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2年前。
再び自宅に美智を招き入れた篠崎は、淹れたてのロイヤルミルクティーを見つめ、それから、怪我をした彼女を眺めた。
美智の様子と、暴力の激しさ、彼女の判断力の浅さから、予断を許さない状況であることを理解した篠崎は、ローテーブルにカップを置くと、怯えと期待の入り混じった美智の瞳を見つめた。
「美智さん」
「……あなたに」
美智は隣に座った篠崎の太腿に細い手を置くと、乾ききった唇で言葉を繋いだ。
「あなたに名前を呼ばれると、私………」
唇とは対照的に潤む瞳が左右に揺れる。
「………自分の名前が嫌いなの、本当は。漢字も、響きも。でもあなたに名前を呼ばれると、私、美智って名前が堪らなく好きに……」
紡がれる言葉に、真っ直ぐに向いてくる想いに、さすがにいたたまれなくなり、思わず引き寄せてその唇を奪った。
乾いた砂漠にオアシスを探すように舌を差し入れると、美智は一切の抵抗をせずにそれを受け止めた。
堅く乾いていた唇が、二人の唾液で濡れて、気だるくふやけるまで篠崎は唇を合わせた。
それは乾物を水で戻すような“作業”で、人間じゃなくなった美智に、思考回路を取り戻すための“手段”だった。
長いキスの後、顔には血色が戻り、手には体温が戻り、瞳には力が戻り、人間として再生した美智に、篠崎は言った。
「俺のために、逃げてもらえませんか?」
それは早急すぎる賭けだった。
美智は日ごろの辛さから、唯一の捌け口である篠崎に依存してきているのは分かっていた。
しかしそれはあくまで捌け口であって、“逃げ道”ではない。
自分に身一つで逃げ出してきてくれれば何とでもなるのだが、彼女はまだそこまでではないという実感があった。
しかし彼女が心身ともに自分に陶酔するまで待つ時間はなかった。
篠崎は驚いた顔をした美智を見つめた。
もちろんこれは自分にとっても相応のリスクを伴う。
美智は暴力を奮われてはいるものの、夫と婚姻関係を続けており、篠崎との関係は誰がどう見ても不倫だった。
さらに彼女は感情的で、判断力・思考能力において長けているとは言えず、いつ誰に、篠崎とのことを話すかもわからない。
夫に問い詰められた時、または夫の怒りや暴力から逃げるために、篠崎の名前や、篠崎との関係を、自分に都合よく湾曲して伝えるかもしれない。
どうして自分がそこまでのリスクを背負い、彼女のために尽くす必要があるのか。
恩があるわけでもない。ましてや、
愛しているわけでもない、この女に……。
しかし、そのやせ細った顔が、どうしても、かつて地獄の縁にいた佳織と被り、篠崎は捨ておくことが出来なかった。
「逃げるって」
彼女がか細い声を上げた。
「どうやって……?」
先ほどまで左右に揺れていた瞳が、まっすぐ篠崎を捉えた。
あの日。
一緒に逃げようと約束し、駅の待合室で美智を待っていた篠崎は―――。
人間の顔が崩れるさまを見た。
篠崎の背後に、見覚えのある人物の顔を見つけた彼女は、顔を雪崩のように崩すと、両手で顔を覆って泣き叫んだ。
電車の発着に合わせて、人が忙しなく行き来する待合室の入り口で、彼女は人に避けられながら、その場で座り込んでしまった。
彼女の手を、彼女の母親が握った
彼女のやせ細った背中を、父親が擦った。
篠崎は一歩引きながら、傷ついた彼女と、それを本当に心から想う2人を見ていた。
「ひどい……」
美智は母親に抱き着きながら篠崎を睨んだ。
「騙したの?」
そうだ。篠崎は彼女を騙した。
顧客情報から、融資の連帯保証人になっていた両親の住所と連絡先を調べるのは容易だった。
