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#異能力バトル
聖杯
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聖杯
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前日譚 祈りの五年間
第二話 旅立ちの鞄と残る家
春は、知らないふりをしてやって来る。
冬の寒さが少しずつ薄れ、川沿いの桜が蕾をつけ、朝の空気に柔らかな匂いが混じる。
人はそれを、季節が巡ると言う。
けれど衛宮士郎には、その言葉が少しだけ不思議に思えた。
巡る。
まるで、同じ場所へ戻ってくるみたいな言い方だ。
けれど実際には、何も同じではない。
五年前と同じ春ではない。
去年と同じ朝ではない。
昨日と同じ自分でもない。
失ったものがある。
残ったものがある。
壊れたものがある。
それでも続いているものがある。
だから、春は戻ってきたのではない。
新しく来たのだ。
そう思いながら、士郎は衛宮邸の縁側で洗濯物を畳んでいた。
「士郎ー! お茶!」
居間から藤村大河の声が飛ぶ。
「自分で淹れろよ、藤ねえ」
「先生は今、春の眠気と戦っているのです!」
「負けてるじゃないか」
「士郎くん、敗者には優しくするものだよ」
「負ける前提か」
士郎は苦笑しながら立ち上がる。
その横で、間桐桜が畳んだタオルを丁寧に重ねていた。
「私が淹れてきます」
「いや、桜は休んでていい。今日は朝から手伝ってくれてるだろ」
「でも」
「いいから。藤ねえを甘やかすのは俺の仕事だ」
「誰が甘やかされていると申すか!」
居間から抗議が飛ぶ。
士郎と桜は顔を見合わせ、少しだけ笑った。
笑えるようになった。
それは小さな変化だった。
聖杯戦争が終わってから、数か月が経った。
街は相変わらず普通に動いている。
学校があり、商店街があり、夕方になれば買い物袋を下げた人たちが道を歩く。
冬木大橋には車が走り、港には船が入り、夜になれば街灯がつく。
普通の街。
けれど、その普通の下には、まだいくつもの傷跡があった。
遠坂凛は、それを毎日のように調べている。
冬木の霊脈。
聖杯戦争の後に残った魔術的な歪み。
柳洞寺周辺の流れの乱れ。
港湾区に残る説明しづらい空白。
衛宮邸の土蔵に、ほんのわずか残った召喚痕。
どれも、今すぐ何かを起こすものではない。
けれど放っておけば、いつか何かになるかもしれない。
凛はそう言った。
その言葉を聞いた時、士郎は思った。
後始末というのは、戦いよりも長いのかもしれない、と。
◆
その日の午後、遠坂凛は大きな鞄を持って衛宮邸へ来た。
「士郎、いる?」
玄関から聞こえた声に、士郎は台所から顔を出した。
「いる。というか、その鞄なんだ?」
凛は鞄を床に置く。
どすん、とかなり重そうな音がした。
「資料。魔術礼装。着替え。宝石。その他いろいろ」
「家出か?」
「留学よ」
士郎の手が止まった。
台所で沸いていたやかんが、しゅんしゅんと音を立てる。
桜も居間から顔を出した。
「姉さん、留学って……」
凛は少しだけ肩をすくめた。
「時計塔から正式に話が来たの。前から可能性はあったんだけど、戦争の後始末で先延ばしにしてた。でも、そろそろ行かなきゃまずい」
士郎は黙った。
時計塔。
魔術協会の中枢。
凛が本来なら向かうべき場所。
彼女は遠坂の当主であり、魔術師だ。
冬木だけに留まっていればいい立場ではない。
それは分かっていた。
分かっていたのに、実際に言われると、胸の奥が少し重くなった。
「いつ行くんだ」
士郎が尋ねると、凛は答えた。
「来月」
「急だな」
「本当はもっと早く行けって言われてたのを、私が引き延ばしてたのよ」
