テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
第四話 無窮剣界、その魂は剣を超えていた
冬木の朝は、薄い霜をまとっていた。
遠坂邸の庭に降りた白は、陽が差せばすぐに消える程度のものだったが、それでも冬の冷たさを十分に語っている。
芝生は硬く、空気は澄み、吐く息は白い。
そんな朝の庭に、遠坂衛二は立っていた。
制服ではない。
動きやすい黒の訓練着。
左手の令呪は包帯と隠蔽術式で隠されているが、その奥で確かに熱を持っている。
目の前には、衛宮士郎がいた。
父。
かつて聖杯戦争を生き抜いた魔術使い。
投影魔術の極致に足を踏み入れ、今もなお鍛錬を欠かさない男。
士郎の手には、黒白の双剣。
干将・莫耶。
衛二も同じものを投影していた。
同じ形。
同じ名。
同じ起源を持つ剣。
けれど、そこに宿る在り方は違っていた。
士郎の剣は、積み重ねた傷の剣だった。
戦場で折れ、投げられ、砕け、また作られた剣。
贋作であることを知りながら、それでも誰かを守るために振るわれた剣。
その刃には、理想を追い続けた男の痛みが染みついている。
一方、衛二の剣は、あまりにも完成されすぎていた。
投影された瞬間から、概念密度は本物に限りなく等しい。
歪みも欠けもない。
贋作としての甘さがなく、真作としての歴史さえ再現しかけている。
それは才能だった。
同時に、危うさでもあった。
「行くぞ、衛二」
士郎が言った。
「うん」
衛二は双剣を構えた。
次の瞬間、士郎が踏み込む。
速い。
父の動きは、見た目よりずっと速い。
直線ではなく、衛二の視線の隙間を縫うように距離を詰めてくる。
衛二は右手の干将で受けた。
金属音。
衝撃が腕に響く。
すぐに左から莫耶が来る。
衛二は身を引き、同じ莫耶で弾いた。
二合。
三合。
四合。
刃と刃がぶつかるたび、庭に火花が散る。
凛が庭の端に結界を張っているため、外へ音は漏れない。
ユイは少し離れた場所で観測術式を広げていた。
そしてアストルフォは、庭石の上に座り、足をぱたぱた揺らしながら衛二を見守っている。
「エイジ、がんばれー!」
応援が明るすぎる。
衛二は一瞬だけそちらを見そうになった。
その隙を、士郎は見逃さない。
「戦闘中に視線を外すな」
「っ」
士郎の刃が衛二の懐へ入る。
衛二は咄嗟に五大元素の風を足元に流した。
身体を半歩ずらし、紙一重で避ける。
同時に右手の干将を投げる。
父の脇を抜ける軌道。
だが士郎はそれを読んでいた。
投げられた干将を自らの莫耶で弾き、さらに衛二へ踏み込む。
「投影」
衛二の右手に、次の干将が即座に現れる。
投げた剣を失っても問題ない。
魔力消費は極小。
再投影に要する時間は、ほぼゼロ。
その速度は、士郎を超えている。
だが。
「速いだけじゃ、届かない」
士郎の肩が沈む。
低い軌道からの斬り上げ。
衛二は受ける。
だが受けた瞬間、士郎の剣は角度を変えた。
力ではない。
技術。
ほんのわずかな刃の滑りで、衛二の防御が開かれる。
次の瞬間、士郎の剣先が衛二の喉元で止まった。
勝負あり。
「……参った」
衛二は息を吐いた。
アストルフォが庭石から飛び降りる。
「エイジ、大丈夫?」
「大丈夫。寸止めだよ」
「でも喉元に剣! 心臓に悪い!」
アストルフォは衛二の前に駆け寄り、喉元を確認するように覗き込む。
傷一つないと分かっても、まだ心配そうに眉を寄せていた。
衛二は少し困ったように笑う。
「ほんとに平気だって」
「んー……じゃあ、後で安心のぎゅー追加ね」
「何でそうなる」
「心配した分!」
士郎が双剣を消しながら苦笑した。
「アストルフォは本当に衛二を大事にしてくれてるな」
「もちろん! ボクのマスターだもん!」
アストルフォは胸を張る。
凛が結界の端で腕を組んだ。
「いいことではあるけど、訓練中に甘やかしすぎるのは問題よ」
「リン、訓練後なら?」
「程度によるわ」
「じゃあ、ぎゅーは?」
「……戦闘後の精神安定目的なら許可」
「やった!」
衛二は額に手を当てた。
「母さん、許可制にしないでくれ」
「管理しないと際限ないでしょうが」
「俺の甘やかしスケジュールが遠坂家に管理されるの嫌すぎる」
「自業自得よ。あんたが無茶するから」
凛の声は厳しい。
だが、その奥には心配があった。
三日後。
満月の夜。
冬木大橋地下霊脈で、月蝕教団が動く。
その予告があってから、遠坂邸は完全な臨戦態勢に入った。
凛は屋敷の結界を組み直し、外部からの霊脈干渉を遮断した。
士郎は衛二の投影戦闘を鍛え直している。
ユイは神杯戦争の残響に関する資料を整理し、月蝕教団の術式傾向を解析していた。
そしてアストルフォは、昼夜を問わず衛二のそばにいた。
護衛として。
サーヴァントとして。
そして、衛二が一人で背負い込まないようにするための、桃色の見張り番として。
「衛二」
士郎が呼ぶ。
「今の勝負、自分でどう思った?」
「投影速度では勝ってた。でも、剣の使い方で負けた」
「そうだな」
士郎は頷く。
「お前の投影は、俺よりずっと上だ。宝具の再現度も、解析速度も、魔力効率も。正直、俺が教えられる範囲はもう多くない」
「そんなことない」
「いや、事実だ」
