運転手兼荷物持ち兼姑の説教の聞き役兼舅のお酌係兼慎司の性のはけ口。それが四泊五日の新婚旅行での私の役割。言い換えれば奴隷。
新婚旅行二日目からはレンタカーの運転は慎司がやってくれたし、食事が三人分しかない、ということもなかった。
一見平和な日々。でもそれは私が奴隷の身分であることに甘んじて、彼らに一切抵抗しなかったご褒美として与えられた、まやかしの無風状態でしかなかった。
旅行から帰ってきて、
「いい旅行だったわね」
と姑に何度も同調を求められた。私は必ず姑が望む以上の返事を返した。姑はそのたびに満足してご機嫌になる。言いなりになれば嫌がらせされないのなら言いなりになればいい。私は考えることをやめた。今が平和ならそれでいい。
旅行後に私の処遇が改善されることはなかった。姑も専業主婦なのに家事のほとんどは私の負担。姑は私の指導係だと公言して、口やかましく私のやった家事に難癖をつけるだけだった。
結婚してから知ったが、舅は慎司が勤務する新世界運輸の親会社の原商事で嘱託で働いていた。
「もう定年したしさっさと引退したいんだが、おれがいないと会社が回らないからな」
酒を飲むといつもそう豪語していた。定年時の役職は部長。慎司が新世界運輸に採用されたのも、当時親会社の部長だった舅の手回しによるものらしい。
でも私はこの舅のことが口うるさい姑に劣らず嫌いだ。この家は浴室の前に洗面台があるのだけど、わざわざ私がお風呂に入ったタイミングを狙って舅はよく歯磨きしに洗面所に入ってくる。そして私がお風呂から上がるまでずっと歯を磨いている。
麻生家の人々は私が望むことは何もしてくれなかったけど、私が嫌がることなら何でもした。
その極めつけが出産だった。もちろん出産自体が嫌だったわけじゃない。慎司だけでなく義父母まで出産に立ち会いたいと言ってきて、私は内心消えてしまいたいと思うほど嫌だった。病院も前例がないと難色を示したが、嫁自身のたっての希望ということで結局彼らの望み通りになってしまった。
もちろん私はそんなこと望んではいなかった。
ただ姑に、
「いいわね?」
と聞かれたときうなずいただけだ。
だって仕方ないじゃない。嫌だといえばまた無慈悲ないびりを受けるだけなのだから。義父母にじろじろ見られながら出産するのは嫌だけど、それさえ我慢すればいびりを受けなくて済むなら、当然我慢する方を私は選ぶ。
生まれた娘の名前は慎司と義父母が話し合って決めた。当然奴隷の私には事前になんの相談もなかった。市役所に出生届を出したあと、〈凛〉に決まったからと事後報告があっただけだ。
子どもが生まれて自分が母親になったことは私の人生にとってプラスの出来事だったのだろうか? 時間が経てば経つほどそうは思えなくなった。いつかここから逃げ出すにしても、お金も身寄りもない私はたった一人でも外の世界で生きていくのが難しい。まして乳飲み子を抱えて?
逃げ出せない大きな理由がまた一つ増えただけだ。結局そういう結論になって、私はこの修羅の家で卑屈な笑みを浮かべながらその日その日を生き抜いてゆく道を選ぶしかなかった。
逃げ出せないというか、逃げ出す気力がなくなる理由ならほかにもあった。慎司との夫婦生活もその一つ。
「おれは釣った魚に餌をやらない主義だ」
というのが慎司の口癖の一つ。慎司は餌どころか毒ばかりを私に与え続けた。
慎司は結婚前から私との行為を動画で撮影することを好んだ。最初のうちは、
「会えないときこの動画を見て、おまえに会えない寂しさを癒やしたいんだ」
などとしおらしいことを言っていたが、それも嘘だった。結婚して早々、慎司は本当の目的を自白して、私を脅迫した。
「七海、もしおまえがこの家を出ておれと離婚したって、誰とも再婚できないからな。それは覚えとけよ」
「なんで再婚できないって決めつけるの?」
「おまえに男ができたって分かり次第、今まで撮った動画をその男のもとに送りつけてやるから覚悟しておくんだな」
「ひどい!」
「おまえにとってはひどいかもしれないが、おれはきっと相手の男には感謝されることになるだろうさ。どの動画を送るのがいいかな。おれに後ろから突かれながら〈七海は慎司さんのおちんちんの奴隷なの!〉ってあえいでる動画がいいか。裸におむつだけつけてガチガチに縛られて〈ほどいてやろうか〉って言ったおれに〈やだ、七海はもう普通のセックスじゃ満足できないの!〉って言い返す動画がいいか。いや、おまえがおいしいおいしいって言いながらおれの肛門を何十分も舐め続けてる動画もいいな。まあ、全部見てもらえばいいか。これがその女の本性ですと言ってな」
「全部慎司さんがやらせたことじゃないですか」
「そのうちおれに言われなくても自分からやるようになったくせによく言うぜ」
言われたとおりにしないと不機嫌になるからそうするしかないとか、いちいち指図されなくてもおれの望むことをやれと忖度を強要されるとか、そういうことも知らない人が見れば変態女の性癖ゆえの自主的な行為に見えるのだろうか?
