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それはとても暗い部屋だ。神々の眼にあっては何もかもが明け透けに映る地上ではなく、ありとあらゆる隙間を通り抜ける卑しき魔性の類でもたどり着くことはできない地下深くにある隠された部屋だ。秘密を嗅ぎつける者たちならばその臭いを見い出すこともあろうが、しかし幾重にも重なる呪いの罠は蜘蛛の巣のように忍び入る者の灰色の魂を絡めとって、しかし省みることもなく永遠に捨て置く。
その、季節に関わりなく日の光が届くことのない地下室の石の床が、壁が、天井が知る温もりはわずかな蝋燭の炎と人の吐息だけだった。窓も飾りもない寒々としたその部屋は数本の燭台で控えめに照らされている。そのような暗く遠く密やかなやましい部屋に一人の男と一人の女がいる。
痩身に白い長衣を纏った壮年の男と全身鎧を纏った女は部屋の中心のそれに相対している。
その部屋の中心には一体の怪物が蹲っていた。渦巻くように生えた黒い毛に覆われ、太く長い手足が落ち着きなく床を叩く。頭には古木のような角が生え、狂ったように捻じれていた。開いた口からは赤黒い蛭のような舌がだらりと垂れ下がり、鋸のように並ぶ鋭い牙を舐めている。そして頑なに目を閉じていた。
壮年の男は小さな硝子瓶を持って、怪物と対峙している。だがその様子は親身だ。労わるような眼差しで静かに硝子瓶の蓋を開けている。
鎧の女は部屋の隅でとても薄くて大きな布を畳んで膝に置いて、粗末な椅子に座っている。まるで空の鎧を据えているかのように行儀よく、また微動だにしない。
女が男の背中に向けて口を開く。「古墓の森の怪物か?」
「ああ」男は低い声を絞り出すように言う。「幼い頃に母を殺されてね。まあ、私は怪物の姿を目撃したわけではないから、正確には私の想像の姿ということになるのだろうが」
怪物が鋭い牙の並ぶ口を開く。「ハイム……何?」
その声は獣の唸りと剣のかち合う音を足したような耳障りな響きだ。
女は兜の中から優しい声色で諭す。「いえ、お気になさらず、殿下。じっとなさってください」
「分かってるわ。そうしているでしょう。そんなことより早くしてね」怪物は目を瞑ったまま、女の声の聞こえる方を向く。「今日は蒲公英に本を読んであげる約束なの。きっと待ちくたびれているわ」
「ご心配なさらず、殿下」と男は猫撫で声で言った。硝子瓶の蓋をゆっくりと開く。「すぐに終わりますよ。すぐに召使の待つ部屋へ戻れましょう」
そして開いた硝子瓶から温かでありながら爽やかな、そして何より魔を秘めた微風が吹き、醜い怪物の体を包み込む。
その場の誰も一言も発することなく、蝋燭の炎のちりちりという囁きだけが聞こえる時間が過ぎていく。何も起こらなかった、ということを二人と一体の怪物は時間をかけて確認する。
男は小さくため息をつく。「さあ、殿下。今日の治療は終わりです。少々お待ちください」
男は椅子に座る女から布を受け取り、殿下と呼ばれる怪物にすっぽりとかぶせる。撫子、桃、玻璃化粧草、庭薺、忘れ雪。思いつく限りの春の花が密に描かれた華々しい布だ。そうしてすっかり怪物の姿を隠してしまうと、男は全身鎧の女に目で合図をし、部屋から出て行った。
すると怪物の隠れる布がみるみる小さくなり、ついには子供の背丈になる。布がもぞもぞと動き、覗き穴の位置を調整する。中から子供の小さな手が伸ばされる。女は立ち上がると冷たい籠手でその温かな手を取り手を引いて、男の後を追うように扉をくぐる。
隣は更に広い部屋で、男は端の方で机に向かって背中を曲げて、何か書き物をしていた。うってかわって雑然とした部屋だ。奇妙にねじれた硝子や真鍮の器具があり、球形や三日月のような形をした容器があり、色とりどりの液体や異臭を放つ粉末がある。二人の手近のどっしりとした机に先ほどの硝子瓶が置かれていて、布をかぶった子供は興味深そうに見つめる。硝子瓶の口はまだ小さな風を吹かせていた。
二人は男に別れといずれの再会を約束する古めかしい挨拶をすると、その広い部屋を通り抜け、反対側にある扉を出る。そうして現れた蝋燭の並ぶ長く薄暗い廊下をずっと歩く。
「今日も駄目だったのね?」と、布の中から子供の声が言った。