士郎は穏やかに言った。
「でも、投影した剣をどう振るうかは別だ。お前は剣を作るのが上手すぎる。だから、剣を失う怖さを知らない」
衛二は黙った。
その言葉は、深く刺さった。
剣を投げても、また作ればいい。
壊しても、また投影すればいい。
宝具でさえ、衛二にとっては消耗品に近い。
ブロークン・ファンタズムを連発できるのも、その異常な投影精度と魔力量があるからだ。
だが、士郎は違った。
父にとって剣は、たとえ贋作でも、一本一本が選択だった。
作ること。
振るうこと。
壊すこと。
そのすべてに痛みがある。
「剣を大事にしろ、ってこと?」
「それもある。でももっと正確に言えば、剣に任せすぎるな」
士郎は自分の胸に手を当てた。
「投影魔術は便利だ。手数も増える。選択肢も増える。でも最後に決めるのは剣じゃない。自分の意思だ」
「自分の意思……」
「月蝕教団は、お前を器にしようとしている。器っていうのは、外から何かを入れられるものだ」
士郎の目がまっすぐ衛二を見る。
「だから、お前は自分の中に何があるのかを見失うな」
衛二は左手を握った。
令呪がじんわりと熱い。
器ではない。
自分は人間だ。
そう言い切った。
けれど本当に、その輪郭を守れるのだろうか。
月蝕教団が集めている願い。
届かなかった声。
叶わなかった祈り。
それらを目の前にした時、自分は見捨てられるのか。
救えないものを、救えないと言えるのか。
あるいは、全部抱えようとしてしまうのか。
「エイジ」
アストルフォが衛二の袖を引いた。
「難しい顔してる」
「考えてた」
「考えるのはいいけど、一人でぐるぐるするのは禁止」
「禁止事項が増えていく」
「必要だからね!」
アストルフォはにこっと笑う。
その笑顔を見ていると、張り詰めていた思考が少し柔らかくなる。
凛が手を叩いた。
「休憩はそこまで。次は五大元素の制御訓練よ」
「今から?」
「当然。三日しかないのよ」
「母さん、容赦ない」
「生き残るためには容赦する余裕なんてないわ」
凛は宝石を五つ取り出した。
赤。
青。
緑。
黄。
透明。
それぞれに、火、水、風、地、空の魔力が封じられている。
「衛二。あんたの投影は強すぎる。だから五大元素を合わせる時、無意識に出力で押し切ろうとする癖がある」
「それは……否定できない」
「出力で勝てる相手ならいい。でも神杯の残響や月蝕教団の術式は、力任せに壊すと中にある願いまで巻き込む。必要なのは破壊力じゃなく、分離精度」
凛は透明な宝石を指で弾いた。
空の魔力が薄い膜のように広がる。
「まずは空で構造を掴む。次に水で汚染を洗い、風で余計な接続を切る。火で術式核だけを焼き、地で残った願いを安定化させる」
「順番は分かってる」
「分かってるのと、戦闘中にできるのは別」
凛が微笑む。
その笑みは、美しい。
同時に、怖い。
「十秒でやりなさい」
「無茶だろ」
「月蝕教団は待ってくれないわよ」
「……やる」
衛二は深く息を吸った。
凛が五つの宝石を宙に放る。
宝石がそれぞれ違う属性の魔力を放ちながら、衛二の周囲を高速で回り始めた。
ただの制御訓練ではない。
五つの属性が同時に干渉し合い、少しでも制御を誤れば暴発する。
もちろん凛が安全装置を組んでいるが、痛い目を見る程度の失敗は普通にある。
「開始」
凛の声と同時に、衛二は魔術回路を開いた。
熱が走る。
まず空。
構造把握。
五つの宝石は単独ではない。
互いに細い魔力糸で繋がれ、一つの疑似杯を形成している。
水。
汚染除去。
青い魔力を流し、余計な混線を洗う。
風。
切断。
緑の魔力で接続の優先順位を切り分ける。
火。
焼却。
赤の魔力で術式核を焼く。
地。
固定。
黄の魔力で残った魔力を安定化させる。
順調。
そう思った瞬間、透明な宝石が不規則に揺れた。
凛が仕込んだ妨害。
空属性の座標がずらされる。
構造把握が狂う。
次の瞬間、水と火が衝突しかけた。
「っ」
衛二は咄嗟に投影しようとした。
術式解体用の短剣を作り、強引に接続を切ろうとする。
だが。
「投影に逃げない!」
凛の声が飛ぶ。
衛二は歯を食いしばった。
投影に逃げるな。
剣に任せすぎるな。
父にも、似たようなことを言われたばかりだ。
衛二は投影を止めた。
代わりに、自分の中の魔術特性へ意識を沈める。
地、水、火、風、空。
五つの元素は、別々の力ではない。
それぞれが世界の見方であり、同じものを違う角度から捉えるための手段だ。
母は昔、そう言っていた。
火は燃やすだけではない。
形を変える力。
水は流すだけではない。
境界を和らげる力。
風は吹くだけではない。
距離を作る力。
地は固めるだけではない。
意味を支える力。
空は空っぽではない。
すべてを繋ぐ余白。
衛二は目を閉じた。
宝石の動きを、力で抑えない。
流れを見る。
ずれを受け入れ、ずれたまま整える。
空で全体を結び直す。
水で衝突を緩める。
風で熱の逃げ道を作る。
火で余分な魔力だけを焼く。
地で最後に固定する。
五つの宝石が、静かに空中で止まった。
凛が時計を見る。
「十二秒」
「……失敗?」
「実戦なら死んでた可能性があるわね」
「厳しい」
「でも」
凛は宝石を手元に戻した。