「冬木の調査があるからか」
「それもある」
凛は士郎を見る。
「でも、それだけじゃないわ」
士郎はその意味を考えようとした。
けれど、凛はすぐに視線を逸らし、いつもの調子で言った。
「というわけで、私がいない間の冬木の簡易監視をあんたにも手伝ってもらう」
「俺が?」
「他に誰がいるのよ」
「桜は?」
「桜には桜の生活がある。もちろん手伝ってもらうことはあるけど、全部背負わせる気はないわ」
桜は少しだけ目を伏せた。
凛の言葉は不器用だった。
けれど、そこには確かに気遣いがあった。
以前の凛なら、もっと違う言い方をしたかもしれない。
もっと完璧に、もっと遠回しに、もっと強がって。
今の凛は、少しだけ素直になっている。
少しだけ。
ほんの少しだけ。
「私は大丈夫です」
桜が言った。
凛は桜を見る。
桜は柔らかく微笑んだ。
「でも、姉さんがそう言ってくれるなら、無理はしません」
凛は一瞬、言葉に詰まった。
「……そうして」
それだけ言うと、凛は鞄を開けた。
中から出てきたのは、分厚いノート数冊。
冬木の地図。
小さな宝石の入った箱。
銀色の簡易測定器。
そして、手書きの手順書だった。
士郎は手順書を手に取る。
「『霊脈異常時の初動対応』……」
「ちゃんと読んで」
「分厚いな」
「必要なことだけに絞ったわ」
「これで?」
「文句ある?」
「ない」
士郎は即答した。
凛は満足げに頷く。
「いい返事ね」
「読み切れるかは別だけどな」
「読みなさい」
桜が横から手順書を覗き込む。
「私も一緒に読みます」
「助かる」
士郎が言うと、凛は少しだけ安心したような顔をした。
それを見て、士郎は気づく。
凛は不安なのだ。
冬木を離れることが。
士郎や桜を置いていくことが。
この土地の傷跡を完全に片付けられないまま、時計塔へ行くことが。
彼女はそれを口にはしない。
だから、代わりに手順書を作った。
宝石を残した。
地図に印をつけた。
何かあった時の対処法を、必要以上に細かく書いた。
それは、凛なりの「心配」だった。
士郎はノートを閉じて言った。
「遠坂」
「何?」
「ちゃんと帰ってくるんだろ」
凛は目を瞬かせる。
それから、少しだけ強い声で答えた。
「当たり前でしょ」
「そっか」
「何よ、その反応」
「いや。ならいい」
「軽いわね」
「重く言うと、遠坂が怒るだろ」
凛は口を開きかけ、言い返せずに黙った。
桜が小さく笑う。
凛は少し赤くなって、咳払いをした。
「とにかく、私は帰ってくる。冬木の管理者なんだから」
士郎は頷いた。
「分かった」
桜も頷く。
「待っています、姉さん」
凛の表情が、ほんの一瞬だけ揺れた。
それから、彼女はいつものように胸を張った。
「ええ。任せなさい」
◆
夜。
凛は衛宮邸の客間に泊まることになった。
「資料整理するから遅くなる」と言い張ったが、大河が強引に布団を敷いた。
「若者は睡眠! 睡眠こそ未来!」
「藤村先生、私は若者ですけど魔術師なので」
「魔術師も寝なさい!」
あまりにも正論だった。
凛は珍しく反論できず、布団に座ったまま不満げに頬を膨らませていた。
その様子を見て、大河は満足そうに頷く。
「よし。これで冬木の平和は守られた」
「規模が大きいんだか小さいんだか分からないな」
士郎が言うと、大河は得意げに胸を張った。
「家庭の平和は世界平和の第一歩なのです!」
その言葉は、妙に本当のことのように聞こえた。
凛も、何も言わなかった。
夜が更ける。
大河は早々に眠り、桜も帰宅した。
居間の灯りは落とされ、衛宮邸は静かになった。
士郎は台所で明日の米を研いでいた。
そこへ、凛がやって来る。
「まだ起きてたのか」
「それはこっちの台詞よ」
凛は流し台の横に立ち、士郎の手元を見る。
