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その小さな呟きが耳に入った瞬間、咄嗟に意味が理解出来ずに丸テーブルを挟んだ隣で一人掛けのソファに腰を下ろし、長い足をベランダの手摺りで支えている横顔を見つめてしまう。
「……何だって?」
もう一度言ってくれないかとやけに喉に引っかかる声で問いかけると、長い足の先に向いていた視線が顔ごとこちらに向き、今まで数え切れない程見てきた笑みを浮かべる。
「……ゾフィーに会いに行くときは今日みたいに真っ青な空が良いなって思っただけだ」
告げられる言葉の意味は理解出来るが突然のそれの意味が理解出来ず、思わず背中を浮かせて腿に置いていた雑誌を取り落としながらテーブルに身を乗り出す。
「どうした?」
「ん? この間ノアが新しく出した写真集を送ってくれただろ?」
それは、お互いに兄弟がいるという事実を数年前に知った後、周囲の人たちの手助けと本人同士の相互理解の結果、兄弟でもあり友人でもあるという不思議な関係に落ち着いた青年、ノア・クルーガーが仕事の成果を写真集という目に見える形で送ってくれたのだが、それを見ているときに思い浮かんだと教えられ、同じものを見たはずだが己にはそんな考えが浮かんでこなかったと苦く笑うと、その苦みを解消するような甘い掌が頬に宛がわれる。
「ほら、ヤコブの梯子って呼ばれてる雲の切れ間から日が差してる写真があっただろ?」
「ノアが名刺代わりにしているポストカードの写真だったな」
「うん、そう。確かにあの光は梯子かもしれないけど、天国への門が開くときってもしかしてこんな真っ青な空の時じゃないのかなってふと思った」
だったら、今までマザーやゾフィーやお前を泣かせてきた俺でも天国に行けるんじゃないかと思ったと笑う顔は、視界の端に入り込んでいる空と似通った突き抜けたもののように感じ、頬に宛がわれている手に手を重ねてメガネの下で目を閉じる。
「今日みたいな日にさ、オーヴェに見守られながら天国に行くって最高じゃね?」
目を閉じているために暗い世界に響く声は達観した老人のもののようにも、まだまだこれから先己の人生で何があるのか分からないから楽しみだと、好奇心に満ちた若い青年のもののようにも聞こえ、薄く目を開けると、毎日見続けているためにその貴重さを危うく忘れてしまうところだった笑みを浮かべる顔が見える。
「俺が看取るのか?」
「そう! オーヴェに看取られて、まずは地獄に行くだろうから、そこでゾフィーと再会する」
「彼女は地獄にいるのか?」
「んー、マザーやアーベルが毎日毎晩祈ってるだろうけど、まだ地獄にいるんじゃねぇの?」
ゾフィーという二人にとっても感情を揺さぶられる存在の女性は、生前の行いからカトリック的な考えでは間違いなく地獄で責め苦を受けているだろうが、そんな彼女を救いたい一心で現世で祈り続ければいつか地獄から救い出されることを疑っていない顔で笑いながら告げるリオンに微苦笑したウーヴェは、じゃあお前より先に俺が逝くときはハシムに真っ先に会いに行こうかと笑みの種類を変えると、青い目を盛大に見開いたリオンがソファから身体を起こして反対と声高に叫ぶ。
「ダメ! 反対!」
「お前は良くて俺はダメなのか?」
「そう! オーヴェは俺よりも一分でも一秒でも長生きしなきゃいけないからダメ!」
ダメだったらダメだ、絶対に許しませんし認めませんと目を吊り上げる己の伴侶の剣幕に呆気に取られて絶句したウーヴェだったが、自然とこみあげてくる笑いを肩で何とか押しとどめながら何だそれはと拳を口元に宛がう。
「オーヴェはベアトリーチェだからな、地獄から煉獄に這い上がった俺を天国に連れて行かなきゃだめだ」
「ベアトリーチェはダンテより先に亡くなっていないか?」
「うん、でもさ、俺はきっと地獄と煉獄にいる時間が長いと思うから、オーヴェはゆっくりしてから来いよ……待った」
神曲の登場人物に自らを準えるのならば俺が先に死んでいないとおかしいと笑うウーヴェにリオンが時間がかかると笑い返すが、ふと何かに気づいた顔で考え込んでしまい、いやいや、ダメだと顔を激しく左右に振る。
「リーオ?」
「ゆっくりなんかしちゃだめだ。すぐに迎えに来るから待っててくれ」