「今の制御はよかった。出力じゃなく、流れで整えた。あんた、ちゃんと分かってるじゃない」
衛二は一瞬、言葉に詰まった。
凛はさらっと言っただけだ。
だが母に認められることは、衛二にとって簡単なことではない。
「……ありがとう」
「お礼を言う暇があるなら、次は十秒切りなさい」
「やっぱり厳しい」
アストルフォがぱちぱちと拍手する。
「エイジ、すごかった! きらきらしてた!」
「感想がかわいいな」
「えへへ、褒められた!」
「いや、今のは……まあいいか」
アストルフォは衛二の隣に来て、袖を引っ張った。
「エイジ、休憩いる?」
「まだ大丈夫」
「ほんと?」
「ほんと」
「無理してない?」
「少しだけ」
「ほら!」
アストルフォは頬を膨らませる。
衛二は笑った。
「でも、今はもう少しやりたい」
その言葉に、アストルフォは少しだけ目を細めた。
「うん。じゃあ、ボクはここで見てる。エイジが倒れそうになったら、すぐぎゅーで回収する」
「回収って何だ」
「大事なマスター回収!」
凛が小さく息を吐いた。
「まあ、監視役としては優秀ね」
「でしょ!」
「甘やかしすぎだけど」
「そこは譲れません!」
士郎が笑い、ユイも少しだけ口元を緩めた。
遠坂邸の庭に、ほんのわずかに穏やかな空気が流れる。
だがその空気の奥で、衛二だけは胸の奥に奇妙な感覚を覚えていた。
投影に逃げなかった瞬間。
五大元素の流れを、自分の内側だけで整えた瞬間。
何かが見えた。
剣の丘ではない。
父が語ったことのある、無数の剣が突き刺さる荒野ではない。
もっと暗い。
もっと静か。
夜空の下に広がる、巨大な工房。
地面は硝子のように透き通り、その下を無数の設計図が星座のように流れている。
剣がある。
だが剣の墓場ではない。
そこは、剣が生まれ直す場所だった。
贋作と真作の境界が溶ける場所。
壊れた幻想が、ただ壊れるためではなく、次の形へ鍛ち直される場所。
衛二は胸を押さえた。
「……今のは」
士郎がそれに気づいた。
「衛二?」
「父さん。固有結界って、見えるものなのか?」
庭の空気が変わった。
凛の表情が鋭くなる。
士郎の目が細まる。
ユイが観測術式を止める。
アストルフォだけが、不安そうに衛二の顔を覗き込んだ。
「エイジ、何か見えたの?」
「一瞬だけ」
衛二はゆっくり答えた。
「剣の丘じゃなかった」
士郎は静かに聞いていた。
「父さんのとは、違うと思う」
「……そうか」
士郎の声には、驚きよりも納得があった。
「お前の中にも、固有結界があるんだな」
凛が腕を組む。
「可能性は考えてたわ。衛二の投影は、単なる投影魔術としては説明がつかない部分が多すぎる。宝具の概念密度、本物に近すぎる再現、連続した壊れた幻想。それらを支える内的世界があると考える方が自然よ」
「でも、父さんの無限の剣製とは違う」
「当然よ」
凛ははっきり言った。
「あんたは士郎じゃない。エミヤでもない。遠坂衛二よ」
その言葉に、衛二は息を呑んだ。
遠坂衛二。
父の後継でも。
母の後継でも。
遠坂家次期当主という肩書きでもなく。
自分の名前。
「見えた世界を覚えてる?」
ユイが尋ねた。
「少しだけ。夜みたいな工房だった。地面が硝子みたいで、その下に剣の設計図が流れてた。剣が突き刺さってるんじゃなくて……作られる前と、壊れた後が同時にある感じ」
ユイは目を細める。
「剣の墓場ではなく、剣の再構成領域」
「たぶん」
士郎が静かに言った。
「名前は?」
「え?」
「固有結界には、名前がある。最初から決まっていることもあれば、自分で辿り着くこともある」
「名前……」
衛二は胸の奥を探った。
そこにある世界。
無限ではない。
無限の剣製ではない。
父の理想が生んだ剣の荒野ではなく、衛二自身が持つ剣の領域。
終わりがないのではない。
底が見えない。
剣を作るのではない。
剣という概念が、世界法則として鍛ち直される。
「……無窮剣界」
言葉は、自然に落ちてきた。
「アンリミテッド・ブレイド・レルム」
その瞬間、衛二の周囲の空気が震えた。
ほんの一瞬。
庭の地面が、硝子のように透けた気がした。
足元の奥に、星座のような設計図が流れる。
遠くで、炉の火が灯る。
だが次の瞬間には消えていた。
衛二は膝をつきそうになった。
「エイジ!」
アストルフォが即座に支える。
その腕が背中に回り、衛二の体を抱き留めた。
「大丈夫?」
「……大丈夫。ちょっと、魔力が跳ねた」
「大丈夫じゃないやつ!」
「本当に平気だって」
「だめ。休憩」
アストルフォはきっぱり言った。
凛も今回は反対しなかった。
「そうね。今のは危ない。固有結界の輪郭に触れただけで、魔力が周囲に漏れた。下手に続けたら暴発するわ」
「でも」
「でもじゃない」
凛の声が強くなる。
「固有結界は切り札よ。まして、まだ輪郭を掴んだだけのものを無理に展開しようとするなんて自殺行為に近い」
士郎も頷いた。
「衛二。焦るな」
「……うん」
衛二は悔しさを飲み込んだ。
三日後には戦いがある。
月蝕教団は待ってくれない。
それなのに、自分の切り札になり得るものを掴みかけて、まだ使えない。
その焦りを、アストルフォは敏感に感じ取ったらしい。
彼は衛二の手をぎゅっと握った。
「エイジ」
