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聖杯
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聖杯
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いやもう、すごく良かった……。「形になる前の何か」っていう不気味さと、凛と士郎と桜がバラバラでも細い線で繋がってる温かさが同時に来て泣きそうになった。凛が遠坂案件って付箋貼った卵を真面目に保管するところとか、士郎が風鈴の写真を撮り直すところとか、そういう「小さな違和線を共有する」関係性にぐっときたわ。次が楽しみすぎる🔥
前日譚 祈りの五年間
第三話 遠い時計塔、残る剣
冬木を離れてから、遠坂凛はよく夢を見るようになった。
夢の中で、彼女はいつも坂道を登っている。
深山町の坂だ。
春の朝。
空は青く、風は少し冷たい。
制服の袖が揺れ、鞄の持ち手が手のひらに食い込んでいる。
前には誰もいない。
けれど、少し先に誰かが歩いている気がする。
赤い髪の少年。
紫の髪の少女。
時々、やたら騒がしい教師の声。
どこか遠くで、剣のぶつかる音。
凛は走ろうとする。
追いつかなければならない気がする。
でも、坂道はいつまでも続く。
足は重くなり、街灯は歪み、道路の白線が魔術式のように伸びていく。
そして、坂の上に一つの扉が現れる。
冬木の扉ではない。
時計塔の扉だ。
古く、重く、冷たい。
凛がその扉を開けると、冬木の朝は消える。
代わりに現れるのは、ロンドンの曇った空と、石造りの廊下と、無数の視線。
夢は、そこで終わる。
◆
時計塔の朝は、冬木よりずっと冷たかった。
空は灰色。
窓ガラスには細かな雨粒がついている。
廊下には足音が反響し、古い石壁は人の体温を受けつけないように冷えている。
遠坂凛は、寮の小さな部屋で目を覚ました。
目覚まし時計が鳴る前だった。
「……また」
凛は額に手を当てる。
夢の内容は覚えている。
冬木の坂道。
追いつけない背中。
重い扉。
分かりやすいにもほどがある。
「ホームシックってやつかしら」
自分で言って、少しだけ嫌な顔をした。
魔術師がそんな言葉を使うのは、どうにも気に入らない。
だが、事実として、凛は冬木を思い出すことが増えていた。
衛宮邸の朝食。
士郎の味噌汁。
桜の卵焼き。
藤村先生の騒がしい声。
冬木大橋から見える夕焼け。
時計塔に来てからの日々は、濃かった。
授業。
研究。
派閥。
魔術師同士の値踏み。
遠坂の家名に向けられる視線。
第五次聖杯戦争の関係者として、探るように投げられる質問。
ここでは、誰も無駄な言葉を投げない。
投げる言葉には意図がある。
笑顔には値段がある。
沈黙には意味がある。
それは凛の知っている魔術師の世界だった。
けれど、冬木で得たものとは違う。
時計塔は学ぶ場所だ。
だが、温まる場所ではない。
凛はベッドから起き上がり、机の上を見る。
そこには、桜がくれた小さなお守りが置かれている。
その隣には、士郎から送られてきた短い手紙。
文字は相変わらず少し癖がある。
『ちゃんと食ってるか。こっちは特に異常なし。桜は元気。藤ねえは相変わらず。手順書は一応読んでる。難しい。』
凛はその文を見て、小さく笑った。
「一応じゃなくて、ちゃんと読みなさいよ」
そう言いながらも、手紙を捨てる気にはならなかった。
むしろ、何度も読み返している。
自分でも少し情けないと思う。
だが、遠くの街で誰かが日常を続けているという事実は、思ったよりも心を支えた。
凛は顔を洗い、髪を整え、いつもの服に袖を通す。
鏡の中の自分を見る。
遠坂凛。
冬木の管理者。
遠坂の当主。
時計塔の学生。
第五次聖杯戦争の生還者。
肩書きはいくつもある。
けれど、どれか一つだけでは自分にならない。
それを知ったのは、たぶん冬木を離れてからだった。
◆
