あの後。ディマスが消えた後。
俺たちはナイジェルの手引きによって邸内を抜け出した。
あの邸はディマスの持ち物ではあったが、こちらで住む本宅と別だったようで、その為かディマスが連れてきていた護衛しかおらず──恐らくそれが門に立っていた二人だ──警備が手薄だったこともあり、助かったようなものだ。
侯爵家に戻ると、ノエルが出迎えてくれた。俺たちを見るとほっとした表情を浮かべて、その日は帰っていった。
キースが俺を自室へと誘ってきたので、特に断る理由もなかったし俺はそれに従い、今はキースの部屋にいる。
キースを一人で放っておけなかった……というのもある。
キースはいつもと同じようで、どこか違う。なにか、どこか……。
ただ、俺と目があうといつもと同じ優しい笑顔を浮かべた。
ソファへと俺を座らせて、自分もその隣に腰かけると俺の頬を片手でそっと撫でる。
「怖い思いをさせたね……大丈夫?」
か
そう聞いてくる。
怖い思い、か。確かにあの光景は──ディマスが消えた光景は今思い出してもぞっとする。最後の悲鳴だって耳に残っていてなかなか消えるものではない。
大丈夫、と気軽にこたえられるものではなくて、俺はどう答えていいかわからずにただ口を噤む。
キースは俺の様子を見て、小さな苦笑をうかべると俺を抱き寄せてその腕の中に収めた。
「僕が、怖いかい……?」
上から問われる。
キースが怖い……?
俺は思い出すように考える。キースへの違和感は確かにある。
しかしそれが恐怖かと言えば違う。
今までだってさっきだって──恐怖、という感情を持った覚えはない。
キースからの好意に戸惑い、自分の心に戸惑っても……、
「怖くはないです」
俺ははっきりと答えた。
この違和感がどこから生じるものか掴めてはいないが、怖さはない。
俺が見上げると、キースは目を瞠っていた。
「……あの光景を見ても怖くないと……?」
あの事態は、恐ろしいものだと思う。だって人が消えたのだ。
けれど、それとキースが怖いかとは別物だと俺は思っている節がある。
闇の力というのは危険なものだな、とは思うし、キースがやったことではあるのだが……。
「兄様が怖いとは思ってないです……よ?」
キースは矢張り、俺を見つめていた。
……俺がおかしいのだろうか?まあ、おかしいのかもな……。前世風に言えば俺を抱きしめてくる人は『殺人犯』ってやつなのかもしれない。
別にディマスが消えていいと思っているわけではない。俺は結構なことをされているし、恨みがないわけじゃないが……一方的にどうかしていいとは思っていない。そういう意味で言えば、キースを責める気持ちは少しはある。
ディマスは末席とはいっても隣国の王子ではあるし、今回のことをどう対処すればいいか俺にはいい案なんか浮かばない。けれど、それも全部俺を思う故と考えれば……俺はどうしていいか分からなくなる。
ただ。そこに恐怖は伴わないので、それははっきりと伝えておかねばと思ったのだ。
「リアム、君は……君だから……」
キースの俺を抱きしめる手に力が入った。
その時、部屋の扉が激しく叩かれる音が響いた。
「リアム様!キース様!」
ナイジェルが慌てた様子で駆け込んでくる。
「どうしたんだ?」
キースは俺を開放して、座りなおす。
そして冷静に問いかけると、ナイジェルは息を整えながら答えた。
「レジナルド殿下がお見えです!急ぎリアム様にお話があると……」
「レジナルド先輩が?」
俺は驚いて立ち上がった。先輩がこんな時間に訪れるのは珍しいことだ。タイミングも少し良すぎる気がする。それも、わざわざ俺に話があるなんて……。
「リアム、行くのかい?」
俺を見上げるキースの声には微かな警戒心が混じっていた。その瞳が俺を鋭く見つめる。その視線に、胸が僅かにざわついた。
「……ええ、先輩の話を、聞いてきます」
そう答えると、キースは少しだけ顔を曇らせながらも頷いた。
「分かった。でも、僕の目の届かない場所には行かないでくれ」
「行きませんよ、どこにも」
そう返事をしたものの、キースの表情はどこか不安げだった。
視線が俺の肩にまとわりつくようで、妙に落ち着かない。
「……兄様、大丈夫ですよ」
俺は彼の様子に胸が締め付けられるのを感じ、キースの手を取った。
その指は少し冷たく、緊張が伝わってくるようだった。
「リアム……」
キースが俺の名前を呟く。
その声に宿る感情の深さに、俺は言葉を失いかける。けれど、この場を落ち着かせるためには、行動するしかなかった。
俺はキースの手をそっと引き寄せ、顔を近づける。そして、彼の唇に自分の唇を重ねた。
一瞬、キースの体が僅かに硬直するのを感じた。だが、すぐにその硬さが解けていく。俺が唇を離すと、彼は驚いたように俺を見つめていた。
「兄様……大丈夫です。信じてください」
