俺はキースの待つ部屋の前から、窓の外をぼんやりと眺めていた。空は曇天。重たく垂れ込めた雲が、俺の胸の中のもやもやを映し出しているかのようだった。
ディマスが消えたことはやはり、レジナルドの様子から見ても軽々しい事態ではない。
「俺のために……」
その考えに、胸がきしむ。俺はキースを信じているし、キースの愛情も今更ながらに理解しているつもりだ。けれど、それがどこか過剰だと感じる瞬間があるのもまた事実だ。
──愛情と執着。二つはどこで区別がつくのだろう。
そんな問いが頭を過ぎった瞬間、キースが部屋から出てきた。
「リアム」
聞き慣れた声。キースの声。俺は反射的に背筋を伸ばし、「今戻りました」と答えた。
キースは穏やかな微笑みを浮かべながら、俺の手を取り引き寄せる。その仕草は何も変わらない。いつもの優しいキースだ。
「……レジナルド殿下は君になんと?」
「え、あ……ディマスのことを、少し……」
レジナルドがキースを疑っていることを話すべきかどうか……動揺を隠せない俺を、キースはじっと見つめた。その瞳には、深い探るような色が混じっている。
「君のために話をしに来たのかい?」
「どうだろう……。そんなところだと思うけど」
曖昧に答えながら視線を逸らす。その目をまっすぐ見るのが、なぜか怖かった。
「リアム……君が不安を抱えているのなら、何でも話してほしい」
キースの声は変わらず優しかったが、その優しさが俺を追い詰めてくるように感じる。俺は一度目を伏せて、一つ息を吐いたのちにキースへと視線を向ける。
「兄様……聞きたいことがあるんです」
「何だい?」
「ディマスのこと……。あの時、兄様は……」
言葉が詰まる。キースは表情を変えない。ただ静かに俺を見つめている。
「僕を守るために、ディマスを……消したの?」
沈黙がその場を支配する。その空気の重さに、胸が押しつぶされそうになる。やがて、キースが静かに口を開いた。
「リアム。僕は君を守るためなら、何だってする。それが、君にとってどんなに重いことであったとしても」
それが、答えだった。否定も肯定もされない言葉。でも、その裏にある真実を、俺は感じ取ってしまう。
「……兄様」
胸が苦しい。キースの愛情の深さが、俺をどうしようもなく追い詰めてくる。でも、それ以上に、その愛情が俺を守ってくれていることも分かっている。キースに愛される喜びと、戸惑いと。しっちゃかめっちゃかだ。
「大方、レジナルド殿下が心配しているのはディマスが消えたことに対しての隣国への対処……それを君に伝えにきた。そうだろう?」
キースが淡々と述べたことに俺は、思わず目を見開いた。
「疑われているのは無論僕だろうね。……君に探りをいれるのは予想の範囲だが……あまり良い気分はしないね」
「兄様……」
俺はそれ以上何も言えなかった。
キースが俺の手をそっと握る。
「大丈夫だよ、リアム。安心しておいで。僕が全部、片を付けるのだから」
キースの言葉は優しいけれど、その裏にある不穏な決意が伝わってきた気がした。
「君が何も知らずに済むように、僕が全てを引き受ける」
──本当にそれでいいのだろうか?
彼の愛情は、俺を守ってくれる光でもあり、覆い隠す闇でもあるような気がした。
そして、キースが俺の指先にそっと口づける。その瞬間、俺の胸はまた一つ小さく軋んだ。
「兄様……」
声にならない思いが溢れる中、キースの唇が俺の頬に触れ、そして滑らかに唇が重なった。
「君は僕の全てだ。リアム」
その言葉に、俺はただ頷くことしかできなかった。キースの愛情を拒む理由も、そして逃げる理由も、どこにも見つからない。
それでも胸の中の葛藤は消えず、曇天の空は重く垂れ込めたままだった。
※
その夜、俺はなかなか眠りにつけずにいた。灯の消えた薄暗い室内で、ベッドの上に座ったまま、これまでの出来事を思い返す。
キースの想い。そして、ディマスの最後の姿──目の前で消えていったことを思い出すと、胸の奥が痛む。
「俺を守るため……」
キースがどれだけ俺を大切に思っているか、それがどれほど深いものか、嫌というほど分かっている。けれど、その気持ちをどう受け止めればいいのか……。
その時、ノックの音が響いた。
「リアム、入るよ」
キースの声だ。
「……どうぞ」
俺が答えると、ドアが静かに開いた。キースが部屋に入ってくる。彼の姿を見た瞬間、胸がきゅっと締め付けられるような感覚を覚えた。
「眠れないのかい?」
キースの問いに、俺は小さく苦笑しながら頷いた。
「少し、色々考えちゃって……」
キースは何も言わずに俺の隣に腰掛けた。そして、そっと俺の肩に手を置く。
「君は考えすぎるきらいがあるね。僕に任せてくれればいい」
その言葉に、俺は思わずキースの方を向いた。彼の瞳には揺るぎない決意が宿っている。
「兄様……」
『色々抱え込むのもいいけど、さっさと動いたほうがいいと思うよ。悩みなんて、結局答えなんか出ないんだからさ』
ノエルの言葉が蘇る。
ああ、そういえば……俺はキースに思いを告げるためにあの時、部屋を出たのだ。そうだ、まずはそれを伝えよう。そうすべきだ。
どんなに不安があったとしても、今はキースの愛情を受け入れたい──そう思った。
身を乗り出して、自分からキースの口端に口付ける。
俺は、少しだけ顔を離して、
「……兄様……好きです。僕は、兄様とずっと一緒に……いえ、添い遂げたいと思って、て……」
愛してます、はまだ言葉にできなくて、俺はそう告げる。言葉の最後の方はどうしても照れてしまい、小さくなってしまった。……無駄にかっこ悪い。
キースは驚いたように目を見開いた後、笑顔になる。そして、俺を抱きしめてからベッドへとゆっくりと押し倒した。
「リアム……嬉しいよ。リアム……」
キースは俺の頬や額に口づけの雨を降らす。
その姿は本当に喜びに満ちていた。それが俺にも伝わり、心を歓喜に震わせる。
……こうまで喜ぶならば、早く伝えるべきだった。男同士だなんだ、とうだうだ悩んだ時間が恐らく無駄で、俺がもっと早くキースの愛に向き合い、何かを変えられていたなら、あの悲劇を防げたのかもしれない……。
逃げすぎだな、俺……ちゃんと向き合おう。
俺にできることは何か──その答えを見つけるために、明日から一歩を踏み出さなくてはならない。
でも、今だけ。今だけは……少しだけ、このぬくもりを享受してもいいだろうか……。
俺はキースの腕の中で、そっと目を閉じた。
※
「リアム……リアム……!」
キースが俺を熱い声で呼ぶ。その声が胸の奥まで響き、震えるような感覚に包まれる。
俺はその下で、何度も自分の名前を呼ばれるたびに、心が溶けていくのを感じていた。
触れるたびに伝わる熱さ。涙が溢れるほどに──それは、間違いなく初めての感覚だった。
キースの唇が重なるたびに、俺の中の不安が薄れていく。
「リアム……愛しているよ……」
月明かりが差し込む中、キースの囁きが耳元を震わせる。俺はその言葉に応えるように、ただ頷いた。
これが愛というものなら、俺はもう何も恐れるものはない──ただ、この人と共にある未来だけを、静かに願った。