午前の講義が終わった後、凛は図書棟へ向かった。
時計塔の図書棟は、ただの図書館ではない。
資料の種類によって階層が分かれ、閲覧権限によって扉が変わり、間違った手順で本を開けば内容が燃えるものもある。
凛は慣れた手つきで認証印を通し、薄暗い閲覧室へ入った。
目的は、冬木の霊脈異常に関する類似例の調査だった。
第五次聖杯戦争後の冬木に残った歪み。
聖杯の残滓。
儀式跡地の魔力淀み。
霊脈の詰まり。
観測しようとすると抜け落ちる空白。
凛はそれらを、ただの後遺症だと思おうとしていた。
聖杯戦争ほど大きな儀式が行われた土地だ。
異常の一つや二つ、残っていて当然。
だが、完全にそう言い切れない何かがあった。
特に港湾区。
あの場所には、魔力が溜まっているわけではない。
むしろ、何かが流れ込むための「余白」のようなものがある。
入口がないのに、入口の形だけがある。
士郎がそう言っていた。
流れ込もうとしてるけど、まだ入口がない感じ。
凛は机に資料を広げ、古い霊脈図と照らし合わせた。
「似た事例……ないわね」
彼女は眉をひそめる。
聖杯戦争の残滓なら、記録はある。
大規模召喚儀式の失敗例もある。
霊脈汚染の処理方法も、ある程度は見つかる。
だが、冬木のそれは奇妙だった。
汚染ではない。
詰まりでもない。
壊れたのではなく、何かを待っているように見える。
凛はその考えを、すぐに打ち消した。
「待っている、なんて非論理的すぎるわ」
そう言った瞬間、閲覧室の扉が開いた。
「非論理的な表現ほど、魔術師が本音を隠す時に使うものだ」
低い声。
凛は振り返る。
そこに立っていたのは、長身の男だった。
黒髪。
疲れた目。
きっちりとした服装。
そして、常に頭痛を抱えていそうな眉間の皺。
ロード・エルメロイⅡ世。
凛はすぐに立ち上がる。
「エルメロイⅡ世」
「座っていい。ここは講義室ではない」
そう言いながら、彼は凛の向かいに腰を下ろした。
手には数枚の資料を持っている。
「冬木の調査か」
凛は少しだけ警戒する。
「なぜそれを?」
「君がこの図書棟で冬木関連の資料ばかり閲覧しているからだ。隠す気がないのか、隠すのが下手なのか、判断に迷う」
「後者じゃないことを祈ります」
「ならば前者か」
「……半々です」
エルメロイⅡ世は小さく息を吐いた。
「遠坂の娘らしいな」
凛は少し眉を上げる。
「父をご存じで?」
「直接深く知っていたわけではない。だが、冬木の聖杯戦争に関わった魔術師として、遠坂の名は嫌でも資料に出る」
彼は手元の資料を机に置いた。
「君が調べている異常だが、私のところにも報告が来ている」
凛の表情が変わる。
「時計塔にも?」
「ああ。正式な案件ではない。だが、冬木という土地に対する警戒はまだ残っている。特に第五次の後はな」
凛は資料をめくる。
そこには、冬木霊脈の観測記録が載っていた。
凛が持っているものより、少し古い。
しかし、いくつかの地点が一致している。
柳洞寺。
港湾区。
冬木大橋。
衛宮邸周辺。
凛は目を細めた。
「衛宮邸まで載ってるんですか」
「聖杯戦争の召喚地点として記録されている。警戒対象になるのは当然だ」
「……そうですか」
声が少し硬くなった。
エルメロイⅡ世はそれに気づいたが、何も言わなかった。
代わりに、別の資料を差し出す。
「似た事例はない。少なくとも、通常の聖杯戦争の後遺症としては説明がつかない」
凛は唇を噛む。
「やっぱり」
「ただし、今すぐ危険というわけでもない。むしろ不気味なのは、あまりにも静かなことだ」
「静か?」
「異常があるなら動きがある。汚染なら広がる。崩壊なら崩れる。だが、冬木のこれは違う。十年単位で眠る可能性もあれば、明日突然起きる可能性もある」
「嫌な言い方ですね」
「事実だ」
エルメロイⅡ世は資料を閉じる。
「遠坂凛。君は冬木の管理者として、この件を追うつもりか」
「当然です」
即答だった。
エルメロイⅡ世は少しだけ目を細める。
「時計塔の学生としてではなく?」