自分の行動がどれほど正しいのかは分からない。それでも、この瞬間だけは、彼に少しでも安心してほしかった。
キースは僅かに目を伏せ、静かに微笑んだ。
「……ここで待っているよ、リアム」
その笑顔を見て、俺は少しだけほっとしながらも、胸の中に燻る感情に気づかぬふりをし
※
応接室の扉が開く音が響いた瞬間、レジナルドの険しい表情が目に飛び込んできた。
その顔には、普段の優しさとは程遠い緊張が張り付いている。
「リアム、君と話しておきたいことがある。……いや聞きたいことがある」
椅子に腰を下ろしたレジナルドの声は低く、重い。
俺も無意識に手のひらが汗ばんでいるのを感じた。
「……先輩、何を……」
「ディマスが消えた件についてだ」
その名前に、体が硬直する。俺は一瞬言葉を失い、視線を彷徨わせた。
先日の誘拐事件の時に、レジナルドは俺に密偵を付けていると言った。
その密偵が今でもついているかどうかはわからない。
けれど、ここで下手に嘘を吐けば、その密偵がついていた場合……誤魔化しは更にきかなくなる。いや、この事態を知っていること自体、その存在を示しているようなものだ。
門に立っていた護衛が報告したという場合も、無論、ある。
けれど、ここは……。
俺はゆっくりと息をのんで、レジナルドへと視線を戻した。
「……僕は見たんです」
「見た?」
「ええ……ディマス様が、闇に飲み込まれて消えていくところを。兄様とディマス様が口論になっていてそこに僕が駆けつけて……その直後でした」
「闇に……」
思い返すだけで、あの時の光景が頭に浮かぶ。ディマスが恐怖に顔を歪めながら、闇に吸い込まれるように姿を消した。あの力を発動したのはキースだが、それがどこまでレジナルドに伝わっているかは分からない。で、あれば。この説明でもそうおかしさはないはずだ。今はキースが主犯だと思われる方が、俺はまずい気がした。
「それで?キースは何と言っていた?」
「……何も。ただ、僕に『もう安全だ』とだけ」
レジナルドが厳しい表情で、そうか、と答えた。
キースの言葉は違うものだったが、俺がそう受け取ったとしてもおかしくはないものだった。けれど、キースはこの他にも何かを隠しているのではないか……その疑念は俺の胸の片隅にある。ああ、そうだ……これがきっと、違和感、だ。
俺はようやく、違和感の一つに気付く。
遅すぎるぐらいだが。俺の胸に引っかかる感情を、レジナルド先輩は見透かしたようだった。
「リアム、君は兄上を信じているのか?」
レジナルドの問いに、俺は一瞬言葉を失った。信じている……そう答えたいのに、胸の中のもやがそれを押しとどめる。
「……信じています。でも、兄様が何か隠しているのも分かるんです。」
俺の答えに、レジナルドの目が鋭く細まった。
「それが何か分かるか?」
「分かりません。ただ……ディマス様が消えた瞬間、兄様の顔には一瞬の迷いと、何かを覚悟したような表情があったんです」
自分でも驚くほど率直な言葉が口をついた。その瞬間、胸の中のもやが少しだけ晴れたような気がした。
「キースが隠していること……それが、ディマスの失踪に繋がる可能性がある。いや、むしろ彼がディマスを『消した』のではないかと考えている」
「兄様が……?」
俺はさも知らないように眉をしかめた。
……レジナルドはレジナルドなりに、読みがあるようだ。
「リアム、君がどう感じているかは分からない。だが、君がキースを信じたいのなら、もっと彼を知るべきだ。……キースが君を守るためにどこまでの手段を取ったのか、それを知るべきだ。彼の力を、そしてその代償を理解するためにも」
「……分かりました」
それはとてつもなく重い言葉だった。
俺の返答に、先輩はわずかに微笑む。そして、席を立ちながら俺に告げた。
「ディマスが消えた、か。厄介だな……隣国がディマスの失踪を知れば、こちらに責任を求めてくる可能性が高い。それがただの偶然だと信じてくれるほど……いや、これは君には関係ないな。ひとまず、私は王城に戻ろう。……リアム、困ったことがあれば私も頼ってほしい」
レジナルドの声には、王太子としての責任感と焦りが滲んでいた。俺は思わず息を呑む。キースの行動が、俺たちの小さな世界だけで収まらない規模の問題を引き起こしかねないことを思い知らされる。キースはこの事態をどう運ぶつもりなのか……感情のままに動いているとは、考えにくかった。キースに聞いてみるべきなのか……。
レジナルドが去った後、俺は部屋に戻る途中で立ち止まった。キースのこと、ディマスのこと、そしてレジナルドの言葉──全てが頭の中を渦巻いている。
「……俺は、どうすればいいんだ?キースのために何ができる……?」
思わず呟いた言葉が、廊下に虚しく響いた。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!