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「さあ、行け! お前が『聖女』として生贄になることで、この国は救われるのだ」
地下儀式場の湿り気を帯びた冷たい空気の中、実の父親である侯爵の声が、重苦しい残響を伴って私の鼓膜を叩いた。
石造りの壁に反響するその声には、娘を死地へ送る苦悩など微塵も感じられない。
むしろ、長年の懸案事項をようやく片付けられるといった晴れやかささえ混じっていた。
足元に描かれた複雑な魔法陣が、脈動するように禍々しい淡い光を放ち始めている。
それを取り囲む親族たちの目は、憐れみなどひとかけらもなかった。
そこにあるのは、不浄な私生児という厄介払いがようやく済んだという露骨な安堵と
自分たちの安寧をこの女一人で買い叩いたという、醜い満足感だけだった。
「魔王は人間を食らい、なぶり殺す残虐な化け物だ。だが、お前が行けば我々は助かる」
父が幼い頃から繰り返し私に吹き込んできた、恐ろしい噂。
魔王は山のような巨体を持ち、鋭い牙で人間の肉を引き千切り、生きたまま弄ぶのだという。
特に女は体だけでも価値があるとされ、なぶりものにされる対象になりやすいと聞かされてきた。
そんな化け物の元へ、私はたった一人で放り出されようとしている。
私生児として虐げられ、窓もない埃っぽい屋根裏部屋で、ネズミの鳴き声を聞きながら過ごしてきた日々。
外の世界を知らない私にとって、この状況はあまりに過酷で、広すぎた。
そして、冷遇され続けた人生の最後には、魔物の餌食になることが私の運命だというのだ。
ガタガタと震える膝を、両手で必死に押さえつける。
けれど、無情にも魔法陣の輝きは強まり、私の視界は真っ白な光に飲み込まれていった。
父や親族たちの、薄汚い笑みの残像を最後に残して。
次に目を開けたとき、鼻をついたのは焦げた硫黄のような、そして重く沈んだ独特の空気の匂いだった。
見上げた空には太陽はなく、重苦しい紫の雲がうねるように渦を巻いている。
見たこともない不気味な異世界───魔界。
「おい、人間だぞ」
「珍しいな、生贄か? 随分と細っこい女だ。食い出がなさそうだな」
気づけば、額から突き出した異形の角や
背中に生えた不気味な羽を持つ、恐ろしい姿の魔物たちに囲まれていた。
彼らはニヤニヤと下卑た笑みを浮かべ、手に持った槍の石突きで地面を叩き、私を促す。
抵抗する気力なんて、もう一滴も残っていなかった。
私はされるがままに連行され、巨大な黒石の扉が重低音を響かせて開かれた先
広大な玉座の間に突き出された。
そこに座っていたのは、漆黒の衣を纏った、圧倒的な威圧感の塊のような男だった。
想像していたような、異形の怪物ではない。
けれど、その鋭い双眸から放たれる眼光は、どんな猛獣よりも鋭く、私の魂まで射抜くようだった。
「……貴様。人間か」
低く、地響きのように重厚に響く声。
恐怖で心臓が口から飛び出しそうになる。
あまりの重圧に呼吸の仕方を忘れそうになった。
けれど、絶望の極致に達したとき、不思議と腹の底で熱いものが込み上げた。
せめて最後くらいは。
自分をゴミのように捨てた、あの卑屈な家族たちのようにはなりたくない。
彼らに「可哀想な生贄」として思い出されることすら癪だった。
私は込み上げる涙を必死に堪え、震える視線で、正面に座る魔王を真っ直ぐに睨みつけた。
「こ、殺すなら……早く、殺してください……っ」
死ぬ準備は、もうできている。
だから、せめてこの逃げ場のない恐怖を、一瞬で終わらせてほしい。
そう叫んだ私に対し、魔王と呼ばれたその男性は───意外な反応を見せた。
威圧的だった表情がふっと抜け、なぜかポカンと口を半開きにしたのだ。
『……何を言っているのか分からんが。お前、どうしてここに来た?』
想定外の、どこか困惑したような、調子の抜けた問いかけ。
「え?わ、私は……」
答えようと口を開いたが、もう限界だった。
数日間の絶食に近い空腹、極度の緊張
そして無理やり強制転移の魔法に耐えた私の身体は、とうに悲鳴を上げていた。
視界が急激に暗転する。
床に激突する衝撃を覚悟して目を閉じたが、私の体は硬い石畳に届く前に、温かくて大きな腕にしっかりと受け止められた。
「おい……!」