「両方です」
「欲張りだな」
「遠坂なので」
凛がそう答えると、エルメロイⅡ世はほんの少しだけ笑った。
「よろしい」
彼は立ち上がる。
「何か分かれば、私にも報告しろ。冬木は、私にとっても無関係な土地ではない」
その言葉には、凛には分からない重さがあった。
かつての戦争。
かつての王。
かつての少年。
彼が何を見たのか、凛は詳しく知らない。
だが、彼もまた冬木に何かを残してきた者なのだと分かった。
凛は頷く。
「分かりました」
エルメロイⅡ世は扉へ向かう。
そして、出て行く前に言った。
「それと、遠坂」
「はい?」
「食事は取れ。睡眠もだ。魔術師だから平気、という言い訳は、たいてい愚かな失敗の前兆だ」
凛は固まった。
「……誰かに同じことを言われた気がします」
「ならば、その誰かは珍しく正しい」
そう言って、彼は部屋を出て行った。
凛はしばらく扉を見ていた。
それから椅子に座り直し、小さく呟く。
「珍しくって何よ、珍しくって」
だが、その顔には少しだけ笑みがあった。
◆
冬木では、雨が降っていた。
細い雨だ。
傘を差すほどではないが、放っておくと髪や肩がじわじわ濡れていく。
衛宮士郎は、商店街からの帰り道を歩いていた。
片手には買い物袋。
中には大根、豆腐、葱、魚、卵。
夕食の材料だ。
雨の匂いがする。
濡れたアスファルト。
湿った木の葉。
遠くの川の水音。
冬木は静かだった。
けれど、静かすぎる夜には時々、嫌な記憶が顔を出す。
士郎は橋の下を通り過ぎる時、ふと足を止めた。
水の音に混じって、何かが聞こえた気がした。
声ではない。
でも、声に似ている。
小さなざわめき。
誰かが遠くで泣いているような、誰かが眠りながら何かを呟いているような音。
士郎は周囲を見る。
誰もいない。
川面には雨粒が落ち、街灯の光が揺れているだけ。
「……気のせいか」
そう言って歩き出そうとした瞬間、買い物袋の中で卵のパックが小さく揺れた。
士郎は眉をひそめた。
風ではない。
手元に視線を落とす。
卵の表面に、水滴とは違う薄い光が走った。
ほんの一瞬。
白い線。
まるで、何かの術式の残り香のような。
士郎はすぐに目を凝らしたが、もう何もない。
「何だったんだ、今の」
家に戻ったら記録しておこう。
凛の手順書には、こう書かれていた。
『小さな違和感でも記録すること。魔術的異常は、最初は大抵つまらない顔をしている』
凛らしい文だった。
士郎は買い物袋を持ち直し、衛宮邸へ向かった。
帰ると、桜が台所にいた。
「おかえりなさい、先輩」
「ただいま。悪い、雨降ってきたから少し遅れた」
「大丈夫です。お米は研いでおきました」
「助かる」
桜は買い物袋を受け取り、中を確認する。
「今日は魚ですか?」
「ああ。煮付けにしようと思って」
「いいですね」
二人は自然に台所へ立った。
士郎が魚を下処理し、桜が葱を切る。
鍋に調味料を入れ、火をかける。
味噌汁の具を決める。
そうしていると、さっき橋の下で聞いた妙な音は、少し遠くなる。
台所の音がある。
包丁の音。
水の音。
鍋の音。
生きている音。
桜がふと尋ねた。
「先輩」
「うん?」
「姉さんから連絡、ありましたか?」
「ああ。今朝来た」
士郎は少し考えてから言った。
「食事と睡眠を取れって、エルメロイⅡ世に言われたらしい」
桜は目を瞬かせ、それから小さく笑った。
「姉さん、いろんな人に同じことを言われていますね」
「本人は不満そうだった」
「でも、ちゃんと聞いてくれるといいですね」
「遠坂だからな。文句言いながらやるだろ」
桜は頷いた。
「はい。姉さんは、そういう人です」
その声は、少し柔らかかった。
以前、桜が凛の話をする時には、もっと複雑な色があった。
憧れ。
寂しさ。
痛み。
遠さ。
今も、それが全部消えたわけではない。
けれど、そこに小さな信頼が混じり始めていた。
士郎はそれを嬉しく思った。
「桜」
「はい」
「遠坂が帰ってきたら、何作る?」
桜は少し考えた。
