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感極まって泣きじゃくる滝沢を宥め帰した頃には、時刻は八時を回っていた。
車をガラスプロムナードに置き忘れていることにあ気がついた。
川原で差し押さえた二人をそれぞれ応援の所轄のパトカーに乗せ送ってもらうと、顎からの流血が止まらなかった琴子は、幹部を押さえながら壱道の車で署に近い整形外科に行ったのだった。
「足がないんだったな」
同じことを思い出したのか、刑事課に戻る廊下で壱道が歩を止める。
「青山と滝沢を送っていくから、お前は一課で待っていろ。鑑識課に寄ってから向かう。九時には戻る」言い終わるが早いか、角の階段をかけ下りていく。
外にご飯を食べに行くのにも微妙な時間なので、引き出しの中のカップ麺でも食べようと捜査一課に戻ると、小國と浜田が外国人労働者による窃盗事件の報告書を作成していた。
遅番なのに、朝から駆り出された浅倉も一緒だ。
「木下さん、災難だったね」
浜田がインスタントコーヒーを淹れてくれる。
もう怪我のことはみんな知っているらしい。
「成瀬もひどいよね。そういうところで体張って女の子守れって感じだよね」
「いえ、私がとろかっただけですから」
「それにしても」小國が鼻で笑う。
「ただの自殺事件への追尾捜査でそんな体を張ることないのに」
言い方にかちんときて、思わず向き直る。
「櫻井の事件は、不可解な点が何点かあります。まだ自殺と決めつけるのはどうかと思いますけど」
小國が目を文字通り真ん丸に見開く。
「は?自殺でしょ。
監視カメラに映像なし、
窓ガラスを破ったり鍵をこじ開けた形跡なし、
現場に足跡なし、
不審な指紋なし、
手袋のあとなし、
髪の毛なし、
体液なし、
争った痕なし、
薬物反応なし、
アルコール反応なし。
これでどうやって殺人だっていうのよ。いる?この状況で人殺せるような魔法使い」
ぐうの音も出ない。
「でも壱道さんも、何か引っ掛かるところがあるから、あんなに一生懸命捜査してると思うんですけど」
「まあ、引っ掛かるところはあるのかもしれないけど、だからと言って、自殺じゃないかもしれない、とは考えてないでしょー。
あいつだって刑事歴それなりにあるし、何が可能か不可能かくらいわかってると思うけど」
浜田も遠慮がちに意見する。
「それに殺人事件の可能性があるなら、いくら成瀬でも課長や僕らに相談するんじゃないかな。さすがに二人で動くってのはないと思うよ」
否定してくれるかと浅倉の方を見るが、無表情でパソコンのキーボードを叩いている。
壱道から頼まれた分析は終わったのだろうか。浅倉も自殺の追尾捜査だけしているわけにはいかないだろうが。
風船に穴が開いたように張りつめていた気が抜ける。
なんだ。そうなのか。
思えば杉本鞠江への電話以外、櫻井がとった行動で不自然な点はない。
自動ドアの謎の開閉はあったものの、どこかの部屋の住人が、間違って押してしまっただけかもしれない。
ただ謎の音声データがあるというだけで、殺人の可能性を示唆しているわけではない。
そもそも壱道本人からも一度も殺人事件だと名言されていない。
私が一人で盛り上がっていただけか。
浜田が淹れてくれたコーヒーをすする。
しかしまあ。櫻井秀人のことを考えれば、殺人ではなく自殺でよかったではないか。
死んでしまったことは残念ではあるし、関係者にも心の傷は残るかもしれないが、意思とは関係なく命を奪われるより、自分の選択で死を選んだほうが何倍もマシなはずだ。
引き出しの奥にしまってあったカップラーメンを取り出す。
「そうそう。まず食べ給え。生きている人間の特権だ」
小國の耳障りな笑い声をかき消すように、豪快にビニルを剥がした。
戻ってきた壱道は琴子を助手席に乗せると、無言で車を走らせた。
リクライニングを倒し、右手だけでハンドルを操作し、左手はシートに沈めるという、チンピラのような運転だ。
「すみません。送ってもらって」
話しかけると、軽く頭を振った。どうやら眠気で意識が飛びそうだったらしい。
