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こと-koto
402
自宅マンションの玄関を開けると、廊下の先にあるリビングからテレビの音が聞こえてくる。
そして、そのリビングから健治が顔を見せた。
私は、何も気づいていないフリをして笑顔を向ける。
「ただいま、健治」
「おかえり、大変だったね。おばあちゃんの具合どう?」
「うん、昨晩は緊急手術になって大変だったけど、|集中治療室《ICU》から一般の病室になって、安定している」
「そうか、とりあえず病状が安定しているなら良かったな」
「年も年だから心配だったんだ。でも無事でよかった。安心したらお腹が空いちゃった。あっ、もう2時過ぎなんだね」
そう言って、健治の様子をチラリと見ると、健治は待ってましたとばかりに冷蔵庫からお弁当を取り出した。
「美緒と食べようと思って買って来たんだ」
「ありがとう。うれしい」
そのお弁当は、さわらが入った鎌倉御膳弁当。今日の日付のシールが貼られている。
このあたりだと、みなとみらいのショッピングモールでしか買えないお弁当だ。
「わあ、おいしそう」
「喜んでもらえて良かったよ」
と、健治がホッと息を吐き、お弁当の帯を解き始める。
私は無邪気な表情で話しを続けた。
「このお店鎌倉のお店でしょう?わざわざ鎌倉まで行ったの?」
健治はパッと顔をあげた。その顔には焦りの色が見える。
「いや、|栢浜《かやはま》駅でも買えるんだ」
「そうなんだ。このお店|栢浜《かやはま》にも出店したんだね。今度私も買いたいからお店の場所教えて」
私は笑顔で健治に問いかけた。
うちのマンションがある場所から、午前中にみなとみらいへお弁当を買いに行くのは不自然過ぎる。
健治は、昨晩みなとみらいのホテルに泊まり、今日の午前中にお弁当を買って、帰ってきたのだろう。
「いや、デパ地下の催事だったから」
健治は、こう言う時に頭が回る。
営業職という仕事柄、取引先のお土産を買いに、デパートに行く機会が多い。
どの商品が良いとか、売り場の配置についても私より詳しいと思う。
デパ地下のブースで行われる催事の期間は、水曜日から火曜日までの1週間。そして、今日は日曜日だ。明日から仕事の私には、健治のウソを確認しに行くチャンスすらない。
そもそも、みなとみらいのホテルに泊まったという証拠も、野々宮と一緒にいたという証拠も、何もない。ただの憶測にすぎないのだ。
健治が、友人と飲みに行って、ビジネスホテルに泊まったと言われれば「そう」としか言えない。
ただ、私に内緒で外泊したというのは事実だ。
私に内緒にする|理由《わけ》は、やましいことがあるからだと思う。
「なんだ、残念。このお弁当、|栢浜《かやはま》だとみなとみらいまで行かないと買えなかったから、|栢浜《かやはま》駅で買えるなら、いいなって思ったのに」
私は大げさに残念がって、健治の反応を窺った。
けれど、健治は余裕のある様子で、うれしそうに微笑む。
「ん、そんなにお弁当気に入ってくれたなら、良かったよ」
私の牽制などするりと擦り抜け、なかなか尻尾をつかませない。
こうやって、今までも上手く不倫を隠して来たんだ。
だから、私は直球勝負をかけてみる。
「ところで、昨日の夜、健治はどこに居たの?」
「えっ、何……⁉」
いきなりの問いかけに、さすがの健治も動揺が隠せない。
私は、手を緩めず更に畳み掛けた。
「何って!? 昨日の夜、健治がどこに居たの?って聞いただけだよ?」
「どこって、昨日は……持ち帰りの仕事をして、夜は……自分で夕飯の支度するのが面倒だから、外へ食べに出たんだ。それが、何かあるのか?」
と、健治は不思議そうな顔をする。
その言い訳の内容に不自然な様子はなかった。
私が、マンションに戻って来た時間に、食事をしに外に出ていたとすれば、辻褄があってしまう。
健治は、私の疑いの目をスルスルと躱し、すり抜けて行く。
これ以上の追求をあきらめるしかなかった。
どれだけ、あやしいと思っていても私には何も証拠がないのだ。
「何もないけど、昨晩、私が病院に行くのに荷物を取りに来た時、部屋に健治が居なかったから……どこに居たのかと思って」
私が素直に告白すると、健治が優しく微笑む。
「なんだ、その時に電話くれれば良かったのに、そしたら、美緒に付き添って病院にも行けたのな」
そう言われてしまうと、健治を疑っていたのは私の間違いだったのでは?っと、思いたくなる。
でも、私の直感がそれは違うと言っていた。
「そうだね、電話すればよかった。おばあちゃんの入院している病院にとにかく行かなきゃって、急いでいたから……」
そう言いながら、ぎこちない笑顔を健治に返したが、私の中で警笛はまだ鳴り続けている。
「慌てていたんだから仕方ないよ。俺の方こそ外出してて悪かった。それより今度の休みの時、一緒にお見舞いに行っても大丈夫か?」
「えっ、健治。おばあちゃんのお見舞いに一緒に行ってくれるの?」
「ああ、車出すよ。美緒のおばあちゃん、どこの病院に入院したの?」
と、健治に聞かれて、どんな顔をしていいものやら困ってしまう。
あなたの不倫相手の旦那様にお会いしましたよ。と言ってしまいたくなる。
とにかく私たち夫婦と野々宮果歩との悪縁はなかなか切れそうもない。
「緊急だったからね。救急車で緑原総合病院へ運ばれたの。あそこの病院、急性期病院だから」
地域医療を担う緑原総合病院は、急性期病院として重症な患者や緊急度が高い患者を受け入れ、対応している。
急に倒れた祖母が、緑原総合病院に救急搬送されたのは特別な事ではなかった。
でも、祖母の入院先を聞いた健治は、一瞬顔を曇らせた。
「ああ、そう……か」
そうつぶやく健治は、きっと緑原総合病院には私と行きたくないのだろう。でも、私にとって何かのきっかけがつかめるかもしれないチャンスだと思う。
健治に甘えるような声でお願いする。
「健治が良ければ、仕事が早く終わる土曜日の午後に連れて行ってくれる?」
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