東北に赴き事情を説明すると、もともと最近連絡が途絶えがちな娘のことを心配していた両親は、二つ返事で篠崎の計画に乗ってくれた。
「ひどいじゃない。嘘つき!!」
夫に対して、地獄のような日々に対して、両親を失望させてしまった自分に対して……。
行き先を失った全ての怒りが、自分を騙した篠崎に向く。
美智は篠崎を飛び掛からんばかりの殺気を込めて、睨み続けた。
「違うの!」
感情的になっている娘をなだめようと母親が言った。
「篠崎さんは、あなたを騙したんじゃなくて、あなたのことを本当に想って、私たちに連絡をくれたのよ」
「嘘よ!どうせ面倒になって押し付けたのよ!」
割れるほどの声を出す娘を母親は強く抱きしめた。
「篠崎さんの立場もわかってあげなさいよ。あなた、まだ離婚してないでしょう?!」
「………」
母親に抱きしめられながら、美智は無表情に篠崎を見上げた。
「じゃあ、離婚したら、迎えに来てくれるの?」
「そんなの、当たり前だろう」
父親もそれに便乗した。
「……ホントに?」
美智は父親ではなく篠崎を見つめて言った。
「…………」
篠崎は小さく息を吐き、そして頷いた。
「離婚が決まったら、連絡を下さい」
「ホント?ホントに、待っててくれる?」
篠崎はその真ん丸に見開かれた瞳に微笑んだ。
「ああ、待ってるよ」
美智はつきものが取れたかのように体中の力を抜くと、母親にもたれ掛かった。
母親がその体を支えながら立ち上がる。
「篠崎さん、ありがとうございました」
そして腹話術の如く美智の体ごと頭を下げると、改札へと歩き始めた。
転がっていた大きな美智の荷物を持ち上げながら父親が耳打ちしてきた。
「落ち着いたら、ちゃんと私たちから言って聞かせるので、大丈夫ですよ。娘のことは……」
そこで父親は感極まったのか、唇を震わせた。
「娘のことは、忘れてください」
品の良いカシミヤのコートを着た父親が踵を返すと、待合室には東北新幹線の到着を知らせるアナウンスが鳴った。
「あの手紙……」
紫雨のアルコールで焼けた声が、篠崎を2年前の記憶から現実に引き戻した。
「あなたに渡す前に、新谷は読んだと思います?」
「…………」
篠崎は目を伏せた。
「封はどうでした?開けた痕はありましたか?」
「……いや、小さいシールで簡単に貼られていただけだから、開けてもわからない」
紫雨は細く長いため息をついて、グラスの中身を飲み干した。
「それも、彼女の作戦でしょうね」
彼が被りを軽く振ると、サラサラの前髪がふわっと左右に振れた。
「もし万一、読んだとしてもきっと2枚目までは目を通してないと思う」
呟くように言うと、紫雨はカウンターに肘を付いて凭れかかった。
「確かに、ゲーテの詩なんて、今どきの20代が読もうと思わないですからね。しかも彼、技術系だし。ま、俺も読まないでしょうけど」
鼻で笑いながら、紫雨が大きな目で篠崎を下から見上げる。
「2枚目を読んでいたら、新谷はあれを渡さなかったでしょうし」
「…………」
紫雨が脇に置いてあった上着を引き寄せる。
「では、俺はそろそろ帰って、あんたをおかずにマスかいて寝るとします」
結局何のために自分を呼んだのかわからない男は、少し足元をふらつかせながら、立ち上がった。
「あ、そうだ。忘れるところでした」
上着を羽織りながら振り返る。
「新谷が結婚するそうですよ。それだけ、伝えなきゃと思って」
篠崎は黙ってグラスを傾け、中身を飲み干した。
「じゃ。約束は果たしましたよ」
紫雨は笑いながら一万円札をグラスの脇に置くと、会釈をするマスターに手を上げて、バーを後にした。
「……知ってるわ」
残された篠崎は、天井から吊るされた無数のワイングラスを見上げ、瞼を瞑った。