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シグニカ統一国の中央高地にある偉大なる首都にして崇高なる聖都ジンテラの遥か眼下にユカリたちはやってきた。聳える山々の上の高地に広がる街は雲に覆われていて見えない。晴れた日であればその一端でも垣間見ることができたという。
昇降馬車の駅のある街、聖銀の矛槍にほど近い街道の脇で、ユカリは魔法少女の杖を取り出す。
「それでどこから放出するの? 杖の先?」とベルニージュに第五魔法について尋ねられるが、ユカリにもそれはよく分かっていない。
「杖の周りだよ。杖の周りならどこからでも出せる」
「杖から出るのではなく、杖の周りから?」ベルニージュは腕を組んで訝しむ。「でも空気や水を出すと反動を感じるんでしょ? 空を飛ぶのも地上に向けて放出した反動だよね?」
「そうだけど。それが何かおかしい?」
「杖の周りの空間から出るとして、その反動の力がどうやって杖に伝わるのかと思って」
「……たしかに、そうだね。じゃあ、杖から出てるのかな。でも感覚的にはそうでもない」
「いい加減だなあ。まあ、とにかく見せてよ」
ベルニージュに促され、ユカリは待ってましたとばかりに意気揚々と杖を掲げる。
さあ、魔法を使おうという直前、「乗るんじゃなかったの? 引っ張り上げてもらうの?」とベルニージュに尋ねられる。
ユカリは自信満々に答える。「うん。今までは乗ったことしかないけど、試してみようと思って」
「試すのは良いことだね」
「さあ、ご覧あれ」と言ってユカリは空気をはっと吐きながら【歯を開く】。
途端に杖から獰猛な唸り声のように空気が下方に噴き出し、杖はユカリの手をすっぽ抜けて空の彼方へ飛んで行った。
「わあ、一瞬で見えなくなっちゃった」とベルニージュはわざとらしく言って、ユカリに気づいたかのように驚いてみせる。「あれ!? まだここにいたんだ。杖は先に行っちゃったよ?」
「そうだね」
空を見上げて憮然としているユカリを気遣うかのようにベルニージュは言う。「やっぱり乗った方が良いんじゃない?」
「もしくは握力を鍛える」
「強情だなあ」
驚いたユビスが不満げに嘶くのを聞いて、聖ギルデモ市に入らずにいた理由をユカリは思い出す。
これから向かう救済機構の枢要たる街にユビスを連れて行くわけにはいかない。ユカリとベルニージュは散々の議論の末、そのように結論付けた。さすがに目立つ。駱駝よりも目立つ。場合によってはすでに魔法少女の乗り物として認知されている可能性もある。かといって信頼して預けられる人物もいない。
「結局のところ、このガミルトンの平原で自由にしておくのが一番確実に安全なんじゃない?」とベルニージュは言う。「誰も追いつけやしないんだし。誰かに預けて盗まれるのはもう嫌だからね」
「まあ、そうだね。それに比べれば安全だと思う」ユカリは二人の亡霊、アギノアやヒューグのことを悪く言いたくなかったが、彼らが馬泥棒をしたのは事実だ。「どう? ユビス。私たちいつ降りて来れるか分からないからさ。一日一度、正午に聖ギルデモの街の近くに来てくれない?」
「心得た」とユビスは素っ気なく嘶く。
「どうしたの? 素直だね」ユカリはユビスの太く力強い首をなでながら言う。
「何ということもない。よもやレモニカとの盟約を忘れたわけではあるまいな。小娘。お前も立ち会っていたはずだ。我々はさらにその先を、ずっと先を見るために共に旅しているのだ」
「うん。そう、そうだよね。一緒に旅するって約束したんだから、レモニカが、少なくとも今はまだ、ライゼンに戻りたいなんて思ってるはずがない。きっと助け出すから祈っていてね」
ユビスは勇ましく確かな嘶きで応えた。
聖ギルデモ昇降馬車の駅とは天を衝く巨大な塔だ。低地から高地への架け橋と言ってもいい。中央高地の断崖に寄り添うように聳え立っている。採石場で切り出された大理石が積み上げられ、不倒の城壁を幾重も重ねたような分厚い壁によって円柱状の駅の重みが支えられている。そのものは飾り気のない無骨な塔だが、付属的建築には煉瓦や瓦が使用され、信仰や救済を表す装飾に覆われている。また外観には救済機構の予言に関する壁画や関連人物の彫像が彫り刻まれ、神聖な魔除けの篝火が無数に燃え盛っていた。