「大丈夫ですか?あまり寝てないんだし、運転代わりますよ」
「悪いが女の運転は信用していない」
有無を言わせないその口調に閉口せざるを得ない。
「お前、これから予定は?」
「え?」
「あっても早めに帰って寝ろ。少なくても明日は丑の刻までは帰れないからな。気力体力ともに温存しておけ」
驚いた。二日間一緒にいて、初めてかけられる労りの言葉かもしれない。
横顔を盗み見ながら、この先輩と少し話がしてみたくなった。
「壱道さんの話し方って独特ですよね」
「独特?」
「なんか日本語がきれいっていうか、ぶしつけなんだけど崩れてないというか、言葉を大事にしている感じで、好きだなーって思って」
壱道は一瞬こちらを見たが、また視線を正面に戻し、黙ってしまった。
マスクをしているのもあって、眼だけではどんな感情でいるのかはかり知ることができない。
まずい。失礼だったかな。
信号が赤に変わり、右のウインカーを出しながら車が停車する。
カッチンカッチンとウインカーの音が静寂な車内に響く。
「初めて言われた」
静かに呟いた壱道を見る。その目はどこか遠くを見ている。
なぜか幼く頼りなく見えて、琴子は思わず呼その肩に手を触れた。薄いワイシャツの上から、壱道の体温が流れてくる。
信号が青になり、車が走り出したころには、壱道の顔はいつもの顔に戻っていた。慌てて手を引っ込める。
「そういえば、滝沢の話だったんですけど」
わざとらしいほどに話題を変える。
「その、衝撃的でした。あの話からすると、パソコンに残されていた乱暴されている音声の被害者は櫻井ってことですよね」
すうっと短く息を吸ってから溜息と共に返答を吐き出す。
「まあ、そう考えるのが妥当だろうな」
「話してくれた滝沢君の為にも、櫻井さんが自殺であろうが、彼の死の真相を、背景をちゃんと解明しないと。人一人がなぜ死を選んだのか、それを追求しないと、事件は終われませんよね。
死にました、自殺でした、はいおしまい。じゃないですよね」
と車は急に左手にあった小さな工務店の駐車場に入った。
停車するとともに、壱道がハンドルに突っ伏す。
「どうしました?壱道さん。もしかして、具合悪いんですか?」
「何が悪い。死にました。自殺でした。はいおしまい、で何が悪い」
「え」
「もし自殺ならな」
その体勢のまま眼だけがぎらぎらと琴子をにらむ。
「お前、滝沢隼斗に何て言った。櫻井を殺した犯人を捕まえると約束したんじゃなかったのか」
「え、あ。それは・・・だってあの、署で皆さんに笑われて・・状況からみて殺人のはずがないって」唇が震えてうまく話せない。
「誰に」
「小國さんと浜田さんに。自殺だって、成瀬もわかってるはずだって。だから、私一人、勘違いしていたのかと・・・」
低くため息をついてから、壱道がハンドルから顔をあげる。
「小國は現場に行ったのか。浜田は関係者に話を聞いたのか」
「・・・いいえ」
「現場を見てもいない、関係者と話してもいない、櫻井の遺体に対面してもいないやつらの言うことをなぜ信じるんだ。
お前は実際それらを目の当たりにして、櫻井の自殺に違和感を覚えたんだろうが」
「確かに、そうですけど・・・」
「けど何だ」
「・・・自信がないので」
言いたいことを全部吐息に変えたような、長いため息をついてから、壱道がハンドルを握った。
「お前、今日予定は」
先ほどと同じ質問をする。だが明らかにトーンが違う。
「あっても全てキャンセルしろ」
あまりの恐ろしさに吸い込んだ息で喉がヒイと間抜けな音を出した次の瞬間、ギアが乱暴にバッグに入れられ、両の手で握られたハンドルがくるくると旋回すると、たちまち砂埃を挙げて、車が方向転換した。
たどり着いたのは櫻井秀人のマンションだった。
来客用駐車場に車を滑り込ませると、無言ですたすたと入っていく。
管理人から借りたのだろうか、自動ドアにキーを差し込む。
慣れた手つきでエントランスを抜け、エレベーターで昇る。
部屋のドアもカードキーで開けると、これまた慣れた手つきで照明のスイッチを押し、靴を脱いで上がりだした。
「あの、壱道さん?」
無視して廊下を進む。
