情緒不安定で錯乱状態になってしまった翌日、目を覚ますと智くんはすでに出勤してしまっていた。
ぐっすり眠ることができたおかげで、頭はスッキリしている。
気持ちも落ち着いていて冷静さを取り戻した私は、自分の部屋に戻って顔を洗うと、これからのことを考えた。
幸い今日はアルバイトが休みの日だ。
思考を整理する時間はゆっくりある。
私が一番怯えているのは、このままプラハに居られなくなってしまうのではないかということだ。
それを確かめるためには、まずあの2人組がツイートしていた投稿が拡散していないかどうかを確認する必要があるだろう。
あれが不発だったのなら、記者が追ってくることもない。
スキャンダル最中のSNSの記憶が頭をよぎり、また少し手が震える。
あんなふうに悪意にまみれた投稿がいっぱいあったらと思うと確認するのは怖かったが、私がやるしかないのだ。
ゴクリと唾を呑み込むと、恐る恐るSNSを開いてエゴサーチしてみた。
すぐにあの2人組だと思われる投稿を見つけたが、いいねはごく僅かしかなく、リツイートはされていない。
「良かった。拡散されてないみたい‥‥!」
私はホッと安堵の息を吐く。
この様子ならプラハに居られなくなるという心配はなさそうだ。
あとは観光シーズン中に日本から来た人にまたあのように気付かれないように注意しなければいけない。
(アルバイト中にマスクや帽子を被ることはできないから、眼鏡だけでも着用しよう。ちょうど日本で使っていた変装用グッズが手元にあるし!)
現状の把握と今後の対策立案が終わると、張り詰めていた気持ちがだんだんと緩んでいく。
それと同時に改めて昨夜の出来事が脳裏に思い浮かぶ。
今こうして私が落ち着いていられるのは、ひとえに智くんのおかげだ。
きっと気になってるだろうけど、何も聞かないでそばにいてくれたことには本当に感謝している。
今までの人生では、何か辛いことに直面しても1人で耐えて乗り越えてきた。
誰かに頼ったり、素直に甘えたのは初めてだった。
抱きしめられて、体温を感じて、そばにいてもらうとあんなに安心して心が安らぐなんて知らなかった。
でもそれは誰でもいいわけじゃない。
あれは相手が智くんだったからだ。
(惹かれているのは、きっと男性慣れしていない私がスキンシップに動揺してるだけって思ってたのに‥‥。もう誤魔化せないくらい私にとって智くんの存在が大きくなってる‥‥!)
もう認めなければいけない。
好意を持っちゃダメな相手なのに、私は智くんを男性として好きになってしまっている。
彼がこうしてそばにいて優しくしてくれるのは、私だからじゃなくて、あくまで私が婚約者役として必要だからだ。
自分のことに興味がなくて、好意を持たなくて、女避けになる相手として。
だから、いくら彼が優しかったり、恋人のようなスキンシップをしてきても勘違いしちゃいけないのだ。
そして彼のそばに居続けるためには、好意を見せずに、ただの婚約者役でいなければいけない。
(それでも智くんが好きだから少しでも長く一緒にいたい‥‥!だから、私は婚約者役に徹しないと!彼のことをなんとも思ってない演技をしないと!)
つまり、智くんを好きになってしまったことで、私は2つの演技をしなくてはならなくなった。
【昔馴染みで彼のことが大好きな婚約者役】と【婚約者役を頼まれた彼に興味のない秋月環菜役】の2つだ。
私は演技のプロである。
同時期に複数のドラマや映画に出演して、複数の役を演じることも少なくない。
彼と少しでも一緒にいたいという自分の想いのためにやり遂げてみせると心に誓ったーー。
夜になると、仕事を終えた智くんが帰ってきた。
今日の帰宅時間は早く、まだ19時くらいだ。
彼の帰宅は、【婚約者役を頼まれた彼に興味のない秋月環菜役】の舞台の幕開けの合図だ。
智くんは足早に玄関からリビングにやってきて、リビングで夕食を食べている私の姿を見つけると、ホッと安堵した表情になった。
「おかえり!」
「ただいま。良かった、いつも通りの環菜に戻ってる」
「昨日はごめんね!智くんにも迷惑かけちゃって反省してる!あ、夕食はもう食べた?ソーメンがあるけど食べる?」
私は何事もなかったかのようなカラッとした笑顔で、いつも通りに声をかけた。
いつも通りすぎて逆に怪しく感じたのか、智くんは探るような目を向けてきた。
「‥‥まだ食べてないから、ソーメンいただくよ。ありがとう。ところで、環菜‥‥」
「分かった!じゃあ準備してくるから、リビングでゆっくりしてて!」
智くんが何か言い出した言葉を遮り、私は立ち上がってキッチンへ向かう。
きっと彼が話そうとしているのは、昨日の私に何があったのかについてだろう。
どこまで誤魔化せるか分からないが、できるだけその話は避けたい。