「ねえ、ばれないかな?」とユカリは不安そうにベルニージュに囁く。
太陽は大きく傾いて夕陽が人々と建物の影を長く伸ばしていた。神聖な街を頭上に掲げているとはいえ、人の死角に潜む魔性は他と変わらず街の陰で卑しい笑みを浮かべ、飽きもせずに天上に最も近い街に呪いの言葉を投げ掛けている。
二人は、聖ギルデモの街を通り抜け、昇降馬車の駅の入口へと伸びる人の列に並んでいる。
「不安ならやっぱりユカリとグリュエーが運んでくれる?」とベルニージュは揶揄うように言う。
その手段もまた検討し、ただ上るだけならば不可能ではないと考えた。しかし非正規の侵入に何の対策も施されていないとは考えにくい。それはそれとしてユカリ自身が昇降馬車とやらに乗ってみたかったのだ。
ユカリが物珍し気に人々や塔の内装を見ている間に、ベルニージュが運賃を支払った。特に問題もなく塔の内部に入ることはできた。
「そういえばお金どうしたの?」とユカリは尋ねる。「私たちもう一文無しだと思ってたけど」
「ユカリこそ一か月の間どうしてたのさ」とベルニージュに尋ね返される。
ユカリは焦りつつ説明する。「私は、まあ、その、盗賊団に、ドボルグにお世話になってたから」
「ワタシも似たようなものだよ」とベルニージュはにやりと笑みを浮かべる。
盗賊から奪うことはどれほどあくどいことなのだろうか、とユカリが詮無きことを考えると、ベルニージュが何やら文字の書かれた紙を取り出す。そしてひらひらとユカリに見せつける。
「何? それ」そう言って一枚を受け取る。細かな文字に数字。複雑な印。
「徳札だよ。まあ、簡単な勲章みたいなものだね。本来は徳を積むと機構から授与されるんだけどね。シグニカの公共施設はお金じゃなくて、これがないと使えない。でも高地の多くの場所で使えるから実質お金代わりになってる」
「徳を売り買いしてるの? 信じられない」ユカリは紙そのものが憎いかのように徳札を睨みつけて言う。
「もちろん建前は違うよ。昇降馬車を運行するなんて偉いね。はい、あなたの徳はこれくらいです。という感じじゃないかな、たぶん」
「ひとの徳を計るのもどうかと思うけど。それに、つまりこれは盗賊が盗んできた徳? それを脅し取った徳? 徳って何?」
塔の内部は外観に比べて薄暗い。聖人を象る彫像燭台がありとあらゆる場所で思い思いに格好つけているが、灯されているのはわずかで、その明るさのほとんどは採光窓によるものだ。その窓も直に夜に染まる。また照明目的ではないが、塔の中心には沢山の巨大な鎖が垂れ下がっていて、その先の鉤には様々なものが吊るされており、錘や籠の他に篝火もある。
鎧った戦馬車のぶつかり合う戦場のように激しい音が、塔の内部を無限に反響して降りそそぐ。
塔の内壁には螺旋状に巨大な溝が構築されていて、その溝を馬車が走る仕組みになっている。とはいえ駅という名に反して馬の姿はない。
「馬はどこ? 馬車というからには馬が曳いているものだと思ってたんだけど」
ユカリは昇っていく馬なき馬車を目で追いかける。普通の箱馬車の何倍も大きい。大きさで言えば帆のない外洋船という様相だ。例の工房馬車、もしくはさまよう鼠の巣よりもさらに大きくて長い。
「馬は上。色々な工夫があるけど、要するに馬の力で引っ張り上げてるってだけだからね」
塔の屋上に百頭の毛長馬がいるのだろうか、とユカリは想像する。見上げてみるが、僅かに窄む塔の先の様子は暗くてよく見えない。
馬車の外装も内装も極めて豪勢な造りだ。巨大な車輪にさえ精緻な彫刻が施され、前面に貼られた薔薇窓は朝露を浴びたように瑞々しい。ただその姿を眺めて周っている内に頂上にたどりついてしまいそうだ。
一方で馬車からの景色に特筆すべきものはない。塔の内部がぐるぐると回り続けるか、壁が流れ続けるか、時折下りの馬車が走り抜けていくのを見るだけだ。行き先と来し方。上と下。上下する錘と篝火、たまに籠に乗った人。ユカリが倦み飽きるのも早かった。
ユカリはそれでも轍を走る車輪の轟音を聞きながら大きな玻璃窓から塔の内側の景色を眺めつづけ、飽いたベルニージュは窓にもたれかかって他の客の様子を眺めていた。後方にある客室区画以外は、ただ造り付けの椅子と机がずらりと並んでいるだけの広間だ。おおむね皆、子供を除けば大人しく、無為に時間を潰しているという情景だ。