「毎晩やってるの?」
「米研ぎ?」
「そう」
「まあ、朝に楽だからな」
「ふうん」
凛はしばらく黙っていた。
やがて、ぽつりと言った。
「時計塔に行ったら、こういうのは自分でやらないかも」
「飯の準備か?」
「たぶん。寮とか、外食とか、そういうのになるでしょ」
「そうか」
「……少し変な感じ」
士郎は米を研ぐ手を止めない。
「変?」
「戦争が終わって、やっと普通に朝ご飯食べられるようになったと思ったら、今度は自分から離れるんだもの」
凛の声は小さい。
「馬鹿みたいよね。行きたかった場所なのに」
士郎は水を替えながら言った。
「行きたい場所でも、離れるのが寂しいことはあるだろ」
凛は士郎を見る。
「……あんた、たまに普通にいいこと言うわよね」
「たまにか」
「たまによ」
凛は少し笑った。
その笑顔は、昼間よりも柔らかかった。
「ねえ、士郎」
「何だ」
「私がいない間、無茶しないで」
「努力する」
「その返事、信用できない」
「じゃあ、どう答えればいいんだよ」
「しないって言い切りなさい」
士郎は黙った。
凛は眉を吊り上げる。
「そこで黙るな!」
「いや、できない約束はしたくない」
「ほんっとに、あんたは……」
凛は頭を抱えた。
けれど怒鳴らなかった。
代わりに、少しだけ疲れた声で言った。
「じゃあ、無茶する前に相談しなさい」
士郎は少し考えた。
「それならできる」
「本当?」
「本当」
凛は士郎の目を見る。
しばらく見て、ようやく頷いた。
「なら、よし」
士郎は米を炊飯器に入れる。
「遠坂も、何かあったら連絡しろよ」
「時計塔から?」
「ああ」
「時差あるわよ」
「起きる」
「寝なさいよ」
「連絡があったら起きる」
凛は言葉に詰まった。
それから、少しだけ顔を逸らす。
「……ほんと、そういうところ」
「何だよ」
「何でもない」
凛は台所を出ようとして、足を止めた。
「士郎」
「うん?」
「冬木をお願い」
その言葉は、遠坂の当主としてのものだった。
けれど、それだけではなかった。
自分が離れる間、この家を。
桜を。
大河を。
この街の小さな日常を。
お願い。
そういう意味も含まれていた。
士郎は頷いた。
「任された」
凛は一瞬だけ泣きそうな顔をした。
だが、すぐにいつもの顔に戻る。
「頼りないけど、まあ信じるわ」
「そこは素直に信じろよ」
「調子に乗るから嫌」
凛はそう言って台所を出て行った。
士郎は炊飯器の蓋を閉じる。
明日の朝も、米は炊ける。
凛がいても、いなくても。
それが少し寂しくて、少し救いだった。
◆
それから一か月は、忙しく過ぎた。
凛は時計塔へ行く準備をしながら、冬木の霊脈調査を続けた。
士郎は学校へ行き、家事をし、凛の手順書を読み、時々理解できずに頭を抱えた。
桜は衛宮邸へ通いながら、少しずつ自分の時間を取り戻していった。
大河は何も知らないふりをして、いつもより多く鍋料理を作った。
いや、作ろうとして士郎に止められた。
「藤ねえ、料理は俺がやる」
「なぜ!」
「台所を守るため」
「ひどい!」
そういう騒がしさも、旅立ちの準備の一部になった。
凛の出発前夜。
衛宮邸では、ささやかな送別会が開かれた。
大げさなものではない。
士郎が料理を作り、桜が手伝い、大河がなぜか紙で作った旗を飾り、凛がそれを見て呆れた。
「何これ」
「凛ちゃん時計塔進出記念!」
「恥ずかしいから外して」
「だめ! こういうのは勢いが大事!」
「勢いで生きすぎでしょ、藤村先生」
それでも、凛は最後までその旗を外さなかった。
食卓には、いつもより少しだけ豪華な料理が並んだ。
焼き魚。
煮物。
味噌汁。
天ぷら。
卵焼き。
そして、凛の好みに合わせた少し辛めの料理。
凛はそれを一口食べて、少し驚いた顔をした。