「とにかく、そんな嫌がらせはやめてください」
「嫌がらせ? おれはただおまえの正体を何も知らない男に教えてさしあげるだけさ。〈僕も変態だから気が合いそうですね〉って言ってくれる男だったらいいな。気を落とすなって。世界は広い。きっとどこかにそんな男もいるはずだからさ」
私はもう何も言い返せなくなってしまった。実は、慎司と結婚して凛を産んだあとも、光留と再会して彼にすべてを許されて連れ子再婚する夢を見ることもあった。慎司に抱かれながら、光留に抱かれてるつもりになったこともあった。光留と声に出そうになったことも何度もあったが、それはなんとかこらえた。
ちなみに、凛を出産したのは偶然にもクリスマスイブの夜だった。本当ならその一年前のクリスマスイブに私は処女を光留に捧げているはずだった。実際のその日は慎司と交際を始めてまもなくの頃だったから、ラブホテルに連れ込まれて朝まで寝ないでひたすら行為していた。当時の奥さんの香菜さんにどんな言い訳をしたか知らないけど、クリスマスイブの夜に家に帰ってこないのだから、浮気を疑われて興信所に駆け込まれても当然だと今なら思える。
優しい光留なら今までのことを全部許してくれるかもと根拠のない望みを持っていたけど、たとえ彼がまだ私を愛してくれていたとしても、慎司が撮影した動画を見れば百年の恋も冷めるだろう。
いやそれ以前に、美しい思い出として私の心で星のように輝いている彼に、私の恥ずかしい姿を絶対に見られたくなかった。どんなに人生がつらくても、これからの未来に何もいいことがなかったとしても、過去の思い出だけは降って積もったばかりの雪のようにきれいなままで存在していてほしかった。
「私は絶対に慎司さんから離れないし、この家からも出ていきませんから」
「その言葉を聞きたかったんだ。おれ、これでも七海のこと本気で愛してるんだぜ。ひどいことしたあと、いつも七海に嫌われたんじゃないかって不安になった。不安だからまた七海にひどいことをしてしまう。その繰り返し。そんなダメなおれを、七海はこれからも愛してくれるんだな?」
慎司がそれを自分から自白するとは思わなかった。私はいつからか慎司のそんな弱さに気づいていた。
「愛してあげるよ、慎司さん」
途端に顔を殴られて、視界全体がぐにゃりとゆがんだ。
「愛して〈あげる〉? 偉そうに言うな!」
「ごめんなさい」
慎司はハッとしたように自分が殴った辺りを優しく撫でる。
「言ってるそばからおれは……」
この人には私がついてないとダメなのだ。その事実を再確認できただけで十分だ。
「大丈夫。痛くないよ」
「七海!」
ベッドに押し倒されて、仲直りのセックスが始まった。こういう行為は嫌いじゃない。だって仲直り目的のときは嫌なことや痛いことは一切されないから。かえって慎司の心が痛いのだろう。そんなふうに彼を思いやれる余裕も心に持つことができたから。
凛の子育ては困難を極めた。姑は紙おむつの使用を許さず、そうかといって布おむつの一枚でも洗濯してくれるわけでもなかった。
赤ちゃんも夜泣きどころではなく、寝ているとき以外ずっと泣いていて、私はいつも寝不足だった。
それでも夜になれば慎司の性処理にもつきあわなければならない。しかも月日が経つにつれて慎司の要求する行為は過激さを増していった。目をつぶって光留に抱かれてるんだと思い込もうとしても、光留なら絶対しないだろうなということばかりしてくるから、全然そんな気になれなくて困った。
ある日、中学時代の制服姿で行為させられた。そのあとで殴られるのを覚悟して意見してみた。
「慎司さん、もう少し普通にはできませんか」
「おまえさ、ちょっと勘違いしてるんじゃないの?」
なぜか鼻で笑われた。
「おまえなんてちょっと年が若いっていうだけで、全然色気がねえじゃねえか。化粧もしないし下着はいつもヨレヨレだし。おれだって普通におまえを抱きたいが、今のおまえには全然そそられねえんだよ」