「私が尾行したのはヘルヌスだよ。ミージェルは偽名だね」とユカリは馬車の走る音に負けない声でベルニージュに説明する。
「ドボルグにシャリューレたちが名乗った名はシャリー、ミージェル、ジェスラン」とベルニージュは指折り名を並べる。「シャリーはシャリューレでミージェルはヘルヌス。ジェスランもたぶん偽名、だよね。ユカリはジェスランって知ってる?」
ユカリは白く曇った玻璃窓を拭いて問い返す「ん? 有名な人なの?」
「救済機構の救童軍の総長と同じ名前。救童軍っていうのはもうないけど、かつて人攫い集団の人喰い衆を滅ぼした組織。まあ、ワタシもネドマリアさんに教えてもらうまで知らなかったんだけど」
「もしも同一人物なら救済機構を裏切ったってこと? それとも潜入任務とか?」
「後者の方が想像しやすいけど、シャリューレたちだってジェスランのことを知らないわけないしねえ」そう言ってベルニージュは小さな欠伸をする。「まとめると、シャリューレとヘルヌスがライゼン大王国の人間で、ジェスランは救済機構を裏切った僧兵ってことかな」
ユカリは補足する。「で、盗賊団の頭たるドボルグはシャリューレに雇われた、と。ドボルグも元人喰い衆なんでしょ? もし本当にそのジェスランなら、かつての仇敵と一緒に悪事するんだよね。やっぱり潜入任務なんじゃないかな」
「ともかくそれでも一番信用されてないのがドボルグなのは間違いなさそうだね。一人だけ偽名を使われてるんだから。で、その盗賊団の塒がジンテラにあるんだね」
「たぶんね」と言いつつもユカリは自信を持っている。「高地にもいくつかあるって聞いた。ジンテラにもあるでしょ。中央都市なんだし」
「ちょっと不安だなあ」ベルニージュは苦笑する。「大仕事を前にどこかに集まってるだろうからそこにドボルグがいる、いなくてもいずれ来るのは間違いない、と。それもこれも大仕事が実行されればの話だけど。もし中止になったらどうする?」
「レモニカを追いたい」とユカリは即答する。しかし首を横に振る。「でも中止だったらシャリューレもジンテラに来ない。いよいよレモニカの行方は分からない。それなら先に、私たちだけでも魔導書を手に入れるべき、なんだと思う。元よりそのつもりでシグニカに来たわけだし」
「言っておくけど簡単な仕事じゃないよ」とベルニージュは念を押す。「救済機構が公表している魔導書は四つだけど――まあ、そのうち二つが巡り巡ってユカリの手の中にあるんだけど――他にないとは限らない。サイスだっけ? あの最年少首席焚書官君からも魔導書の気配を感じたんでしょ?」
ユカリはその時のことを思い出して肯ずる。そして付け加える。「うん。気配が出たり消えたりしてたけどね」
ベルニージュは腕を組んで首を傾げて言う。「あと、誰だっけ。あの魔女の牢獄で出会った首席焚書官。あの人の巨大化する槍も怪しい」
「グラタードさんね。犀の鉄仮面の。そうなると首席焚書官はみんな魔導書を持ってるかもしれないのか。アンソルーペは何か使ってきた様子はなかったけどね。鎚矛は壊れちゃったし」
ユカリはベルニージュにも、アンソルーペとのユカリの勇ましい戦いぶりについて教えて聞かせる。
「鎚矛を破壊したのは分かった。うん。すごい。それより【憑依】を解除されたことの方が重大だと思う。魔導書の魔法を追い出したんだよ?」
それもそうだ、とユカリも気づく。どうにも【憑依】の魔法は前提条件が厳しく、元から失敗が多いので見過ごしてしまった。
「別の人格、なのかなあ」と自信なさげにユカリは呟く。
「ユーアのような? だとしても魔導書を拒絶する力があるかどうかとは別の話だけどね」そう言うとベルニージュは瞼を擦る。「眠い。朝まですることもないし、個室に戻るね」
「私も」と言ってユカリは大きな欠伸をする。
深い闇の底で見たそれは夢でも幻想でもない。ユカリにはそれが分かった。
誰かが歌っていることに少女は気づく。自分が歌っていることに少女は気づく。自分の心の奥で友達が歌っていることに少女は気づく。
「歌が好きなの?」と尋ねると、
友達は首を横に振る。「歌うのが好きなの」