわかるから」
「わかんないよ!」
私をそういう目で見ていたことも衝撃だけど、それ以上に私が思い通りにならないから孤立させるなんてそんな乱暴なこと到底受け入れられない。
私は怒りと悲しみと混乱で感情がない交ぜになって涙がぼろぼろこぼれ落ちた。
そんな私を見ても美鈴はただ笑っているだけ。
私はいろんな意味で彼女のことが気持ち悪くなって、もう目を合わせることもしたくなかった。
「お願いだから出ていって。これ以上一緒にいたらまた苦しくなる」
すでに呼吸が浅くなって、再び眩暈がしてきた。
美玲がどんな顔をしているのか、見ていないからわからない。見たくもない。
彼女は意外にもすんなり私の言うことを聞いてくれた。
「じゃあ、帰るわ。紗那に苦しんでほしくないもの」
どの口がそんなことを言うのだろうと思ったけど、反論する気にもなれなかった。
美玲がコツコツと歩いて扉の前で止まると、再び私に話しかけた。
「そういえば、あの男」
美玲の言葉にどきりとした。今この場で出てくる男の人といえば、千秋さんことだ。
私は美玲の顔を見ないようにして、静かに耳を傾ける。
彼女は次にとんでもないことを言った。
「乃愛を使ったら簡単に陥落したわよ」
胸を鈍器で潰されたみたいな感覚がして、一気に吐き気が込み上げた。
私は手で口を覆って恐る恐る顔を上げる。視線の先には微笑を浮かべる美玲の顔がある。
彼女は薄ら笑いを浮かべながら言った。
「あの人もしょせん、オスなのね」
私はもう、美玲の言葉が耳に入ってこなかった。
美玲が出ていったあと、私は込み上げる吐き気を堪えられず、袋の中に胃液を吐いた。ろくに食事をとっていないから吐くものもない。
ひどく咳き込みながら、同時に涙も大量に出てきた。
私には心を許せる人は誰ひとりいないんだ。
父も母も兄も、ずっと仲良しだと思っていた友だちも、好きになった人も、今は信じられない。
私は居場所をすべて失ってしまった。
どうしてこんなことになったんだろう?
どうして私の人生ってこんなことばかり起こるんだろう?
「もう、無理……」
私はしばらく泣き腫らしてしまった。
翌日の午後、私はマンションに帰りついた。だけど、正直、ここにもいたくない。すぐに別の住む場所を探さなきゃいけなかった。仕事に就いているうちでないと賃貸契約できないから。
そんな冷静な思考はわずかに残っていた。
バルコニーに出て、目の前に広がる景色を眺めた。
10階だから本当に眺めがいい。仕事から疲れて帰ってここから夜景を見るのが好きだった。休日に洗濯を干して、夕方にはオレンジに染まる空を眺めるのも好きだった。
今は誰も信じられない。誰も味方はいない。未来は真っ暗で見えなくて、苦しさに悶えて、この状況から楽になりたいと思った。
私は、階下を見下ろした。
ここから落ちたら楽になれるだろうか。
そんな考えが頭に浮かんだ。だけど、ぼんやりとそのことを想像しているうちに、余計なことまで思いついた。
たしかあれは何かの映画で見たけど、中途半端な高さから落ちたらしばらく痛みで悶え苦しむらしい。飛び降りで即死はできないとか、聞いたこともあるなあって。
「はぁ、バカなことを考えてしまった……」
私はバルコニーの手すりに両手をついて深いため息をついた。
怖いと思うってことは、死にたくないってことだ。
冷静な思考を取り戻すと、少し落ち着いてきた。
そのとき、スマホから着信音が聞こえたので、相手の名前を確認してから電話に出た。
「……千秋さん?」
「ああ、よかった。メッセージをしても返事がないから何かあったのかと思ったよ」
私はいろいろ複雑な思いが込み上げてきたけど、彼の声を聞くと嬉しくて、少し穏やかに返答できた。
「それで電話したんですか? わざわざ海外から」
「そうだよ」
「ちょっと倒れて病院にいて……」
「え? どうしたんだ? どこか悪いのか?」
あまりの彼の焦りように、思わずふっと笑みがこぼれた。
同時に目頭が熱くなった。
やだな、私。やっぱり、彼のことが好きなんだ。
「立ちくらみだったんです。今は平気」
「本当か? すぐに帰りたい」
そんなことを言うものだから、私はわざといじわるなことを口にした。
「本当に帰ってくれますか?」
「え?」
「うそ。冗談です。私は何でもないのでお仕事頑張ってください」
これ以上話していたらまた泣いてしまう。今の私の心は繊細なガラスみたいで、少しつついただけで簡単にヒビが入ってしまいそうなくらいだから。
「じゃあ、また」
そう言って電話を切ろうとしたら、すぐさま呼び止められた。
「紗那、何かあった? やっぱり変だ。君はこの前からひどく落ち込んでいるような気がする」
どきりとして、同時に切なくなった。
彼のこういう鋭いところはずるいと思う。
甘えてしまいたいと思って、つい胸の内をぜんぶ吐き出したくなった。
だけど、喉まで出かかった言葉はどうにか飲み込んだ。
美玲が計画的に乃愛を使って千秋さんを誘惑した。彼はその誘いに乗っただけ。それでも、今の私にはそれをすんなり受け入れる余裕はなくて……。
少し時間がほしかった。
それなのに、すごく彼に会いたくて、矛盾する自分の心にイライラして、無性に悲しくなる。
「ちょっと、いろいろありましたけど、大丈夫です。旅行でもして気分転換するつもりなんで」
私は泣きながら笑って答えた。声が震えないようにしながら、なるべく明るい口調で話す。
「帰ったら美味いものを食べに行こう」
「そうですね」
そんな日が来るなんて、今は思えないけれど。
「また連絡するから。無事かどうか確かめるために」
「ふふっ、ちゃんと返事しますから大丈夫ですよ」
「じゃあ、ゆっくり休んで」
「はい。おやすみなさい」
「おやすみ」
電話を切ったあと、スマホを手にしたまま床に座り込んだ。脚を三角に折って俯き、そのまましばらく動けなかった。
千秋さんは優しい。その優しさが私には残酷すぎる。
彼と話したくないはずなのに、会いたくないはずなのに、もっと話したい。会いたい。触れたい。抱きしめてほしい。そばにいてほしい。
美玲の言う通りなのかもしれない。私は結局男の人に依存してしまう。
優斗の件で自分は変われたと思ったのに、やっぱり誰かのぬくもりがほしいと思ってしまう。
こんな自分を変えるためにも、一度ひとりで冷静になれる時間を作りたい。
誰もいない場所で一度ぜんぶリセットして、そうしたら千秋さんと向き合えるかもしれない。