「何?」
「今、焦ってる?」
「……焦ってる」
「言えた。えらい」
「子ども扱いするなって」
「約束守ったから褒めてるの」
アストルフォは真剣だった。
「焦ってるって言えたなら、一人で抱えてない。だから、えらい」
衛二は言葉を失った。
そんなことで褒められるとは思わなかった。
でも、胸の奥の焦りが少しだけ和らいだ。
士郎が穏やかに言う。
「固有結界は、無理に開くものじゃない。自分の内側にある世界を、ちゃんと認めた時に開く」
「父さんは、どうやって開いたの?」
「俺の場合は……まあ、かなり無茶だったな」
「参考にならないやつだ」
「だから、お前には同じことをしてほしくない」
士郎は苦笑した。
「お前の固有結界は、お前だけのものだ。俺の詠唱をなぞる必要はない。俺の生き方をなぞる必要もない」
衛二は静かに頷いた。
「俺だけの言葉……」
胸の奥に、さっき見た世界の残響がある。
夜の工房。
硝子の地面。
星鉄の炉。
無数の設計図。
真作と贋作の境界が溶ける場所。
その世界を呼び出すための言葉。
衛二はまだ、完全には掴めていない。
だが、断片はあった。
自分の骨子は、父から受け継いだ剣の夢を覚えている。
血には遠坂の星鉄が流れ、心は薄い玻璃のように傷つきやすい。
いくつもの戦場を映し、それでも刃は曇らない。
背を向けない。
けれど、己を許すこともできない。
勝利に酔うのではない。
誰かの願いへ届くために、剣を鍛つ。
衛二は目を閉じた。
言葉は、まだ喉の奥に沈んでいる。
今はまだ、言い切れない。
けれどいつか、その最後に辿り着く。
そしてその時、きっと。
自分の魂は、剣を超えていたと、言い捨てるのだ。
◇
その夜。
遠坂邸の食卓には、士郎が作った温かい夕食が並んでいた。
白いご飯。
味噌汁。
焼き魚。
煮物。
卵焼き。
そしてアストルフォが「かわいい!」と騒いだ、うさぎ型に切られたリンゴ。
「士郎、リンゴかわいい!」
「昔、衛二が小さい頃によくやってたんだ」
「父さん」
「何だ?」
「そういう話は掘り返さなくていい」
「エイジの小さい頃!」
アストルフォの目が輝いた。
「聞きたい! すごく聞きたい!」
「聞かなくていい」
「聞きたい!」
「父さん、言うなよ」
士郎は少し考えた。
「衛二は小さい頃、投影でおもちゃを作ろうとして、木刀を量産したことがある」
「父さん!」
「木刀を?」
アストルフォは口元を押さえて笑っている。
「かわいい……小さいエイジ、絶対かわいい……」
「かわいくない」
「かわいいよ! 今もかわいいもん!」
「今は違うだろ」
「照れてるところがかわいい!」
凛が味噌汁を飲みながら、さらっと言う。
「小さい頃は本当に大変だったわよ。魔術回路が強すぎて、寝ぼけて投影するんだから」
「母さんまで」
「夜中に部屋いっぱい木刀になった時は、士郎が妙に感動してたわね」
「投影の才能があるなって」
「そこで感動するから士郎なのよ」
ユイが静かに笑った。
アストルフォは完全に楽しそうだった。
「エイジ、今度ボクにも木刀作って?」
「何に使うんだ」
「おそろいで素振り!」
「サーヴァントが木刀で素振りするのか?」
「楽しそう!」
衛二は呆れながらも、少しだけ笑った。
不思議だった。
満月まであと三日を切っている。
月蝕教団は動く。
衛二は器として狙われている。
それなのに、食卓は温かい。
父が作った夕食。
母の何気ない小言。
ユイの静かな笑み。
アストルフォの明るい声。
これが日常だ。
守るべきもの。
衛二は箸を止め、自分の手を見た。
この手は、剣を作る。
剣を壊す。
宝具を投げ、幻想を砕く。
でも本当は。
この食卓を守るためにあるのかもしれない。
「エイジ?」
アストルフォが隣から覗き込む。
「また難しい顔してる」
「少し考えてた」
「一人ぐるぐる?」
「半分くらい」
「じゃあ残り半分はボクに渡して」
「何だそれ」
「一緒に考えるってこと!」
アストルフォは自分の皿の卵焼きを半分に切り、衛二の皿へ乗せた。
「はい、半分こ」
「考えを半分渡す話じゃなかったのか」
「卵焼きも半分こ!」
「自由だな」
「ボクだからね!」
アストルフォはにこにこしている。
衛二はその卵焼きを見て、少しだけ胸が温かくなった。
「ありがとう」
「どういたしまして!」
凛がその様子を見て、微妙な顔をした。
「士郎」
「何だ?」
「あの二人、昨日召喚されたばかりなのよね?」
「そうだな」
「距離感、おかしくない?」
「アストルフォだからな」
「それで済ませていいの?」
士郎は少し笑った。
「衛二がちゃんと笑ってるなら、今はいいんじゃないか」
凛は何か言い返しかけて、やめた。
代わりに、ほんの少しだけ表情を緩める。
「……まあ、そうね」
衛二は聞こえないふりをした。
アストルフォはたぶん聞こえていたが、嬉しそうにリンゴを食べていた。
◇
夜。
衛二は自室の机に向かっていた。
ノートを開き、今日見えた固有結界の断片を書き留める。
夜の鍛造炉。
硝子の地面。
星座のような設計図。
真作と贋作の境界消失。
壊れた幻想の再構成。
五大元素による属性鍛造。
その横に、大きく名前を書く。
無窮剣界。
Unlimited Blade Realm.