「姉さんの好きなものを作りたいです」
「辛いやつか」
「はい。でも、辛すぎると藤村先生が食べられません」
「じゃあ二種類作るか」
「そうですね」
桜は微笑む。
「帰ってくる日の献立を考えておきます」
帰ってくる日。
それがいつかは分からない。
けれど、献立を考えることはできる。
それは未来へ小さな席を用意することだった。
◆
その夜、士郎は凛へ報告を送った。
『橋の下で妙な音を聞いた。声みたいなもの。買い物袋の卵に一瞬だけ白い線が走った。今は異常なし。記録だけしておく。』
送信してから、少しして返信が来た。
『卵?』
士郎は画面を見て、思わず笑った。
そこか。
すぐに二通目が来る。
『冗談じゃなくて、詳細を送って。場所、時間、天候、周辺の霊脈地点。あと卵は捨てずに保管。絶対に食べないこと。』
士郎は台所を見た。
卵はすでに冷蔵庫に入れてある。
食べるつもりだった。
危なかった。
『分かった。食べない』
すぐに返信。
『本当に?』
『本当』
『士郎の場合、うっかり使いそうだから紙貼っておきなさい』
士郎は少しむっとした。
だが、否定できなかった。
彼は冷蔵庫から卵を取り出し、付箋を貼った。
『使用禁止 遠坂案件』
それを写真に撮って送る。
数秒後、凛から返信が来た。
『よし』
士郎は苦笑した。
たったそれだけのやり取りなのに、少し安心する。
遠くにいても、凛は冬木を見ている。
そして、自分たちも凛へ報告できる。
一人ではない。
士郎はそのことを、少しだけ実感した。
◆
時計塔の夜。
凛は士郎から送られてきた写真を見て、思わず額を押さえた。
冷蔵庫の中の卵パック。
そこに貼られた付箋。
『使用禁止 遠坂案件』
「何よ、遠坂案件って」
呆れながらも、口元が緩んでしまう。
凛はすぐに表情を引き締め、士郎からの報告を資料へ転記した。
天候。
時間。
場所。
現象。
対象物。
卵に現れた白い線。
普通なら笑い飛ばすような話だ。
だが、凛は笑わなかった。
白い線。
橋の下。
雨。
声のような音。
一瞬だけ走った術式反応。
それは小さすぎる。
小さすぎて、ほとんど意味を持たない。
だが、凛の直感は告げている。
これは記録しておくべきだ。
彼女は別の資料を開く。
冬木の霊脈図。
士郎が報告した地点に印をつける。
港湾区に近い川の流れ。
以前から違和感のあった場所へ、細く繋がっている。
凛は目を細めた。
「……流れてる?」
何が。
どこから。
どこへ。
まだ分からない。
分からないが、確かに何かの流れがある。
凛はペンを置き、椅子に背を預けた。
窓の外は、ロンドンの夜。
冬木とは違う雨が降っている。
遠い。
けれど、完全に切れてはいない。
士郎からの報告。
桜から届いた短い近況。
藤村先生が勝手に撮った夕食の写真。
冬木の霊脈図。
それらが、凛を冬木へ繋いでいた。
「五年」
凛は呟いた。
何となく出た言葉だった。
五年あれば、人は変わる。
魔術師としても。
人間としても。
姉としても。
管理者としても。
そして冬木も、きっと変わる。
良くも悪くも。
凛は机に向き直り、新しいノートを開いた。
表紙に書く。
『冬木霊脈異常記録 一年目』
少し迷ってから、その下に小さく追記した。
『共同管理用』
自分一人の記録ではない。
士郎がいる。
桜がいる。
必要なら、いつか誰かに渡すこともあるかもしれない。
凛はペンを走らせた。
今日の異常は、小さな白い線。
意味はまだ分からない。
だが、忘れない。
記録する。
ただし、閉じ込めるためではなく。
いつか理解するために。
◆
数日後。
士郎は学校の帰りに、柳洞寺へ寄った。
特別な用事があったわけではない。
凛の手順書には、冬木の霊脈要所を定期的に確認するよう書かれていた。
柳洞寺はその筆頭だった。
石段を登る。
夕方の山は静かだった。
木々の間から差す光が、地面にまだら模様を作っている。
士郎は息を整えながら、境内へ向かった。
表向きは何も変わらない。
古い寺。