しょうがなく靴を脱ぎついていくと、リビングでやっと振り返った。
櫻井が首を吊っていた真下だ。
「自殺だとして、櫻井はなぜファックスを送ったと思う?」
急に飛んできた質問に焦りながら
「自分の死体を誰かに発見してもらうため、でしょうか」
「わざわざそんなことしなくても、翌日にガラス教室を控えている。講師が連絡を取れなければ、アトリエ職員なり弟子なり様子を見にくるだろう」
「そうでしょうけど、日が経ったら、遺体も傷むはずです。
美意識も高い人だったから、できるだけきれいなまま発見してもらいたかったとか」
「そうならば杉本鞠江への電話で事足りたはずだろ」
確かに。
琴子は頷いた。
「いいか。ファックスは、遺書として櫻井の筆跡鑑定をするために送られたんだ。
内容、宛先はどうでもいい。文末のサインさえあればよかったんだ」
1日散々使った頭では、壱道の言葉についていくのがやっとだ。
琴子は黙って頷いた。
「見てろ」言いながら壱道が適当な紙をファックスに入れ、どこかに送信する。
今度は昨日と違って、ラックを開けたまま。
吸い込まれた紙はギーと音を立てた後、吐き出し口から排出され、引き出しの紙の束の一番上にきれいに収まった。
「これが櫻井のファックスのやり方だ。排出された紙の向き、位置に寸分の狂いもないだろう」
「本当だ」
思わずつぶやく。
「普段から使っている人間ならわかる。ファックスを送る動作というのは1つのルーティンなんだ。
紙をセットし、番号を押し、排出された紙をしまうなり、捨てるなりする。
その一連の流れは体に染みついているもんだ。
でも実際昨日、ファックスはどこにあった?」
思い出せずにいると、壱道が紙を電話の下に滑り込ませる。
「ここだ。つまり排出された紙をキャッチし、あるいは一度床に落ちた紙を拾って、ここに入れたことになる。
たとえ自殺の前であろうと、一連のファックスの動きを変えたのは不自然だ。
「…なるほど」
「そして極めつけはこの部屋。昨日、一番初めに入ったとき何か感じただろ」
昨日のことを思い出そうとする。狭間に続いて、部屋に入った時、確かに感じた。
自殺の現場にどうしても思えなかった何か。
その後、壱道が入ってきたときも眉間に皺を寄せながら眼を細めて……。
「眩しいほど明るくて。悲壮感がないというか」
壱道が歩き始める。
「なんで眩しいんだと思う」
「なんでって・・・ランプがこんなにいっぱいあって」
壱道が次々にランプのスイッチを入れていく。
「何個あるかわかるか」
「えっと、20個くらいですか?」
「大小合わせて42個」
全てのスイッチを入れた壱道が振り向きながら、
「よく見ろ」
今度は壁のスイッチを消す。
そこに浮かび上がったのは、色とりどりに照らされた、キッチン、ダイニング、ソファ、デスク、部屋の全てだった。
「間接照明だけで生活できるようにランプが配置してある」
ちょうどダイニングに飾られた、葡萄の木をあしらった大きなランプに照らされて、紫のマスクをした壱道が言った。
「ではなぜ櫻井は、天井の照明をつけたのか」
声が無意識に出ていた。
「誰かを家にあげるため……」
壁についているインターフォンのカメラを指で叩く。
「あの日櫻井は、インターフォンを押した相手に対し、自動ドアを開け、招き入れるために電気をつけた。
だがその人物は自動ドアではなく、別の場所から入った。
そいつには監視カメラに映りたくない理由があったから」
全身に鳥肌が立った。
「始めから櫻井を殺す予定で来た……?」
壱道がマスクを外し、琴子を正面から見る。
「俺はな、自殺したい輩は勝手に自殺すればいいと思っている。
理由や背景なんぞ、死んだ後はどうでもいい。
櫻井の自殺願望がどれほど本気だったのかは知らない。
だが確かなのは、櫻井は昨日、何者かに無理矢理、遺書にサインさせられ、机を動かし、ベルトを通し、首を吊らされた。
そんな腹に据えかねる出来事が、この部屋で起きたんだ」
いつのまにか、琴子の右目からツーと涙が頬を伝っていた。
「いいか。二度と自殺などと考えるな。櫻井秀人は、誰かに殺されたんだ」