書いた瞬間、胸の奥が微かに熱くなる。
やはり、この名で合っている。
問題は詠唱だった。
士郎の固有結界には、士郎の人生が刻まれている。
英霊エミヤの詠唱には、彼の後悔と孤独が刻まれている。
なら、衛二の詠唱には何が刻まれるべきなのか。
父の理想ではない。
母の誇りだけでもない。
遠坂家の使命だけでもない。
衛二自身の言葉。
衛二はペンを置いた。
「……難しいな」
背後でベッドが少し沈む。
アストルフォが座っていた。
いつの間にか部屋に来ていたのではない。
最初からいた。
護衛という名目で、衛二の部屋にいることを凛から許可されている。
ただし条件付きだ。
深夜に騒がない。
衛二を寝不足にしない。
変なことをしない。
以上。
アストルフォはその条件を聞いた時、真顔で「ぎゅーは変なことに入る?」と聞いた。
凛は頭を抱えた。
結果、ぎゅーは精神安定目的なら許可された。
なぜ許可制なのか。
衛二は今でも納得していない。
「エイジ、詠唱考えてるの?」
「まあな」
「見てもいい?」
「恥ずかしいから駄目」
「えー」
「えーじゃない」
アストルフォはベッドの上で膝を抱え、少しだけ唇を尖らせた。
「ボク、エイジのこともっと知りたいのに」
その声があまりにも素直で、衛二はペンを持つ手を止めた。
「……そう言われると困る」
「困らせたいわけじゃないよ。でも、エイジが一人で言葉を探してるなら、隣にいたい」
「隣にはいるだろ」
「もっと近く」
「距離の問題なのか」
「心の距離も!」
アストルフォは立ち上がり、衛二の隣に来た。
椅子の背に手を置き、ノートは覗き込まないようにしている。
見たいのに、我慢しているのが分かる。
その気遣いが、少し可愛かった。
「……少しだけなら」
「ほんと?」
「笑うなよ」
「笑わない!」
「絶対?」
「嬉しくて笑うかもしれないけど、馬鹿にして笑わない!」
「ならいい」
衛二はノートを少しだけアストルフォへ向けた。
そこには、途中までの言葉が書かれている。
――我が骨子は、刃の夢を覚えている。
――血は星鉄に沈み、心は薄き玻璃。
――幾重の戦場を映してなお、刃は曇らず。
アストルフォは真剣に読んだ。
いつものように茶化さない。
ただ、衛二の言葉を一つずつ大事に拾っている。
「きれい」
「そうか?」
「うん。でも、少し寂しい」
「寂しい?」
「エイジが一人で頑張ってる感じがする」
衛二は黙った。
それは、たぶん正しい。
自分の内側にある世界を言葉にしようとした時、どうしても孤独な響きになる。
父の背中。
母の期待。
遠坂家の責任。
月蝕教団の狙い。
そのすべてを自分の中で処理しようとしてしまう。
アストルフォは、そっと衛二の肩に頬を寄せた。
「でもね、エイジ」
「ん?」
「今のエイジは一人じゃないよ」
その言葉は、静かだった。
「シロウがいる。リンがいる。ユイもいる。ボクもいる。だから、詠唱の最後まで一人で寂しくなくてもいいと思う」
「でも、固有結界は俺の内側の世界だろ」
「うん。だからこそ、エイジの大事なものが入ってていいんじゃない?」
アストルフォは衛二の手に触れた。
「エイジは、誰かの願いに手を伸ばす人でしょ?」
「……たぶん」
「なら、その手が届いたって言葉、入れてほしい」
衛二はノートを見る。
途中まで書いた孤独な言葉。
その先に、アストルフォの言葉を置いてみる。
誰かの願いへ、手が届く。
それは確かに、自分の固有結界に必要な言葉かもしれない。
「アストルフォ」
「なあに?」
「ありがとう」
「どういたしまして」
「それと……」
衛二は少し迷った。
アストルフォが首を傾げる。
「何?」
「今、甘えてもいいか?」
アストルフォの顔が、一瞬で明るくなった。
「もちろん!」
彼は衛二を椅子から立たせると、そのままぎゅっと抱きしめた。
温かい。
今日の訓練で張っていた身体の緊張が、ゆっくり解けていく。
「エイジ、えらいね」
「何が?」
「ちゃんと甘えたいって言えた」
「……それ、褒めることか?」
「すごく褒めること!」
アストルフォは衛二の背中を優しく撫でた。
「エイジは頑張るの上手だけど、甘えるの下手だから。だから、言えたらえらい」
「子どもみたいだな」
「子どもでも、大人でも、マスターでも、甘えたい時は甘えていいんだよ」
衛二はアストルフォの肩に額を預けた。
「……少し疲れた」
「うん」
「焦ってる」
「うん」
「固有結界が見えたのに、まだ使えないのが悔しい」
「うん」
「三日後、怖い」
言った。
口にした瞬間、胸の奥に溜まっていたものが少し軽くなった。
アストルフォは何も笑わなかった。
ただ、衛二を抱きしめる腕に力を込めた。
「怖くてもいいよ」
「……」
「怖いまま、一緒に行こう」
「アストルフォも怖い?」
「怖いよ」
アストルフォは正直に言った。
「エイジが傷つくのが怖い。エイジがどこか遠くに行っちゃうのが怖い。ボクの声が届かなくなるのが怖い」
「……ごめん」
「謝らなくていいの。だから、約束して」
「何を?」
「三日後、どんなに危なくても、ボクの声を聞いて。ボクの手を離さないで。器になんてならないで」
アストルフォの声が震えていた。
いつも明るい彼が、今は本当に不安そうだった。
衛二は彼の背中に腕を回した。
「約束する」
「ほんと?」
「ああ。俺は器にならない。遠坂衛二として、アストルフォのマスターとして戦う」
「うん」
「それに」
衛二は少しだけ照れながら続けた。
「アストルフォを置いて、どこかに行くつもりはない」
