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「え? 良いじゃない、一緒に寝れば」
「別に問題はないだろう?」
家に帰った典晶は、真っ先に事のいきさつを説明した。昨晩のこともある、常に人の姿になったイナリと、同じ布団、同じ部屋はマズいだろう。だが意外な事に、いや半分予想していたことだが、両親は一緒に寝ることに何一つ疑問を挟まなかった。既成事実さえ作ってしまえば、婚約破棄できないと典成は思っているようだ。
「ほら、父様と母様もそう言って下さるのだ。一緒に寝れば良いではないか」
ピタリと体を寄せてくるイナリに、典晶は上体をイナリとは反対側に傾けながら反論した。
「そんな事できるわけないだろうが! 親父に母さんも、イナリだって年頃なんだよ? 何かあってからじゃ遅いでしょう!」
「何かあった方が父さんとしては嬉しいんだが……」
「クソ親父! 真面目に答えろ! そんなに命が大事かよ!」
「父さんはいつだって真面目だ! 息子の将来よりも自分の命が大事に決まってるだろう!」
「ぶっちゃけやがったな……それでも親かよ!」
「イナリちゃんはこんなに可愛いし、こんなにもお前を愛してくれている。勉強もできないスポーツもダメ、顔だって平均かそれ以下、お前にはもったいない女の子だぞ。何が不満なんだ?」
「何が不満かと言われても……」
言葉に詰まった。横に居るイナリを見る。彼女は優しい笑みを湛えたままこちらを見つめている。
唯一不満があるとするならば、彼女が人ではなく神様、いや、狐だと言う事だろうか。今まで普通だと思っていた人生が普通でなくなる。それが怖かった。良い意味でも悪い意味でも、典晶は平凡過ぎた。一般的な常識から外れることは、頭で判断するよりも先に生理的に拒否してしまう傾向がある。
「……イナリが、人間じゃないから……」
場の温度が急激に下がったのが分かった。賑やかだった雰囲気が一瞬にしてお通夜のような沈んだ空気に沈む。
俯いた典晶。視界の隅で、イナリが唇を噛み締めたのが分かった。
「典晶、それは卑怯よ」
歌蝶の言葉に典晶は何も答えない。
分かってはいる。その答えがどれだけ卑劣な答えなのかは。人間ではない。それはきっとイナリも分かっている事だ。神様といえど、どんな事をしても自分の生まれを正すことなどできないだろう。それが分かっていながら、典晶は口にしてしまった。だけど、それを隠したままでは一緒にはいられない。このまま周囲の雰囲気に流されてしまっては、典晶は自分の意志とは関係なくイナリと結婚してしまうだろう。それではイナリが不幸になってしまう。愛のない結婚生活ほど、馬鹿げた劇はないのだから。
「典晶、神様との結婚も、モノノケとの結婚もそれほど悪いものじゃない」
「それは、ご先祖様がそうしてきたから? だから、俺もそうしなきゃダメなのか?」
「そう言うことじゃない」
「そうじゃないんだが」と、典成は困ったようにお茶を一口飲んだ。
「何で普通じゃダメなんだ? どうして? 俺に言えない何かがあるって言うのか?」
「何もないわよ」
溜息交じりに歌蝶が言った。僅かに視線を上げて、歌蝶を見る。紺色の襦袢を着た歌蝶は、少し怒っているようにも悲しんでいるようにも思えた。イナリを否定すると言う事は、鬼女である歌蝶を否定しているのと同じ事だ。怒るのも仕方ないだろう。
「典晶、ごめんなさいね。確かに、いきなり婚約者といってイナリちゃんを連れてきた事は悪かったわ。でも、私達は典晶なら大丈夫だと思ったの。アナタなら、相手がモノノケだろうと、神様だろうと受け入れてくれると思ってた。それを踏まえた上で、イナリちゃんがイヤだというのなら、私達も典晶の出した結論にとやかく言う必要はないわ」
「それじゃ、神様だからイヤだって理由じゃ、婚約破棄は認められないって事?」
少しトゲのある言い方になってしまったが、言わずにはいられなかった。
「そう言うことになるわね」
典晶は非難がましい眼差しを向けるが、歌蝶は怯むことなくその眼差しを受け止めていた。
「……何か文句がありそうね?」
可愛らしく小首を傾げる歌蝶。だが、彼女の周囲の空間が僅かに歪んでいることを典晶は見逃さなかった。よく見ると頭に二本の角が見えて始めている。
八意も言っていた。歌蝶は怒ると怖いと。前々から分かっていたが、鬼女だと言う事が分かった瞬間、歌蝶だけは本気で怒らせてはいけないと決めたのだ。たぶん、本気で怒らせたら文字通り命がない。
「歌蝶お母様」
凛とした声が響いた。今まで黙っていたイナリだ。彼女は典成と歌蝶を射貫く様に強い眼差しで正面から見つめる。
「イナリ……」
ギュッと、イナリが典晶の手を握ってきた。滑るように艶やかな肌からは、とろけてしまいそうに暖かい温もりが感じられた。