己よりも先に死ぬなに始まり、ゆっくりすればいいと言った舌の根が乾かないうちにすぐに迎えに来ると言い張るリオンの相変わらずな言動の支離滅裂さに呆れ返ってテーブルで頬杖をついたウーヴェだったが、確かに今日のような雲一つない青空の中、煉獄を登ってくるリオンを出迎えるのも悪くないと気づき、ああ、どうすればいいんだと、婚約者がいる女性を好きになってしまった青年のように悩んでいると眉根を寄せる顔を見ていると、先ほどの言葉の衝撃が薄れていく気持ちになる。
突き抜けるような青天の下、いつか必ず別れが訪れるのならば確かに今日のような日が良いと自然とそう考えたウーヴェは、いつまでも考え込んでいるとここに皺が刻まれるぞと苦笑しつつリオンの寄せられた眉根を親指の腹で撫でると、それが魔法か何かのように眉が開いて青い目が笑みの形に変化する。
「もしも出来るのなら同じ日に同じ場所で死ぬことができれば良いな」
「うん、それが最高だな」
でもそれはきっと恐ろしく低い確率だろうから、やはりオーヴェは俺を送らなければならないんだと胸を張られてしまい、それ以上何も言い返す気力が無くなってしまう。
「だから約束、オーヴェ」
約束との言葉に一瞬鼓動を跳ね上げたウーヴェは、お前が満足したら神様に止められても必ず迎えに来るからと笑う顔に一つ頷き、了承の証にもう一度頬を撫でて額にキスをする。
「一番大切な約束が出来たからさ、今日のランチはワインを飲んでも良いぜ、オーヴェ」
今日は安息日、どこにも行かないからランチでワインを飲んでも良いし、食後に兄貴が持ってきてくれた酒を飲みながら映画鑑賞をしてもいいと、唯一の気がかりを解消できた満足感に伸びをするリオンの言葉に一度目を伏せた後、マウリッツに教えてもらった料理を作りながらビールを飲み、それを食べるときに白ワインを開けようと、リオンが絶対に逆らうことのできない笑顔で告げると、作りながら飲んで食う時も飲むのかよとげっそりとした顔で呟かれる。
「飲んでも良いんだろう?」
そう言ったのはお前だとテーブルに突っ伏すリオンのくすんだ金髪を撫でると、オーヴェのトイフェル、悪魔というお決まりのフレーズが流れ出し、ほんの少しだけ気の毒に思った為に食後はチョコレートチップをまぶしたアイスを食おうと提案をすると、疑いの眼が向けられる。
「心外だな」
「……バニラとチョコアイスにチョコチップをかける」
「うん、まあそれも良いんじゃないか?」
そのあたりで手を打とう、だからいつまでもそんな顔をするなと笑うとテーブルから上体を起こしたリオンがもう一度伸びをして青空へと顔を向ける。
「きっと今どこかで天国の扉が開いているぜ」
「……そうだな、今日のような日ならばそれもあるかもしれないな」
これ以上この話題を続けるつもりはなかったためにそっとそう呟いたウーヴェは、立ち上がったリオンの手を借りて同じように立ち上がり、マウリッツ直伝の料理を教えてくれと笑うリオンの腰に腕を回し、二人同じ速さでキッチンに向かうと、宣言通りに真っ先にウーヴェが冷蔵庫から取り出したビールを開け、もう何も言いませんと言いたげな顔のリオンの頬によき理解者で嬉しいと感謝のキスをし、友人から教わった料理を作るための材料をパントリーや冷蔵庫から出すように指示をするのだった。
広いキッチンでランチの準備を行う二人だったが、目が痛みを覚えそうな蒼穹が窓枠の中でまるで絵画のように納まっている事に気付かないほどキッチンに賑やかな声を響かせるのだった。
お気に入りのチェアに腰を下ろし、二重窓の外に広がる蒼穹へと目を向けたのは、今日の診察を終えて疲労感を少し滲ませた溜息を吐いたウーヴェだった。
そんな彼のために今日も支えになってくれたリアが、ゆっくりとした所作でハーブティーの用意を行い、ああ、ありがとうと笑みを浮かべる。
「診察を少しセーブして楽になったかしら」
「そうだな、楽になったな」
寄る年波には勝てないと肩を竦めつつ彼女が用意をしてくれるお茶とビスケットで疲れを癒していると、自然と二人の視線がドアに向けられる。
以前とは違って静かなティータイムを取れるようになってからの日数など数えてないが、今日も静かだなと笑ってカップに口を付けたとき、思わず飛び上がってしまいそうな激しい音が部屋中に響き、リアの手からビスケットが落ちてしまう。