キッチンから智くんの分のソーメンを持って戻ると、彼はネクタイを緩め、シャツの袖を捲り上げてオフモードになっていた。
こうして改めて智くんの姿を見ると、やっぱり容姿端麗な人だなと思う。
好きになってしまうと、さらに何倍にも増してカッコ良く見えてしまうから不思議なものだ。
今は【彼に興味のない私役】のはずなのに、ドキドキしてしまうのを止められない。
(演技って、鼓動の動きまでは操れないんだよね‥‥。今初めて、心臓まで演技力でなんとかできればって思っちゃったかも)
至って平然を装いながら、ソーメンを彼の前のテーブルに置き、私も腰かける。
「ありがとう。それで環菜、昨日は何があったか聞いていい?」
私が逃げる前に捕まえてしまおうと思ったのか、座るやいなや手首を掴まれ、問いかけられた。
突然の行動に驚くが、【彼に興味のない私役】の私は動じてはいけない。
平然とした態度を維持しつつ、明るい顔を彼に見せる。
「別に大した事じゃないよ。仕事終わりで疲れてたのに手を煩わせてごめんね!お恥ずかしい姿をお見せしちゃいました!できれば忘れて欲しいな」
ドジしちゃった、恥ずかしい!という自分の失敗談を語るテンションで話す。
「そういえば智くんの部屋に初めて入ったけど、本がいっぱいあるんだね」
智くんが何かを言う前にすかさず話題も変えた。
聞きたいことが聞き出せずに不満げな様子だったが、私が何も言うつもりがないことを察してくれたようで、智くんもそれ以上は質問を重ねなかった。
掴まれていた手首からも手が離れる。
「ヨーロッパ各国の歴史や文化、伝統に関する本ばかりだよ。こんな仕事してると頭に入れておかないといけないから」
「そうなんだ。日本語か英語で書かれたチェコに関するものもある?」
「英語だったらあったと思うよ」
「もしよかったら貸して欲しいな!私ももっとチェコについて知りたいから」
アルバイト先のカフェで同僚や常連さんと話す時に役立つだろうと思って聞いてみる。
それにプラハに住んでいる以上、住んでるその国のことを知ろうとするのは大切なことだと思うのだ。
「もちろんいいよ。あとで持っていく」
「ありがとう!」
私はちゃんと【彼に興味のない私役】を演じながらいつも通りに会話ができていることに内心ホッとして胸を撫で下ろした。
部屋でシャワーを浴び、そろそろベッドに行こうと寝る準備を始めた頃、コンコンと部屋のドアがノックされる音が聞こえた。
私はそちらの方へ向かい、ドアを開けると、智くんが片手に本を持って立っていた。
「これ、さっき言ってた本」
「明日でも良かったのに。わざわざありがとう」
智くんは律儀に約束を守って持ってきてくれたのだった。
Tシャツにスエット姿になっていて、智くんも寝る前のようだった。
受け取った本をパラパラとめくって見ていると、頭上から視線を感じ、顔を上げた。
智くんがじっと私を観察するように見ている。
「なに?どうかした?」
そう聞き返すと同時に、ふわりと抱きしめられる。
シャワーを浴びたばかりなのか、智くんからはシャンプーの香りがする。
「今日は一緒に寝なくていいの?」
「え?」
智くんのことが好きな私は内心大騒ぎなのだが、勘違いしてはいけないと強く理性が働き、【彼に興味のない私役】のスイッチが入った。
動揺することなく落ち着きながら、智くんの胸を両手で押して距離をとり、目を見てニコリと笑う。
「もちろん一緒になんて寝ないよ。だって私たちは婚約者役なだけでしょ?人がいないところでフリする必要ないじゃない。昨日はイレギュラーというか、本当に申し訳なかったと思ってる。あ、お詫びに婚約者役として何かやろうか?」
私はワザと「婚約者役」という言葉を多用して強調させて話した。
智くんは一瞬わずかに顔を歪めたように見えたが、すぐにいつもの微笑みを浮かべた。
「そうだね。うん、考えておくよ」
「何でも言ってね!婚約者役として完璧にやり遂げてみせるから。じゃあおやすみ」
「‥‥おやすみ」
私たちはニコリと笑い合い、ドアを閉めた。
ドアが閉まるのを確認すると、気が抜けたようにその場に私はしゃがみ込む。
(ちゃんとなんとも思っていないように見えたかな?好きだってバレてないよね‥‥?)
遅れてきたように今になって心臓がバクバクと大きく鳴り出す。
シャワー直後の智くんは破壊力があった。
昨日の私はあの状態の智くんに一晩しがみついていたのだ。
それを何とも思っていなかったあたり、よほど精神状態が異常だったことが分かる。
精神状態が正常で、なおかつ好きだと自覚した今、もともと海外育ちでスキンシップの多い智くんとの同居生活はなかなかの難易度だと気付き、頭を抱えずにはいられなかったーー。
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