テラーノベル
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晴美と3人の子供達が暮らす2DKのアパートは、古びた外観ながらも、窓辺に飾られた小さな花壇が彼女の丁寧な暮らしを物語っていた
昼下がりのある日曜の午後、一台の白いプリウスがアパートの前に滑り込むように停まった
運転席から降り立ったのは、晴美の職場の後輩(山口信二)だった、彼は普段の爽やかなカジュアルな装いとは打って変わって、紺色のストライプのスーツに身を包んでいた、そしてネクタイを締め直し、緊張した面持ちでトランクを開けた
そこから取り出したのは、目が覚めるような真っ赤な大輪の薔薇の花束だった、信二は花束を胸に抱き、深呼吸を一つして何やらブツブツ言いだした
ブツブツ・・・「よし!今日こそプロポーズするぞ!晴美さん! 僕はあなたの良い夫に・・・そして子供達の良い父親になりたいんです! よしっ、ちゃんと晴美さんに気持ちを伝えるぞ!」
彼は一大決心を胸にこのアパートにやってきたのだ、その時信二の横に勢いよく黒いエスティマが隣に滑り込んできた
ドアが開き、降りてきたのは康夫だった、元夫の彼もまた黒のスーツに身を包み、後部座席から取り出したのはピンクの大輪の薔薇の花束だった
康夫は花束を手に唇を噛みながら彼もブツブツ言っている
ブツブツ・・・「よし・・・俺の勘違いでなければ、今の俺達は良い感じだ、晴美! 今度こそ君を幸せにしたいんだ、やり直してくれ! 俺の人生で君ほど素晴らしい女性はいない! 俺と再婚してくれ!」
二人の男は巨大な花束を抱えて晴美の家のドアの前に並び立った
信二の赤い薔薇と康夫のピンクの薔薇が、まるで互いの決意を競うように夕陽に映える
そして、互いの存在に気づいた瞬間、二人は同時に顔を見合わせた
「え?」
「え?」
しばらく二人は話し合った末、同時に晴美の家のインターホンを押した
・:.。.
・ :.。.
一方、別の場所でもう一人花束を買う男がいた
花屋のショーウィンドウに並ぶ色とりどりの花々の中で、俊太の目はオレンジのガーベラに釘付けになっていた
「すいません! このショーケースにあるオレンジのガーベラで花束を作ってください!」
カウンターの店員がにこやかに尋ねた
「プレゼントですか?」
「お見舞いです」
店員が手際よく花束を仕上げる間、俊太は店の隅で待った、オレンジのガーベラの花束を抱え、俊太が向かった先は、市街地から少し離れた丘の上に立つ『清風会病院』・・・精神疾患患者専門の病院施設だった
白い外壁とガラス張りの窓が夕陽を柔らかく反射している
俊太は受付を済ませ、エレベーターで4階の病棟へ向かった、詰め所の看護師は、俊太の顔を見るなり、親しげに笑った
「真希ちゃん、ちょうど今、屋上にいるわよ」
「ありがとうございます」
俊太は軽く頭を下げて花束を揺らした、風会病院の屋上は患者のための癒しの空間だった、色とりどりの花が咲くガーデンには、薔薇のアーチが優雅に弧を描いている、そのアーチの前に真希が座っていた
真っ白な部屋着に身を包み、肩までの髪がそよ風に揺れている、彼女の周りには、モンシロチョウが二匹、ひらひらと舞っていた
キラキラした瞳で遠くを見つめる真希は、まるでこの世のものとは思えないほど純粋で、儚げだった
俊太は足を止めて彼女を見つめた・・・五年前の誘拐事件・・・あの日、俊太は晴馬は助けれたが川に頭から真っ逆さまに落ちた真希は助けられなかった事をずっと悔やんでいた
5メートルの高さから川底の岩に後頭部を強打した真希は、川から引き上げられても意識不明の重体、『外傷性脳損傷』と診断され医師の診断は冷酷だった
約3カ月の植物状態を経て、余命数カ月と告げられた翌日、なんと彼女は奇跡的に目を覚ました、しかし・・・目を覚ました真希はかつての彼女ではなくなっていた
精神鑑定の結果、彼女は『解離性健忘』と診断された、事件のトラウマと脳損傷の影響で、真希の記憶はきれいさっぱり消え、精神鑑定の結果、14歳の精神年齢のまま止まっていた、それ以降の出来事は、まるで白紙のページのように、彼女の心から抜け落ちていた
「こんにちは!」
俊太はそっと彼女に挨拶した、花束を胸に抱いてゆっくりと近づく、真希が振り返った彼女の瞳は子供の様に無垢で、しかしどこか深い悲しみを湛えているようだった
「こんにちは」
真希は明るく微笑んだ、俊太も微笑みながら彼女の隣に腰を下した
「どなたかのお見舞い?」
「君だよ」
真希は困った様に言った
「ごめんなさい・・・私忘れっぽいの、どこかで会ったことある?」
俊太は微笑んだ
「忘れてもいいよ、何度でもやりなおすから、俺は俊太って言うんだ」
「俊太ね!覚えたわ」
「これ君にあげる」
「わあ! きれい! オレンジ、元気な色!」
真希は花束を受け取り、鼻を近づけて目を細めた
「ありがとう・・・えっと・・・」
「俊太だよ」
「ありがとう俊太」
その言葉に俊太の胸が締め付けられた・・・いつも彼女はそう言うが、彼女の記憶には「いつも」の積み重ねがない・・・
俊太が毎週のように訪れ、彼女の笑顔を見るために花を持ってくること・・・
それすら彼女にとっては毎回見知らぬ男との新鮮な出来事なのだ
「ねえ、知ってる? ここ蝶々がよく来るんだよ、見て、ほら!」
真希が人差し指を翳すと指先にモンシロチョウが止まった、二人は無邪気に笑った
モンシロチョウが舞い、ガーベラのオレンジが夕陽に輝く、俊太は真希の隣に座り、静かに時間を過ごした
彼女の記憶は戻らないかもしれない、だがこの瞬間だけは、二人を繋ぐ小さな奇跡だった
その時俊太が真希の隣のおくるみに気が付いた
「真希?それ何?」
真希が抱き上げるとそれは子供の人形だった
真希はその人形を赤ん坊を抱くように大切に抱いて俊太に言った
「かわいいでしょ?私の赤ちゃんよ」
【完】
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