アストルフォは息を止めた。
それから、衛二の胸に顔を押しつける。
「エイジ、ずるい……」
「またそれか」
「だって、そういうこと言われると、好きが増える」
「増えるのか」
「増える。いっぱい増える」
アストルフォは顔を上げた。
頬が少し赤い。
「エイジ」
「何?」
「頬、いい?」
衛二は一瞬だけ固まった。
昨日から、頬や額へのキスは二人の間で「契約確認」みたいなものになっている。
それ以上ではない。
でも、ただの挨拶でもない。
甘くて、照れくさくて、心臓に悪い。
「……少しだけ」
「うん。少しだけ」
アストルフォはそっと衛二の頬に唇を触れさせた。
柔らかい温度が残る。
すぐ離れると思った。
けれどアストルフォは、離れる直前に小さく囁いた。
「ボクはここにいるよ」
その言葉ごと、キスが胸に染み込んだ。
衛二は目を閉じた。
怖い。
悔しい。
焦っている。
でも一人ではない。
それだけで、まだ立てる。
◇
翌日。
準備の二日目は、さらに苛烈だった。
午前は士郎との投影戦闘。
午後は凛との五大元素制御。
夕方はユイによる神杯残響への耐性訓練。
ユイの訓練は、戦闘よりも厄介だった。
彼女は小型の願望干渉術式を作り、衛二にあえて触れさせた。
もちろん安全性は確保されている。
だが、流れ込んでくる声は本物に近い。
助けて。
見て。
許して。
忘れないで。
愛して。
戻して。
終わらせて。
願いは、きれいなものだけではなかった。
誰かを救いたい願いもある。
自分だけ救われたい願いもある。
誰かを縛りたい願いもある。
誰かに罰を与えたい願いもある。
そのすべてが、杯の中では同じ「願い」として扱われる。
衛二は何度も吐きそうになった。
そのたびに、アストルフォが手を握った。
「エイジ、ボクの声聞こえる?」
「……聞こえる」
「今ここにいるのは?」
「遠坂衛二」
「ボクの?」
「マスター」
「うん。よくできました」
「子ども扱い……」
「今はしてる!」
そんなやり取りを繰り返しながら、衛二は少しずつ願望干渉への耐性を上げていった。
ユイは静かに言った。
「願いに同情しすぎないで」
「でも」
「同情は必要よ。でも飲み込まれてはいけない。あなたが消えたら、誰の願いも救えない」
「……はい」
「救えない願いもある」
その言葉は重かった。
衛二は唇を噛む。
ユイは続けた。
「それでも、返事はできる」
「返事?」
「叶えることだけが救いじゃない。届かなかった声に、聞こえたと返すこと。忘れられた願いに、そこにあったと認めること。それも救いの形よ」
返事の庭。
その意味が、少しだけ分かった気がした。
願いをすべて叶える場所ではない。
願いに返事をする場所。
届かなかった声を、確かに聞いたと伝える場所。
「ミライさんは、それでは足りないと思ったんですね」
ユイの目が揺れる。
「ええ。彼女は、返事だけでは救えない願いがあると言った」
「間違ってますか?」
ユイはすぐには答えなかった。
窓の外では夕陽が沈みかけている。
「間違っていない部分もある」
ユイは静かに言った。
「だからこそ危険なの。月蝕教団の言葉は、完全な嘘ではない。救われなかった願いがあるのは事実。返事だけでは足りない痛みがあるのも事実」
「でも、器に押し込めるのは違う」
「ええ」
ユイは頷いた。
「願いは人を救う。けれど、願いだけになった人は、人ではなくなる」
その言葉は、衛二の胸に深く残った。
願いだけになった人。
器になるというのは、そういうことなのかもしれない。
自分の輪郭を失い、誰かの願いを入れるだけのものになる。
それは生きているとは言えない。
衛二は左手を握った。
「俺は、願いだけにはならない」
アストルフォが隣で微笑む。
「うん。ボクがさせない」
◇
二日目の夜。
遠坂邸の地下訓練室に、衛二は一人で立っていた。
正確には、一人ではない。
アストルフォが壁際に座って見守っている。
凛は結界の制御室。
士郎は隣室で安全装置の確認。
ユイは観測役として霊脈計測を行っている。
つまり衛二は、決して一人ではない。
今日は固有結界の輪郭を、もう一度だけ確認する。
完全展開はしない。
内的世界へ触れ、名前と詠唱の反応を見るだけ。
凛からは何度も釘を刺された。
『少しでも魔力が暴走したら中断。いいわね?』
士郎も言った。
『焦るな。見えたからといって、今すぐ開ける必要はない』
アストルフォは、もっと単純だった。
『危なくなったらボクが飛び込むから!』
それを聞いた凛は怒った。
『飛び込まない! まず私たちに知らせなさい!』
アストルフォはしょんぼりした。
衛二は少し笑った。
その笑いが、今は支えになっている。
「始める」
衛二は深く息を吸った。
魔術回路を開く。
体内に熱が走る。
投影魔術ではない。
五大元素でもない。
もっと奥。
自分の内側にある世界へ、意識を沈める。
暗い。
だが恐怖ではない。
夜のような暗さ。
炉が火を待つ前の静けさ。
衛二はゆっくりと言葉を紡いだ。
「我が骨子は、刃の夢を覚えている」
足元が震えた。
地下訓練室の床が、一瞬だけ硝子のように透ける。
その下に、無数の線が流れていた。
剣の設計図。
宝具の骨格。
武器が武器であるための理。
「血は星鉄に沈み、心は薄き玻璃」
空気に青白い火花が散る。
衛二の周囲に、半透明の剣が浮かび上がった。
まだ実体ではない。
投影でもない。
内的世界の影。
「幾重の戦場を映してなお、刃は曇らず」
観測室の向こうで、凛の声が聞こえた。