私が化粧しなくてヨレヨレの下着しか持ってないのは生活の余裕がなくて買いたくても買えないからだ。これで家族四人分の衣食をまかなえと慎司には毎月十万円渡されていた。でも全然足りない。夫と義父母の必要なものを買っていたら、私のものを買うだけのお金が残らないのだ。
凛が生まれても一万円しか生活費を増額してもらえなかった。さすがに無理ですと必死に抗議する私を、姑は呆れたように突き放した。
「男の子を産んでほしかったのに女の子。まったく使えない嫁だよ。一万増額でも多いくらいだ。次にまた女だったら承知しないよ」
承知しないと言われてもどうすればいいのだろう? 二人目の妊娠を先延ばしすることしか思いつかない。慎司に相談しても、気にするなと全然本気で取り合ってもらえない。
避妊もしたりしなかったり。慎司のする避妊は決して避妊具を使わず、口や違う穴に出すだけだから、彼には避妊という意識はなく単にそうしたかっただけかもしれない。
だから凛が生まれた半年後にもう二人目を身ごもったが、当然の結果といえた。幸い、二人目は男の子。名前は竜也。また親子三人の立ち会い出産となり、赤ちゃんの名前も私の知らないあいだに勝手に決められていたが、それでもよかった。義父母待望の男の子ということで、生活費も四万増額で毎月計十五万円。生活にようやく少しはゆとりができたが、そのこともそれほど私の心には響かなかった。
子どもたちが成長すればきっと私の味方になり、夫や義父母と対抗できるようになる。そんな未来を夢見ていた。大間違いだった。一対三だった関係が一対五になっただけ。現実の未来はつらかったどの過去よりもさらに残酷だった。
慎司は子育てに関心を示さず全部私任せ。一方、義父母は私のやり方のすべてを否定した。私が凛と竜也に対して優しく接すれば甘やかすなと私を責め、子どもたちに厳しく接すればおまえは鬼かと私を罵倒した。
「おまえのその体に流れてる血は何色だい? さすが凛を身ごもったとき中絶しようとした女だよ」
慎司が妻帯者だと知ったのは、凛を身ごもったあとだった。中絶しようかと悩んだことが一度もなかったと言えば嘘になるが、実際に中絶を勧めたのは私ではなく当時の奥さんと別れる気がなかった慎司だった。姑だってそのことを知らないわけがないのに、何かといえば中絶未遂ネタで私を罵倒した。しかも当の凛がいる前であっても平気で。凛や竜也が私を毛嫌いするようになった大きな要因がそれだ。私は何度も否定したけど、二人は姑の言葉だけ鵜呑みにして、私の言うことはまったく信用してくれなかった。
義父母は私の子育てのやり方のまずさについても、子どもたちの前で延々と説教した。当然のことながら、そんな毎日が何年も続くうちに子どもたちは私を軽んじるようになり、私の言うことを全然聞かなくなった。いや、私の存在自体を無視するようになった。
そのことで、慎司と義父母からまた責められる。結婚十年目に野良の子猫を拾ってきて飼い始めたが、私の味方はそのミケだけだった。味方といっても所詮猫だから私を攻撃しないでくれるだけのことだが、たったそれだけのことでも私には砂漠の中のオアシスのような存在に思えた。
いつしか母親なのにお腹を痛めて産んだ子どもたちを全然かわいいと思えなくなっていることに気づいて、私は自分が異常者なのではないかと恐怖と不安に駆られた。
今、結婚十五年目。私はまだこの修羅の家にいる。勘当されて以来、実の両親や姉との交流も閉ざされたまま。彼らの消息も何も知らない。私は相変わらずただの専業主婦で、私の世界は生き地獄のようなこの家の中だけ。
何かといえば出ていけと言われる。子どもたちにも言われる。こんな地獄から出ていきたいのはやまやまだけど、行く当てなどどこにもないから、彼らの機嫌が直るまで謝りつづける。ときには土下座だってする。
私はすべてをあきらめて、空疎な笑顔を浮かべながらただ惰性でこの家で暮らしている。それは生きているというより、死んでないだけという言い方の方が事実に近そうであるけれども――
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