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ユカリは逸る心に急かされて舞い上がる心を追いかけるように再び杖の力で飛翔すると、救いを求める者を探す慈悲深き神の如く高みから群衆を見下ろす。救済機構を襲う眩い炎の向こうに、そろそろ一年の付き合いになる友人の姿を探して目を凝らす。沢山の人間が犇めいているが、紅玉を溶かし込んだような真っ赤な髪の少女を見つけるのは容易かった。
ベルニージュの方もすぐに気づき、行方不明だった者とは思えない昂然とした態度で手を振るので、ユカリも涙をこらえて振り返す。
元気そうだ。きっと記憶を失って不安だったはずなのにベルニージュは露ほどもそのような素振りを見せない。
そしてこの場に駆けつけてきたのはベルニージュだけではない。なぜかライゼンの戦士たちを連れてきていた。調査隊の本体だ、とユカリにもすぐに分かる。恰好や装備がよく似ている。それにバソル谷の調査隊よりずっと人数が多い、戦士の数も屍の数も。
グリュエーを攫わんとしている僧兵たちは思わぬ挟み撃ちにあい、罠にかかった兎のように混乱していた。数的有利も失われた。しかしだからといって簡単に諦める手合いでもない。ベルニージュの炎の巨人が無数の鷹に分裂して僧兵たちに襲いかかると、チェスタの呪文に呼応した加護官たちの剣に翼が生え、舞うようにして迎え撃ち、飛び交う炎を撫で斬りにする。老魔法使いの迷惑な魔術は土の下からよく磨かれた鏡の柱を引っ張り出して混乱を誘うが、ジニの放つ光の熱線は鏡に反射しながらも的確に救済機構の魔術師たちを射抜く。そして咆哮とともに戦士たちがぶつかり合う。最早言葉では止まらない。
ユカリは地上のソラマリアとレモニカのもとへ降下する。
「レモニカ!」ユカリはレモニカの手を取って杖に乗せる。「今、マローガー領の呪いを解いて欲しい」
「お任せください!」
「ソラマリアさんはグリュエーをお願いします」
「レモニカ様は頼んだぞ」
ソラマリアは地面も塀も屋根の上も区別なく跳躍し、駆けていく。
レモニカが再び指輪の魔導書の力で変身すると二人で空へと舞い上がる。
「どちらへ向かわれるのですか?」
「どこでも良いんだけどね。できれば機構にも大王国にも見られないところが良いかなって」
「そうですわね。分かりました。では、この鼓でマローガーを癒やしてご覧に入れますわ」
レモニカが背負った鼓を抱えようとした途端、杖が後ろに傾き、ユカリは慌てて空気の出力を増幅する。
次の瞬間、地上から落雷の如き大音声が響く。出鱈目な太鼓の音に滅茶苦茶な金属音だ。
「一体何ごと!?」
ユカリは背後のレモニカを落とさないように必死で釣り合いをとる。
「申し訳ありません! ユカリさま! でも、その、あの、鼓が――」
「落ち着いて」
「落としてしまいました! 鼓までもが変身したのです。五つの太鼓と三つの鐃鈸に!」
ユカリは首を伸ばして何とか地面を見下ろす。確かにレモニカの言う通り幾つかの楽器一揃いが屋根の上にあった。椅子もある。さすがに魔導書、地面にたたきつけたくらいでは無傷だ。
「とりあえず杖の上で演奏するのは無理そうだね。裏路地で目につかないし、もうあそこで良いか」
ユカリとレモニカは太鼓のそばに着地する。レモニカが椅子に座ると両手の中に撥が一本ずつ現れた。
「確かに、皆さんの仰っていた通り、初めて見た楽器なのに弾けそうな気がしてきましたわ。まるで一流の鼓手に両手を支えられているような気分です」
「仮に瓦礫が落ちてきてもレモニカは私が守るからね」
ユカリは杖を構えて塔を見据える。空気も水も十分な量を確保している。
「ユカリさま! 見ていてくださいまし! わたくしの勇姿を!」
「いや、空を見てないといけないから」
【既にユカリとソラマリアの経験を聞いていたからか、レモニカはその魔法に全幅の信頼を寄せて若干前のめりに撥を振るう。
激しく打つ。振動を放つ。鼓は耳を聾し、肌を粟立たせる。撥が跳ね回り、幾つもの音を撒き散らし、猛烈に奏でる。
太鼓の音はまるで怒号。撃ち振るわれる神の雷槌の如し。大重量の音は本能の叫び。途切れず、打ち寄せ、快く震えさせる。
鐃鈸の音はまるで慟哭。罪禍を浄める嵐の如し。鋭い響きは感情のうねり。連なり、広がり、心地よく痺れさせる。
律された響動き。音を通して身体へ、身体を通して心へ、共にあれと訴えかける。心臓が、血流が、鼓動が足並みを揃える。
落雷の如く叫び、遠雷の如く囁く。レモニカの未だ知らない、レモニカの位を支える暴力的な音色だ。いずれ聞き及ぶ行進曲であり、いずれ聞き慣れる鎮魂歌である。
勇ましき軍団の踏み鳴らす軍靴。味方を鼓舞し、戦神を称える軍歌。仇敵を震えさせる鯨波。次の一瞬に命を奪い、生を止めるべく克ち合う剣。勝利の雄叫び。血生臭い安寧の前触れ。
言葉には乗せきれないレモニカの感情の塊が破裂する。顔も知らぬ父母が、声も知らぬ兄弟姉妹が、己を恐れる顔見知りが稲光の如き楽の音に粉砕される。
己は頂にあり、敵は前方にある。勝利を見据え、拳を掲げる。征け。進め。蹂躙せよ。