「魔力上昇。まだ許容範囲」
士郎の声。
「衛二、無理するな」
アストルフォの声。
「エイジ、聞こえる?」
「聞こえる」
衛二は答えた。
その声を聞いた瞬間、内側の世界が少し安定する。
やはりアストルフォの存在は、衛二にとって錨になっている。
「ただ一度も背を向けず」
剣の影が増える。
床下の設計図が星座のように輝く。
「ただ一度も己を赦さず」
胸が痛んだ。
その言葉は重い。
自分は何を赦していないのか。
父を超えたいと思うこと。
母に認められたいと思うこと。
誰かを救えない自分。
アストルフォを失うかもしれない恐怖。
すべてが胸を締めつける。
魔力が乱れた。
「エイジ!」
アストルフォが立ち上がる。
凛の声が飛ぶ。
「続行危険域に近い! 衛二、止めなさい!」
止めるべきだ。
頭では分かっている。
でも、衛二はもう一歩だけ進みたかった。
自分の固有結界を、逃げずに見たかった。
「彼の者は、常に境界に立ち」
声が震える。
「贋作と真実の狭間で、勝利を鍛つ」
地下訓練室の壁が消えかけた。
夜の工房が見える。
巨大な炉。
星鉄の火。
硝子の大地。
無数の剣の設計図。
その中央に、衛二は一人で立っていた。
いや。
一人だと思った。
けれど、違った。
背後に気配がある。
振り返らなくても分かる。
父の背中。
母の声。
ユイの祈り。
そして、アストルフォの手。
衛二は言葉を続ける。
「故に、その生に解はなく」
胸の痛みが強くなる。
願いの声が聞こえた。
助けて。
叶えて。
戻して。
終わらせて。
器になれ。
願いを抱け。
黒い声が混じる。
月蝕教団の干渉か。
それとも自分の中にある恐れか。
衛二の膝が揺れた。
その瞬間、アストルフォが結界内へ飛び込んだ。
「エイジ!」
凛が叫ぶ。
「アストルフォ、待ちなさい!」
だがアストルフォは止まらなかった。
桃色の騎士は、衛二の背中に抱きついた。
物理的な抱擁ではない。
半ば内的世界に触れかけた衛二を、契約を通じて抱きしめる。
「一人じゃない!」
アストルフォの声が、夜の工房に響いた。
「エイジ、ボクがいる!」
黒い声が遠のく。
衛二は目を見開いた。
アストルフォの腕が、確かに自分を繋ぎ止めている。
「……アストルフォ」
「最後まで言うなら、一緒に言って」
「これは俺の詠唱だ」
「うん。でも、エイジは一人じゃないから」
衛二は笑いそうになった。
無茶苦茶だ。
固有結界の詠唱に、サーヴァントが割り込むなんて聞いたことがない。
でも、それがアストルフォらしい。
そして、今の衛二には必要だった。
衛二は深く息を吸った。
最後の言葉。
まだ完全ではない。
まだ固有結界は展開できない。
それでも、この言葉だけは掴めた。
「されど、この手は誰かの願いへ届いた」
夜の工房に光が走る。
硝子の地面の下で、無数の設計図が一斉に輝いた。
そして衛二は、言い捨てるように告げた。
「――その魂は、きっと剣を超えていた。」
瞬間。
地下訓練室が、夜の工房へ変わった。
一秒にも満たない。
完全展開ではない。
だが確かに、そこには固有結界の輪郭があった。
無窮剣界。
アンリミテッド・ブレイド・レルム。
無数の剣が突き刺さる丘ではない。
星鉄の炉が燃え、硝子の大地の下に剣の設計図が星のように流れる世界。
真作と贋作の境界がほどけ、剣という概念が再び鍛ち直される領域。
衛二の周囲に、剣が生まれた。
干将・莫耶。
名もなき短剣。
神代の槍。
遠坂の宝石術式を宿した投影刃。
まだ見ぬ宝具の輪郭。
それらは一瞬だけ存在し、次の瞬間には光となって砕けた。
固有結界は閉じる。
衛二の身体から力が抜けた。
「エイジ!」
アストルフォが受け止める。
今度は現実の腕で。
衛二は膝をつきかけたが、アストルフォがしっかり支えた。
「……成功、したのか?」
凛が駆け寄ってくる。
「成功じゃないわ。輪郭の一時展開。しかも危険域ギリギリ」
「つまり?」
「無茶しすぎ!」
「はい」
凛の説教が飛ぶ前に、士郎が衛二の前にしゃがんだ。
「衛二、意識は?」
「ある。少しだるいだけ」
「魔力枯渇はしてないな。回路にも損傷はない」
ユイが観測結果を確認しながら言う。
「願望干渉の混入があった。月蝕教団の遠隔干渉かもしれない。でも、アストルフォの介入で切断されている」
凛がアストルフォを見る。
「飛び込むなって言ったわよね」
「ごめんなさい!」
アストルフォは素直に謝った。
だが、衛二を抱きしめる腕は離さない。
「でも、エイジが一人になりそうだったから」
凛は言葉に詰まった。
それから、深いため息をつく。
「……今回だけは、助かったわ」
「リン……!」
「でも次は事前に言いなさい」
「事前に飛び込むって言うの難しくない?」
「屁理屈を言わない」
アストルフォはしゅんとした。
衛二はその様子を見て、少し笑った。
「ありがとう、アストルフォ」
「うん」
「本当に助かった」
「うん」
「あと、重い」
「えっ」
「いや、抱きしめられてるから」
「じゃあ離れる?」
アストルフォは不安そうに聞いた。
衛二は少し考えてから、首を横に振った。
「……もう少し、このままでいい」
アストルフォの顔がぱっと明るくなる。
「うん!」
凛が額を押さえる。
「地下訓練室で甘え始めないで」
「精神安定目的です!」
アストルフォが即答する。
士郎が小さく笑う。
「まあ、今は必要だろう」
「士郎、あなた本当に甘いわね」
「凛も本気では止めてないだろ」
「うるさい」
遠坂邸の地下に、少しだけ笑いが落ちた。