「ええ、駄目でした」鎧の女は少しの躊躇もなく淡々と答える。「ありとあらゆる怪我や病を治すという万能の霊薬と謳われる薬なのですが、殿下の病は治らなかったようです」
「そう。まあ、いいわ」と布の中の子供の声は何でもないかのように言う。
しばらくして突き当たった石の螺旋階段を上る。二人の足音が複雑に響き、谺する。
女は淡々としていながら咎めるように言う。「良くはないでしょう。殿下はご病気を治したいとは思わないのですか?」
布はかぶりを振って答える。「ええ、思わないわ。多少不便なところはあるけれど、苦しくも辛くも痛くもないもの。風邪をひいた時の方がよっぽど辛かったわ」
「ですが、ご病気を癒された暁には外で遊ぶこともできますし、ご兄弟とお話しをすることもできましょう」
「それは、ちょっと魅力的ね」布の子供は少し興奮した様子で声を明るく高くする。「わたくし、以前に窓からとても綺麗な女性を見たの。たぶんあれが姉様だわ。一度お話してみたい。きっと綺麗な声なのよ」
「姉殿下ですか。ご病気を快癒されれば何度となくお話できますよ。姉殿下もその日を待ち望んでおられることでしょう」
螺旋階段を上り切り、きっちりと閉められた扉を開くと、邪な者の目から隠された神殿の装飾窓から漏れるような、細やかな光が零れている。先程までの無骨で陰気な様子とはがらりと変わり、同じ石の造りながら優雅で繊細な回廊だ。しかし無数の硝子窓の全ての窓掛が閉じられていて、ほんの少し透けて通る日光がまだ昼だと告げている。他に誰もいないその通路を二人は静々と進みゆく。
通路を抜け、階段を通り、再び通路を行く。とうとう二人はある部屋の分厚い扉の前にたどりつく。春の花々を施された彫刻は格式高く、その向こうにあるべきものが貴い存在であることを伝えている。しかしその扉にはまるで相応しくない粗野で無骨な錠が五つも用意されている。今は一つとして施錠されておらず、女はすんなりと扉を開いた。
とても大きな、そして華麗な部屋だ。稲妻に縁どられた花畑を描いた絨毯。絹の紗で飾り付けられた天井付きの寝台。美麗な本が詰め込まれた黒檀の書棚。幾重もの細かな刳形を施された暖炉。窓に硝子はないが窓蓋が大きく開かれて光が溢れ、艶やかな噴水と瑞々しい芝生の美しい中庭を映し出している。
「実り様!」
澄み渡る空と自由を讃える小鳥のように声高らかに言って、十にも満たない歳の少女が好奇心に抗えない子犬のように駆け寄って出迎える。
召使らしく清潔で粛とした衣を着ており、不作法に気づいて少女は笑顔を鎮める。
その少女は盲いている。しかし慣れた様子で、杖も突かず、二人の元へと歩み進み、まだ慣れぬ作法で佇まいを作る。
レモニカと呼ばれた布の子供は召使の少女の手を取って、本棚の方へと手を引く。すると布を纏ったレモニカは、今度は倍くらいの大きさになり、声は甲高くなる。
「ただいま、メールマ。待たせたわね。今日は貴女の好きな本を読んであげる約束よ。覚えていて?」
「はい。このメールマ。レモニカ様がお約束してくださった日から、この日を楽しみに日々を懸命に働き、生きて参りました」
レモニカはからからと笑って言う。「メールマは大げさね。貴女がいつも尽くしてくれていることへのせめてもの恩返しなのよ?」
メールマははにかみ、大きな爪の生えたレモニカの手を握りしめた。そして首を傾げて尋ねる。「しかしなぜこの日だったのですか?」
レモニカは少し言い淀みつつ答える。「初めは、あなたが私の歳に追いついた誕生日にしようと思ったのだけど――」
「少々難しい単語があったので、私から学んでいたのだ」鎧の女は扉のそばに佇んだまま言った。「メールマには言ってなかったかな。私は殿下の親衛隊長であると同時に教師でもあるのでな」
「まあ、レモニカ様。メールマのために、そこまで」
盲のメールマは感動で震え、今にも泣きだしそうな表情を浮かべる。
鎧の女は少しばかり饒舌になる。「それはもう熱心に取り組んでおられる。特にご自分の名前でもあらせられる――」
「いつまでそこにいるの!?」とレモニカが鎧の女の言葉を遮るようにきいきい声で言い募る。「今日の授業はなしの約束でしょう。もう帰って!」
「それでは失礼します。後は頼んだ、メールマ」
鎧の女は丁寧に辞儀をし、部屋を出る。そして全ての錠を施錠する重々しい音が響く。