遠のく意識の向こう側で、魔王の冷徹なはずの声が、どこか慌てているように聞こえた。
『害はない。お前らは通常業務に戻れ。……この女は俺が運ぼう』
それが、私の記憶にある最初の魔界の光景だった。
ふと目を覚ますと、そこは見知らぬ高い天井だった。
横たわっているのは、今まで触れたこともないほど柔らかく、吸い付くような上質なベッド。
ぼんやりとした頭で横を向くと、そこには椅子に腰掛け、腕を組んで私を凝視している魔王の姿があった。
「ひっ……!」
反射的に跳ね起き、ベッドの隅まで後ずさって身をすくめる。
心臓が早鐘を打つ。
魔王はそんな私に片手を挙げ、落ち着け、と言うように短く宥めた。
「お前、名前は?」
「お、オロ、オーロラ、です……」
「……なぜここに来た。人間が魔界に迷い込むなど、普通はあり得んことだ」
私は震えながら、父から聞かされた話を必死に絞り出した。
魔王が生贄を用意しなければ村を滅ぼすと脅してきたこと。
聖女の力を持っている私が、その身代わりとしてここへ飛ばされたこと。
「わ、わかってますよね……? あなたが、村の長である父にそう言って脅したのでしょう……?」
縋るような思いで、震える声で問いかけた私に、魔王は心底不愉快そうに眉をひそめ、吐き捨てた。
「なんだそのデタラメは。俺は人間界になど、ここ数百年干渉すらしていないぞ。ましてや村の脅迫だ? 下らなすぎて笑えん」
心臓が、氷水を流し込まれたように冷たくなっていく。
目の前の男から放たれる覇気は本物だ。
これほどの強者が、わざわざそんな取るに足らない小細工を弄する理由がない。
……つまり、父親は私を適当な嘘で丸め込み
魔王の手によって「合法的に殺させる」ためにここへ放り出したということ。
実の親に、厄介払いとして死をプレゼントされた。
その事実に気づいた瞬間、私の中で張り詰めていた糸が、音を立てて千切れた。
ボロボロと、大粒の涙が頬を伝って止まらなくなる。
嗚咽が勝手に喉から溢れ出し、私はベッドの上で崩れ落ちるように泣きじゃくった。
「ビビったり泣いたり…忙しい女だな」
「…っ」
顔中が涙と鼻水でグシャグシャになっていたが、もはや恥じらう余裕も、取り繕う気力もなかった。
全てを終わらせたかった。
この生き地獄のような孤独から、一刻も早く解放されたかった。
「もう……なんでもいいので、私を……殺して……消していただけませんか……っ」
魔王はそんな私の醜態を、しばらく黙って眺めていた。
その目は侮蔑や嘲笑ではなく、むしろ深い困惑と……わずかな苛立ちを孕んでいるように見えた。
「くだらん」
短い一言が、静まり返った部屋に冷たく響いた。
「勝手に死ぬ権利すらないものを、誰が望んで殺してやる。少なくともここで……俺の領地で好き勝手に死ぬことは許さん」
私はハッと顔を上げ、涙に濡れた瞳で彼を見つめた。
予想外の拒絶。
死を拒まれることがこれほど理不尽に感じるのは、生まれて初めてだった。
「…も、もう、私には帰る場所もありません。ここにいたって……人間の私では馴染めないし、あなたの迷惑になります」
絶望の底に沈む私を、魔王はしばらく無言で見つめていた。
やがて彼は、大きなため息をつくと、観念したように口を開いた。
「……わかった、わかったから泣くな」
「え? じゃあ……」
ようやく殺してくれるのか。
そう思って期待を込めて顔を上げた私に、彼は残酷なほど不敵な笑みを向けた。
「望み通り、消してやる。だが、それはこの魔界からではなく、下界からだ。お前に関する記憶を持つものの記憶を、すべて消してやる」
あまりに予想外の提案に、私は涙を流すことすら忘れて呆然とした。魔王は淡々と続ける。
「お前の父親がどれほどお前を追い出したかは知らないが、もしまた必要となればお前を呼び戻そうとするだろう。そうなったら面倒だ。ならばいっそ、最初から存在しなかったことにすればいい。お前という人間を、あの世界から完全に抹消してやる」
まるで、ごく当たり前の事務手続きを進めるように冷静な口調で言う。
私は混乱しながらも、必死に彼の言葉を理解しようとした。
「ここで会ったのも何かの縁だ。俺の屋敷の一室を貸してやる。少なくとも衣食住は保証してやろう」
「ほ、本当ですか……!?」
夢ではないかと思って、思わず頬を抓りそうになる私に、彼は指を二本立てた。
「そういうことだ。ただし条件が2つある」