危険な訓練だった。
だが得たものは大きい。
衛二は固有結界の名前を得た。
詠唱の骨子を得た。
そして何より、固有結界の中でさえ、自分が一人ではないと知った。
◇
満月前夜。
冬木大橋の上には、冷たい風が吹いていた。
橋の下、地下霊脈へ続く封印区画では、月蝕教団が動き始めている。
遠坂邸の屋上で、衛二は夜空を見上げていた。
月はまだ完全ではない。
だが、明日には満ちる。
その月が黒く欠ける時、月蝕教団は神杯の欠片を起動する。
衛二は手を握った。
無窮剣界の詠唱は、まだ完全に安定していない。
実戦で展開できるかは分からない。
それでも、必要なら使う。
アストルフォが隣に来た。
「エイジ、ここにいたんだ」
「ああ。少し風に当たりたくて」
「寒くない?」
「少し」
「じゃあ、ぎゅーだね」
「自然な流れみたいに言うな」
「自然だよ?」
アストルフォは笑いながら、衛二の腕に自分の腕を絡めた。
抱きしめるというより、寄り添う形。
肩が触れ、温もりが伝わる。
「明日だね」
「ああ」
「怖い?」
「怖い」
「うん」
「でも、逃げたくはない」
「うん」
「月蝕教団が集めた願いを、全部救えるとは思わない。でも、器にするのは止める。願いを利用して、誰かを壊すのは止める」
「うん」
「それで、返事をする」
アストルフォが衛二を見る。
「返事?」
「叶えられない願いにも、聞こえたって返す。そこにあったって認める。忘れないって言う」
衛二は夜空を見上げた。
「たぶん、それが俺にできることだ」
アストルフォはしばらく黙っていた。
そして、嬉しそうに笑う。
「エイジらしいね」
「そうか?」
「うん。全部背負おうとして、でもちゃんと考えて、最後は優しい答えを探すところ」
「優しいだけじゃ勝てない」
「でも、優しくないエイジはエイジじゃないよ」
その言葉に、衛二は少しだけ笑った。
「それは困るな」
「でしょ?」
アストルフォは衛二の手を握る。
「明日、ボクはエイジを守る」
「ああ」
「でも、守られるだけじゃなくて、ボクもエイジに守られる」
「もちろん」
「それで、一緒に帰ってくる」
「ああ」
「帰ってきたら、いっぱい甘やかす」
「そこまで決定事項なのか」
「決定事項!」
アストルフォは胸を張った。
「明日の戦いが終わったら、エイジをぎゅーして、よしよしして、おでこにキスして、あったかいお茶飲ませて、寝るまで隣にいる」
「完璧な計画だな」
「でしょ!」
衛二は笑った。
明日、何が起きるか分からない。
ミライの真意。
月蝕の巫主。
神杯の欠片。
無窮剣界。
不安は尽きない。
それでも、アストルフォがこんなふうに未来の約束をしてくれるだけで、明日を越えられる気がした。
「アストルフォ」
「なあに?」
「明日も、俺の隣にいてくれ」
アストルフォは一瞬だけ目を丸くした。
それから、花が咲くように笑った。
「もちろん」
彼は衛二の手を両手で包んだ。
「ボクはずっと、エイジの隣にいるよ」
衛二は頷いた。
夜空の月が、静かに雲間から顔を出す。
その光は白く、冷たく、どこか不吉だった。
だが衛二の胸の中には、別の光がある。
桃色の騎士がくれた、温かい光。
そして自分の内側に灯った、星鉄の炉の火。
無窮剣界。
まだ未完成の固有結界。
だが、衛二はもうその名を知っている。
詠唱も、最後の一文も。
明日、必要ならば言い切る。
器ではなく、人間として。
遠坂衛二として。
アストルフォのマスターとして。
その魂は、きっと剣を超えていた。
◇
同じ夜。
冬木大橋の地下深く。
封印区画のさらに奥で、黒い祭壇が組み上がっていた。
欠けた杯が浮かんでいる。
その周囲には、願いの光が無数に漂っていた。
叶わなかった祈り。
届かなかった声。
失われた約束。
忘れられた名前。
それらが月の満ちる時を待っている。
祭壇の前に、ミライが立っていた。
彼女の背後から、顔の見えない人物が声をかける。
「観測結果は?」
「遠坂衛二は、器としての適性を保持。ただし精神的抵抗が想定以上。サーヴァント、アストルフォとの結合が強い」
「愛か」
月蝕の巫主は、静かに笑った。
「厄介だな。愛は願いを強くする。だが同時に、器の輪郭を強化する」
「はい」
「ならば、砕けばいい」
巫主の声は穏やかだった。
「愛するものを守りたいという願いは、最も器を満たしやすい。アストルフォを傷つければ、遠坂衛二は必ず願う」
ミライの瞳がわずかに揺れた。
「……アストルフォを標的に?」
「そうだ。彼の願いを引き出せ」
黒い杯が震える。
「守りたい。失いたくない。助けたい。その願いが、彼を器へ近づける」
ミライは沈黙した。
ユイの声が脳裏に蘇る。
――あなたも守る側だったはず。
ミライは目を閉じた。
そして静かに答える。
「了解しました」
黒い祭壇の上で、欠けた杯が脈打つ。
満月まで、あと一日。
冬木の夜は、深く沈んでいく。
そして遠坂衛二とアストルフォの契約は、次の夜、最大の試練を迎えることになる。
涅槃
1,342
コメント
1件
めっちゃ熱い回だった…!!🔥🔥 衛二が固有結界「無窮剣界」の名と詠唱を掴むまでの流れ、心臓バクバクしたよ…! 特に、アストルフォが「エイジ、一人じゃない!」って結界の中に飛び込んで抱きしめたとこ、もう最高すぎて叫んだ😭💕 「この手は誰かの願いへ届いた」って締めの一文、衛二らしくて泣ける…。 満月前夜の屋上で「一緒に帰ろ」って約束するシーンも尊すぎて反則級! 次回、絶対に二人で帰ってきてくれ…!!