「全く、余計なことを言うんだから」と言ってレモニカは布を脱ぎ捨てる。
メールマは布を拾って慣れた様子で畳みながら言う。「殿下、約束通り。鷹の雛鳥物語を読んでくださるんですね」
「もちろんよ、メールマ。貴女は本当にマルカティシアが好きだものね。いつもマルカティシアの宿敵の、怪物に怯えているくせに」
「だからこそです。マルカティシアはとても怖ろしい怪物に勇敢に立ち向かうのです。メールマは幸せです。マルカティシアのように心優しいレモニカ様に本を読んでいただけるなんて」
「褒め過ぎよ。でも、そうね。わたくしはいつでも貴女を守ってみせるわ、怪物でも何でも。だけど」レモニカはくすくすと笑う。「今日はもっと貴女を喜ばせられると思うわ」
そう言ってレモニカは手に持った硝子瓶をメールマに握らせる。メールマは確かめるように瓶を触る。
「何ですか? これ。硝子の瓶、でしょうか」
レモニカは得意そうに答える。「それはね。万能の霊薬っていうとっても凄い薬なの。どんな病気も怪我も治せてしまうのよ」
メールマは少し混乱した様子で姿の見えない相手を探すようにレモニカに顔を向ける。
「それを、どうしてメールマに?」
「貴女の目を治すために、くすね……、取り寄せたに決まってるでしょう!」
メールマはしわくちゃな表情を浮かべ、大粒の涙を零し、もう一方の手で顔を覆う。
「目を!? メールマの目が治るのですか?」
「何だって治せる魔法の薬だもの。当り前じゃない」
「ですが、それならば殿下の御病気を治すのが先決です。メールマなんかに使っていいはずがありません」
何だって治せる、と嘘をついてしまったことにレモニカは気づいた。しかし、最初に嘘をついたのは侍医であり、親衛隊長だ。それに自分の病が普通の病ではないことは知っている。幼い頃より、ありとあらゆる治療を試して、そして一つとして効果はなかったのだ。
しかしメールマが盲となった原因は取り立てて珍しくもないただの怪我、傷によるものだと以前に聞いていた。万能の霊薬が効かない理由はないだろう。
「わたくしの病は特別なのよ。それに、これはメールマのための薬なのだから、気にすることはないわ」
「ああ、殿下。何てお優しいんでしょう。メールマは、何の取り柄もない、平民の娘に過ぎないのに」
レモニカはメールマの頭を撫でる。「でも貴女は私の親友でもあるのよ。これで、貴女は久しぶりに父母の顔を見れるし、生まれたばかりの妹の顔も見れるのよ。泣かないで、笑って、メールマ。わたくしは貴女のとびきりの笑顔が見たくてこの薬を手に入れたのだから」
メールマは何度も何度も涙を拭い、笑顔を浮かべ、しかし涙が涸れることはなかった。
「ありがとう、ありがとうございます。殿下。メールマは、何とお礼を言えば良いのか」
「良いのよ、礼なんて。わたくし、少し羨ましいくらいだもの。ずっと暗闇に生きていた者が光溢れる場所に出て来られたなら、それほど世界が大きく変わることなんて他にないって分かるわ。さあ、わたくしが蓋を開けてあげる。この薬は世にも珍しい風でできた薬なの。これを目に浴びせれば、きっと貴女は光を取り戻すことができる」
レモニカは鋭い爪を立てて、蓋をこじ開ける。ほんの小さな風がメールマの瞼に吹きつける。そしてメールマはゆっくりととても眩しそうに目を開いた。その瞳には新鮮な喜びと感謝に彩られていた。
「見えます! 見えます! 殿下! 光が! 色が!」
メールマは辺りを見渡す。美しい書棚。美しい絨毯。美しい天井画。ずっとこのようなところで、心優しい王女様と働いていたのだという誇りと喜びがさらなる涙を誘う。
そうしてすぐそばに立つレモニカを改めて見上げる。途端にメールマの表情は凍り付き、張り裂けんばかりに目を見開く。そして喉が潰れかねないほどの声で叫び、ひっくり返って床を這うようにして逃げる。
「レモニカ様! レモニカ様! どこ!? どこにおられるのですか!?」
「どうしたっていうのメールマ!」レモニカはメールマに覆いかぶさるように訴える。「わたくしはここよ! ここにいるわ!? わたくしの姿が見えないの!?」
メールマは死に物狂いで叫び、這いずり逃げる。
「助けて! レモニカ様! 怪物が! マルカティシアの宿敵が!」
メールマはあらぬ限りに叫び、助けを乞い、目の前に現れた怪物を呪い、そうしてついには意識を失った。