その深い赤い瞳で、私の存在を丸ごと貫くように見据えた。
「条件……なんですか……?」
やはり、命を救われ、居場所まで与えられるには相応の対価が必要なのだ。
私は唾を飲み込み、どんな過酷な要求でも受ける覚悟を決めて次の言葉を待った。
「お前、聖女とか言ったろう。なら、傷を癒す力ぐらいあるのだろう?」
「は、はい、確かにありますが……」
「なら、怪我をしている部下がいたら、その力で傷を癒してやってくれ」
「怪我……ですか?」
「最近、魔界のとあるモンスターに襲われた部下たちがいてな、怪我をするやつらが多発しているんだ」
「うちの医官だけじゃ手が足りん。その補助をしてもらえれば……というわけだ。お前自身も、屋敷の中なら自由に出歩いていい」
思いがけない、あまりに慈悲深い提案に戸惑うが、私に他に選択肢はない。
それに、誰からも必要とされなかった私が、誰かのために力を使えるというのは……。
「そういうことでしたら、ぜひ。それじゃあ……2つ目は?」
「ああ」
魔王はゆっくりと間を置いて、重々しく続けた。
「これが一番重要だが───」
ゴクリ、と私は唾を呑む。命を削るような契約だろうか。
「いたって簡単なことだ。────俺の妻になれ」
一瞬、彼の言葉の意味が全く理解できず、思考が停止した。
「え、つ、妻……!?」
「なんだ、不服か?」
「そ、そうではなく……どうして私が……?」
叫ぶ私の動揺などどこ吹く風で、彼は平然と問い返してくる。
私が問い返すと、彼は初めて少し考えるように、長い睫毛を伏せた。
「ただ単に、お前が気に入った。それだけだ」
私生児として疎まれ、屋根裏部屋で一人震え、最後には生贄として放り出された私。
この世界で最も恐ろしいはずの王が、私に向かってたった一言「気に入った」と言い切った。
魔王の妻になるなんて、一体何をするのか。
どんな生活が待ち受けているのか、全く見当もつかない。
けれど、父から離れることができた喜びと、未知への不安。
何より、人生で初めて、誰かから真っ直ぐに必要とされているという感覚が、私の胸を激しく揺さぶった。
「……わかりました。その条件、呑みます」
「よし」
魔王は満足げに口端を上げると、改めて私を見据えた。
「では決まりだ。今日からお前は俺の妻としてこの城に留まる。怪我人の治療は頼むぞ」
こうして私は、魔王の屋敷で「妻」として過ごすという、奇妙で唐突な【契約】を交わしたのだ。
「あ……そっ、そういえば……ひとつ聞いてもいいですか……?」
「なんだ」
「あなたのお名前を、まだ聞いていませんでした。教えてくれませんか?」
「名前だと?」
魔王は、名前を聞かれることなど想定していなかったのか、少しだけ驚いたような顔をした。
「必要か?」
「必要です……! これから夫婦として…?その、お世話になるわけですし、会話するときにいつまでも『魔王さん』とお呼びするわけにもいきませんから」
私が食い下がると、彼はふっと表情を和らげ、どこか照れくさそうに視線を逸らした。
「……ディアヴィル。ディアヴィル・ランベルクだ」
「ディアヴィルさん、ですね」
微笑む私に、彼は落ち着かない様子で立ち上がった。
「……話はそれだけだ。今日はもう休め」
そう言い残すと、ディアヴィル様はマントを翻して部屋を後にした。
バタン、と大きなドアが閉まった瞬間、全身から一気に力が抜けていく。
夢か現実かわからないような出来事が立て続けに起きていたが
この柔らかいベッドの感触だけが、これが現実なのだと私に教えてくれる。
つい先ほどまで、冷たい地下で生贄として死を待っていたのに。
今は魔王の妻として、暖かな城に迎え入れられようとしている。
しかも、彼は私の命を奪うのではなく
「下界から存在を消す」という、私にとって救い以外の何物でもない方法で守ろうとしてくれている。
守ろうとしてくれている、なんて私の解釈に過ぎないけど…少なくとも、父の言っていたような非道な魔王像は崩れていた。
「でも……これから、怖いことだって待ち受けているかもしれない。ここは魔界だし……私、本当にやっていけるのかな……」
私は与えられた最高級のシーツに包まりながら、これからのことに思いを馳せる。
けれど、絶望しかなかった昨日に比べれば
その不安の中には、確かに小さな希望の光が混じっていた。