「……おいしい」
士郎は笑う。
「そりゃよかった」
「何でちょっと勝ち誇ってるのよ」
「勝ったから」
「何に?」
「遠坂の舌に」
「意味分かんないわよ」
桜が笑った。
大河も笑った。
凛も、最後には笑った。
その夜の食卓は、明るかった。
明るすぎるくらいだった。
誰も、寂しいとは言わなかった。
言えば、その場に置いていくことになる気がしたから。
だから笑った。
食べた。
話した。
文句を言った。
また明日みたいな顔をした。
たとえ明日、凛が冬木を離れるとしても。
◆
出発の日。
冬木駅のホームには、春の風が吹いていた。
凛は大きな鞄を持ち、少し眠そうな顔をしていた。
大河は泣いていた。
「凛ちゃぁん、海外で変な男に騙されちゃだめだよぉ」
「第一声がそれですか」
「あとご飯ちゃんと食べるんだよぉ」
「それは守ります」
「あと士郎にたまに連絡してあげてねぇ」
「それは……まあ、必要があれば」
士郎が横から言う。
「必要なくても連絡していいぞ」
凛は視線を逸らす。
「考えとく」
桜は小さな包みを差し出した。
「姉さん、これ」
「何?」
「お守りです。手作りなので、あまり上手ではないですけど」
凛は包みを開ける。
中には、小さな布のお守りが入っていた。
派手ではない。
けれど丁寧に縫われている。
凛はそれを見て、しばらく黙った。
「ありがとう、桜」
その声は、とても静かだった。
桜は微笑む。
「行ってらっしゃい」
凛は頷いた。
「行ってきます」
その言葉を聞いた時、士郎は胸の奥が少し詰まった。
行ってきます。
帰ってくることを前提にした言葉。
それは別れではなく、約束だった。
発車ベルが鳴る。
凛は列車に乗り込む前に、士郎を見た。
「士郎」
「何だ?」
「手順書、ちゃんと読むこと」
「読む」
「霊脈に異常があったら、すぐ連絡」
「分かった」
「一人で突っ込まない」
「……努力する」
「そこは言い切りなさい!」
ホームに凛の声が響いた。
士郎は苦笑した。
「分かった。一人で突っ込まない」
凛はようやく満足したように頷く。
それから、少しだけ声を落とした。
「あと」
「うん」
「桜を、よろしく」
士郎は桜を見る。
桜も凛を見ていた。
士郎は真面目に頷いた。
「ああ」
凛は列車に乗った。
扉が閉まる。
大河が大きく手を振る。
桜も手を振る。
士郎も、少し遅れて手を上げた。
列車が動き出す。
凛は窓の向こうで、腕を組んだままそっぽを向いていた。
けれど、最後の最後で小さく手を振った。
本当に小さく。
見逃しそうなくらい。
士郎はそれを見て、笑った。
列車は遠ざかっていく。
ホームに残った三人の間に、春の風が通った。
大河が鼻をすすりながら言う。
「凛ちゃん、行っちゃったね」
桜は頷く。
「はい」
士郎も頷いた。
「ああ」
寂しい。
当然だ。
けれど、それだけではない。
凛は行った。
自分の道へ。
なら、残った自分たちも進まなければならない。
冬木で。
この家で。
それぞれの明日へ。
◆
その夜、衛宮邸は少し静かだった。
大河は早めに帰り、桜も自宅へ戻った。
士郎は一人で台所に立つ。
明日の米を研ぐ。
茶碗を並べる。
凛の分の茶碗を、うっかり手に取った。
そして、少しだけ止まる。
棚へ戻そうとして、やめた。
その茶碗を、棚の一番取りやすい場所に置いた。
いつ帰ってきてもいいように。
それは未練ではない。
たぶん。
約束の場所を空けておくこと。
士郎はそう思うことにした。
その後、彼は土蔵へ向かった。
床には、相変わらず何もない。
異常な光もない。
召喚陣の痕跡も、ただの古い傷にしか見えない。
士郎は床へ手を置いた。
構造解析。
古い木材。
金具。
埃。
五年前の記憶。
そして、ほんのわずかな魔力の残滓。
それ以上は何もない。