「……本当に、いつまで経っても直らないわね」
「そうだな」
でもきっとアレがないと静かすぎて寂しさを覚えるんだろうと、今もそれを覚えていることを教えるような顔で呟いたウーヴェは、リアが立ち上がろうとするのを制し、今日はもう閉めるからお疲れさまと労いの言葉を掛ける。
「あなたも、お疲れさまでした」
「ああ。……気をつけて帰ってくれ、リア」
ありがとうと礼を言い、部屋を出ていく彼女の小さく丸くなった背中を見送ったウーヴェだったが、さてと呟いた後にもう一度激しい音を立てるドアへと顔を向け、嘆息交じりにどうぞと告げる。
『ハロ、オーヴェ!』
遅くなったけれど迎えに来たぞと笑う顔はウーヴェが毎日見続けても飽きることのない、いつまで経っても子供のような満面の笑みに彩られていて、自然と目元を綻ばせたウーヴェだったが、その口から流れ出したのは遅いという一言だった。
「遅い」
『えー、これでも頑張って大急ぎで迎えに来たんだぜー』
だから遅いなんて言わないでくれとくすんだ金髪に手を当てて口を尖らせる顔すらも愛おしかったが、素直にそれを認めたくなかったためにチェアから立ち上がり、すっかり年季の入ったステッキをついてデスクに向かい、そこに尻を乗せる。
「すぐに迎えに来ると言ってなかったか?」
『んー、そうしたかったけどさぁ』
神様が意外と意地悪いで中々離れられなかったんだと言い訳を始める顔を見つめてもう一度遅いと呟くと、いつかの空を彷彿とさせる青い目が困惑に染まり、もーという不満の声が上がる。
『迎えに来たんだから喜んでくれても良いだろ?』
いつもいつも言い続けていたが、素直じゃないお前も好きだけど素直なお前はもっと好きと耳にすっかりなじんでしまった言葉を聞き、ふ、と息を吐くと同時に意地悪をしたくなった気持ちも吐き出すとリオンを手招きする。
「来い、リーオ」
『……へへ。お待たせ、オーヴェ!』
やっと迎えに来れたぜーと笑って抱きしめてくるリオンの背中を同じ強さで抱きしめたウーヴェは、クリニックを閉める準備をする間ぐらい待てるなと問いかけ、仕方がないと言いたげな嘆息をもらってじろりと睨むが、再度短く息を吐いてその腰に腕を回して窓際のチェアの前に向かう事を伝えて歩き出す。
お気に入りのチェアに再度腰を下ろすと肘置きにリオンが腰を下ろしたため、寄りかかるように上体を寄せると肩に腕が回される。
「……いつかみたいな空だな」
『ん?』
「今日も雲一つない空だな」
『うん、そうだな』
風も気持ち良いぞと笑う声に同調するように口の端が自然と持ち上がり、ああ、気持ちが良いなと呟くと門が開いているからと小さな声が気持ちよさの理由を教えてくれる。
「そうか」
『うん、そう』
二人で二重窓の外を見ていると時の流れに溶け込んだ気持ちになり、本当に気持ちいいと目を閉じる。
リオンと結婚をしたときに天上にあるとされる青を自分だけのものにしたいと告白したが、今、自分たちの頭上を覆う蒼穹はあの時願ったものと同じ色をしていて、その色を宿した瞳を見たいと顔を見上げると、視線に気づいたのか小首を傾げられる。
『オーヴェ?』
「……何でもない」
『そっか』
それがいつもの口癖だと気付きながら、もうそろそろいいだろうと笑ったリオンに更に身を寄せたウーヴェは、いつだったかお前が言っていた事は本当だったなと呟き、そうだろうと胸を張っているような声音に自然と笑いがこみあげてくる。
「ああ」
約束を果たすのに時間がかかったけれどこの青に抱かれているから許そうと笑うと、オーヴェ大好き、愛してるというおどけた風を装った告白が耳に流れ込み、胸へと落ちて指先にまで伝わっていく。
その熱と重さはいつも告白されていたころと何一つ変わらないもので、ああ、と嘆息すると同時に誰よりも何よりも頼りになるリオンに寄りかかり、二重窓の外に広る蒼穹を見て満足そうに目を閉じるのだった。
淡い笑みを浮かべて己に凭れ掛かるウーヴェの白とも銀ともつかない髪に恭しく口付けたリオンは、喜怒哀楽のすべての感情を細い体で支えながら己が求める青に向けて一歩ずつ歩み続けた最愛の男をただ静かに抱きしめるのだった。
そんな二人の前、二重窓という枠に収まりきらない雲一つない青空が無限に広がっているのだった。