それからすぐ、彼は立ち上がった。
「じゃあ、俺はそろそろ帰るよ。藍子さん、ごちそうさまでした」
「ああ、また、いつでもおいで。大歓迎だからね」
「わたし、そこまで送ってくる」
表に出るとすぐ、玲伊さんが言った。
「元気なかったね、藍子さん。なんといっても店の存続は大きな問題だからな。同棲のこと、急がなくてもいいよ。俺、いつまでも待てるから。藍子さんとじっくり話し合って、ゆっくり考えてから結論を出したらいい」
玲伊さんも、祖母の心をおもんぱかってくれている。
その思いやりの気持ちが、何より嬉しかった。
「ありがとう、玲伊さん」
彼は微笑みを浮かべたまま、ゆっくり近づいてきて、わたしをすっぽり包み込んだ。
そして「あんまり心配しすぎるなよ。俺がついてるから」と心に沁み入るような優しい声音で言った。
「うん、ありがとう」
彼はキスをひとつ落として、それから帰っていった。
店に戻り、居間でお茶をすすっている祖母の前に座って、わたしは言った。
「さっきの話。わたし、やっぱり納得できないよ。この店が無くなるのを黙って見ていられない」
祖母は静かに首を振った。
「たとえ再開発の話がなかったとしても、本屋っていう商売自体がもう限界なんじゃないかと、最近思うようになってね」
「なんで……」
「お前だって気づいているだろう。一日、数えるほどしか客が来ない。たのみの学校も少子化が進んで、合併やら廃校の話も出てる。どっちを見ても、先がないことばかりだよ」
「でも……最近、少しずつだけど、お客さんも増えてきたし」
なんとか気持ちを変えさせようと、わたしは必死で言葉を続けた。
でも、祖母はただ首を振るばかり。
「優紀、あたしはね」
祖母はわたしの目を見て、そして言った。
「優紀に悪いことをしたって、ずっと後悔していたんだよ」
「どういうこと?」
「じいさんが死んだとき、あたしが子供らの意見にちゃんと耳を傾けていれば、こんな先のない商売にお前を引っ張り込むこともなかったとね」
今度はわたしが首を振る番だった。
だって、わたしはここで働くことができて救われたのだし、玲伊さんと出会い直すことができたのだから。
「おばあちゃん……わたしもおばあちゃんに悪いと思い続けていることがある」
わたしはこの店を手伝うと決心したときのことを初めて祖母に打ち明けた。
あのころ、会社でいじめにあっていて、店を継ぐことは会社を辞めるための口実だったことを。
「ごめんなさい。ただ純粋に店を継ごうと思ったわけじゃなかったんだ。だから、おばあちゃんがわたしに悪かったなんて思う必要はまったくないんだよ」
「そうだったのか。それでずっと、あんなに暗い顔をしていたのか。あのころ」
祖母は納得したように頷いた。
でも、とわたしはひときわ大きな声で言った。
「今は、この店が大好きで、なんとか続けたいと思ってる。ねえ、頑張って二人でこの店を守ろうよ。玲伊さんのところに行くのはもう少し先に延ばすから。それにおばあちゃんを一人にするのも、やっぱり心配だし」
祖母は大きく首を振った。
「やめとくれよ。あたしを孫の恋路を邪魔するような野暮天にする気かい」
「おばあちゃん……」
「心配してくれる気持ちは、本当にありがたいんだよ。だけどさ、玲伊ちゃんのところに住むってだけの話だろう。別に外国に行く訳でもなく。ほんの目と鼻の先じゃないか。それに優紀は毎日、ここに来るんだし」
それに、と祖母は付け足した。
「玲伊ちゃん、あれだけの男前だよ。ちゃんとそばにいないとだめだよ。もし、とんびに油揚げを|攫《さら》われるようなことになったらどうするんだい?」
「玲伊さんに限って、そんなことないもん」
「おやおや、ずいぶんな自信だね。でも、優紀。人生には絶対なんてことはないんだよ。後悔先立たず、って言うじゃないか。悪いことは言わない。年寄りの言うことは聞くもんだよ」
「うーん」
その後も、日をあらためて、何度となく話し合ったけれど、祖母は最後まで意見を曲げなかった。
わたしと祖母じゃあ、最初っから勝負にならない。
意地っ張りの年季が違いすぎる。
結局、それから十日ほど後、わたしは玲伊さんの部屋に引っ越し、高木書店に通うこととなったのだった。
一人暮らしになる祖母のために、玲伊さんが見守りサービスを手配してくれた。
「そんなの必要ないって。もったいないじゃないか」と祖母はしばらく承知しなかったけれど。
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