怒涛の如き楽の音が軍勢となって『快男児卿の昇天』を追い立てる。空を駆ける呪いが翼を翻して逃げ惑う。醜く捻じれた鋭い鉤爪で、無辜の人々の大地に営むべき心を鷲掴みにし、翼を広げて天へと運び去る呪いが解呪の魔法の軍団に喰いつかれ、稲光に芯まで焼き尽くされる。翼をもがれて堕ちていく。
天へと攫われる人々の足を掴んで引きずりおろす。大いなる大地の胸元へと導く。人々の心に巣食っていた姿なき焦慮が叩き潰される。
そして偽りの熱情に生み出された創造物が、行く先のない無用の構造物が、音を立てて崩壊していく。レモニカの激情が世界を正す。ネークの塔に支えられていたかのように、マローガー全土に築かれた呪いの産物が大地へと還っていく。】
バソル谷で始まった余所者たちの小競り合いもまた、鯨波以上の叫び声で中止を余儀なくされる。血に飢えた魔性はお預けを喰らって舌打ちし、盤上の駒を睨んでいた戦の神は思わぬ茶々に白ける。剣を振るって命を捨てる勇ましい戦士たちも頭上に降り注ぐ瓦礫で死ぬつもりはない。再び屋根の下へ、あるいは塔から離れるように我先にと走り出す。
「ユカリさま! 塔が消えませんわ! 崩落しています!」
「大丈夫みたいだよ。よく見てて」
ユカリは杖を構えもしていない。降り注ぐ瓦礫の下でまるで細雨に身を晒すように無防備ながら、しかし魔法少女も魔法の鼓手も傷一つつかない。ネークの塔を構成していた建材はただ無闇に降り注ぐのではなく、呪われる前にあったあるべき場所へと還っていった。長らく旅を続けていた者が落ち着くべき場所を見出し、腰を落ち着けるようにして、壁だったものは屋根を跳ねて壁に納まり、柱だったものは地面を転がって柱に戻っていく。石材の大部分はバソル谷の建造物を再利用していた。
「このことをご存知だったのですか!?」レモニカは驚愕と同時に安堵し、ユカリに問う。
「さっき気づいたよ。可能性の一つとして、だけど。ケドル領では解呪でカードロアの街が再生したからね。でも狙い通りにいったみたい」
通りの向こうから聞こえてくる戦士と僧兵の叫びは戦いの終わりを告げている。そしてソラマリアが瓦礫に逃げ惑う群衆を掻き分けて二人の元へやってきた。グリュエーを赤子のように抱えている。
「レモニカさま! ご無事ですか!?」
ユカリはグリュエーごとソラマリアを出迎え、抱きしめた。
「よかった! ソラマリアさん、ありがとうございます。グリュエー、怪我はない!?」
「うん、大丈夫。もみくちゃにされたけどね」
そして今度はユカリがその場を離れ、駆けていく。見慣れた赤い髪が義母に伴われて飛んできたからだ。
ユカリは「ベル!」とただ一言叫び、痩せっぽちの体が地上に降り立つ前に抱きとめる。
赤い瞳を覗き込むとベルニージュは恥ずかしそうに目を逸らした。
「みんなに心配かけちゃったみたいだね」
「良いよ。別に。ベルの方が不安だったでしょ?」
「ワタシの方が? そんなわけないでしょ。ユカリの方が不安がってたに決まってる」
「対抗しなくていいよ! もう、相変わらずで安心したよ」
一部の記憶がなくなっても、一部の記憶がなくなったところでベルニージュの根本的な部分は変わらないのだ。
「皆さんお忘れになっていませんか!? わたくしが呪いを解いたのですよ!」とレモニカが自慢げに抗議する。
「レモニカもありがとう。おかげで助かったよ」とユカリは心の底から感謝する。
ソラマリアの腕から降りたグリュエーはレモニカの手を取る。指輪の魔導書の変身のおかげでレモニカの姿はそのままだ。
グリュエーは照れ臭そうに、濡れた翠色の瞳でレモニカを見つめる。
「レモニカ、ありがとう。皆を呪いから解放してくれて」
「困った時はお互い様。そうでしょう?」
レモニカが穏やかに笑いかけるとグリュエーは気恥しそうにはにかむ。
二人の微笑みに、例によって例の如く唐突にユカリにだけ見える幻のハーミュラーが加わる。
「きちんと挨拶をしてきましたか?」ハーミュラーは何者かを伴って、塔に背を向けて歩き去る。「いずれ戻ってきて貴女がこの街を救うのですよ? ……それは、いえ、絶対です。私がクヴラフワを救うのですから、貴女は必ずマローガー領を、バソル谷を、ネークの塔を救うことになるのです。さあ、グリュエー、励ましも救いとなりましょう」
ハーミュラーは促すが、その視線は小さな子供を追うようにして北へと向けられる。
そうして幻の視線を追うユカリと幻ではないグリュエーの目が合う。グリュエーは何か言いたげだったが口をもごもごするだけだった。
「なるほどね。ここにあったってわけだ」とジニが感慨深そうに呟いた。
街は未だに降り注ぐ落下物によって再生し続けている。そしてそれは只人の町だけではなかった。巨人の遺した構造物までもが塔に利用されていたらしい。
崩れ行く塔に代わるように古の巨人たちの栄華を思わせる、隠されていた威容が顕わになっていく。緑光の下ながら夕陽を浴びたように赤銅色に輝く遺跡は人間の建築物と比べて違いはささやかなものだ。出入り口や窓の大きさ、天井の高さは明確に巨大だが、柱の太さや石材の大きさは人間の築くものと比べて取り立てて大きいわけではない。単に拡大したわけではないからこそ、見る者には不自然に、作り物めいて感じる。
ユカリは千古の昔よりやってきた巨人の建造物が再び築き上げられる様を呆けたように見上げる。