少なくとも、今は。
士郎は息を吐いた。
「遠坂は行ったぞ」
誰に言ったのか、自分でも分からない。
土蔵は答えない。
士郎は続けた。
「俺は残る。ここで、できることをする」
それは誰かに誓うような言葉ではなかった。
自分に言い聞かせる言葉だった。
遠坂凛は時計塔へ向かった。
間桐桜は少しずつ自分の明日を取り戻そうとしている。
藤村大河はいつも通り騒がしい。
冬木の霊脈には、まだ傷が残っている。
そして士郎は、衛宮邸に残る。
それが逃げなのか、選択なのか。
まだ分からない。
けれど、今の彼にはここで守るべき朝がある。
士郎は土蔵を出た。
夜空には、星が出ていた。
静かな夜だった。
何かが始まる気配は、まだない。
ただ、遠く離れた場所へ向かう列車の音が、もう聞こえないだけだった。
◆
同じ頃。
遠坂凛は、空港へ向かう列車の中にいた。
窓の外には夜の街が流れている。
冬木から離れていく。
その実感が、遅れて胸に来た。
鞄の中には資料がある。
宝石がある。
桜のお守りがある。
士郎に渡し損ねた予備の手順書がある。
凛はそれを思い出し、額に手を当てた。
「……まあ、郵送でいいか」
そう呟く。
少しだけ笑う。
それから、窓の外を見る。
遠ざかる冬木の灯り。
あの街には、まだ傷がある。
けれど、そこには人がいる。
士郎がいる。
桜がいる。
藤村先生がいる。
帰る場所がある。
その事実が、凛を少しだけ強くした。
携帯端末が震えた。
士郎からの短いメッセージ。
『着いたら連絡しろよ』
凛はそれを見て、しばらく黙った。
そして、短く返す。
『分かってるわよ』
送信。
数秒後、また震える。
『飯食えよ』
凛は小さく吹き出した。
「母親か、あいつは」
けれど、嫌ではなかった。
凛は窓へ額を軽く預ける。
これから向かう先は、魔術師たちの中心。
時計塔。
そこでは、冬木の常識は通じない。
遠坂の名前だけで守られるわけでもない。
強くならなければならない。
学ばなければならない。
戦わなければならない時もあるだろう。
それでも、凛は目を逸らさなかった。
「行ってくるわ」
小さく呟く。
誰に向けた言葉なのかは、分からなかった。
冬木か。
桜か。
士郎か。
それとも、自分自身か。
列車は夜を進む。
遠坂凛の五年間も、ここから始まった。
◆
冬木の夜は、静かだった。
衛宮邸の土蔵には光はない。
遠坂邸の地下室にも、大きな異常はない。
柳洞寺の霊脈も、港湾区の空白も、まだ眠っている。
何も始まっていない。
少なくとも、表面上は。
けれど、冬木という土地は覚えている。
聖杯戦争のこと。
願いを求めた者たちのこと。
叶わなかった言葉のこと。
失われたもの。
残されたもの。
見送られた背中。
また明日と言われた声。
それらは、まだ燃えていない。
ただ、街の奥で静かに沈んでいる。
いつか、それらが何かを呼ぶ日が来るとしても。
今はまだ、春の夜だった。
凛は旅立ち、士郎は残り、桜は明日も衛宮邸へ来る。
それだけで、彼らの世界は少しだけ前へ進んだ。
――前日譚 第三話へ続く。
コメント
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読了しました。凛が時計塔へ旅立つ話、静かで胸に沁みました。 何より印象的だったのは、士郎が凛の茶碗を棚の一番取りやすい場所に置き直す仕草です。「約束の場所を空けておくこと」という解釈が、彼らしい不器用な優しさでじんと来ました。出発前夜の食卓で誰も「寂しい」と言わずに笑い合う強がりも、凛から桜への不器用な気遣いも、すべてがこの物語の空気感そのものだと思います。 戦いの後始末は戦いより長い——その視点を丁寧に日常に落とし込む筆致が好きです。次の話も楽しみにしています。