掃き清められた境内。
風に揺れる木の葉。
遠くで鳴く鳥。
けれど、魔力の流れを意識すると、やはりこの場所は特別だった。
冬木の霊脈が集まる場所。
聖杯戦争の傷跡が深く残る場所。
士郎は境内の端に立ち、目を閉じた。
構造解析。
石段。
寺。
山。
地下を通る霊脈。
その奥に、ほんのわずかな違和感がある。
眠っているものがある。
だが、それは危険な気配ではない。
むしろ、深く沈んだ音のようだった。
声にならない声。
士郎は眉をひそめる。
最近、こういう感覚が増えている。
橋の下。
土蔵。
柳洞寺。
どれもはっきりした異常ではない。
けれど、同じ種類の何かがある。
誰かが呼んでいるのではない。
まだ呼ぶ前の息。
そういう感じだった。
「……うまく言えないな」
士郎は鞄からメモ帳を取り出す。
凛へ報告するために、感じたことを書く。
『柳洞寺。地下に沈んだ音のようなもの。声ではない。危険な感じは薄い。ただ、眠っているものがある気がする。』
書いてから、自分で読み返す。
「遠坂に怒られそうだな、これ」
曖昧すぎる。
だが、嘘を書くよりはいい。
メモ帳をしまおうとした時、境内の隅で白い花が揺れているのが見えた。
小さな花だった。
名前は分からない。
普通の花だ。
たぶん。
士郎はしばらくその花を見ていた。
風が吹き、花が揺れる。
それだけ。
それだけなのに、なぜか胸の奥がざわついた。
士郎は花には触れなかった。
ただ、見たことだけをメモに書き足した。
『境内に白い花。普通の花に見える。念のため記録。』
今度こそメモを閉じる。
空は夕焼けに変わり始めていた。
士郎は柳洞寺を後にした。
その背後で、白い花がもう一度だけ揺れた。
誰にも聞こえないほど小さく。
◆
さらに数週間が過ぎた。
凛は時計塔で忙しくなり、士郎は冬木で忙しくなった。
二人の連絡は途切れなかった。
毎日ではない。
けれど、数日に一度は必ず何かが届く。
士郎からは、冬木の霊脈記録と、夕食の写真と、時々理解不能な質問。
『魔術式の位相って、味噌汁で例えるとどういうことだ?』
凛はその文を見て、しばらく頭を抱えた。
それでも、返信した。
『味噌汁で例えるな。けど無理やり言うなら、味噌と出汁の混ざり方じゃなくて、鍋そのものの置き方がズレてる感じ。』
数分後、士郎から返信。
『少し分かった』
凛は思った。
本当に分かったのかしら。
桜からは、穏やかな近況が届いた。
学校のこと。
料理のこと。
藤村先生がまた騒いだこと。
士郎が手順書を読みながら寝落ちしたこと。
凛はそれを読んで、少し笑った。
遠く離れていても、冬木は動いている。
変わらないようで、少しずつ変わっている。
そして凛自身も、時計塔で変わっていった。
講義で上位を取り、研究で注目され、時には面倒な派閥争いに巻き込まれた。
遠坂の名前を値踏みする者もいた。
第五次聖杯戦争のことを探ろうとする者もいた。
凛はそのたびに笑顔でかわし、必要なら真正面から叩き返した。
彼女は強くなった。
けれど、強くなることと、一人でいることは同じではない。
そのことを、凛は冬木を離れてから少しずつ学んでいた。
◆
一年目の夏が来た。
冬木では蝉が鳴き、衛宮邸の縁側には風鈴が吊るされた。
士郎は大河に頼まれて、風鈴の位置を直していた。
「もうちょい右!」
「こっちか?」
「行きすぎ! 左!」
「さっき右って言っただろ」
「女心と風鈴の位置は変わりやすいのだよ」
「適当すぎる」
桜は縁側で麦茶を用意しながら笑っていた。
平和な午後だった。
暑くて、騒がしくて、少し眩しい。
士郎は風鈴を結び直し、縁側へ降りる。
風が吹いた。
ちりん。
小さな音が鳴る。
士郎はその音を聞いて、なぜか一瞬だけ動きを止めた。
「先輩?」
桜が声をかける。
士郎はすぐに笑った。
「いや、いい音だなって思って」
「そうですね」
風鈴がもう一度鳴る。
ちりん。
ただの夏の音。
ただの風鈴。
けれど、その音は士郎の胸に妙に残った。
どこか遠くで、いつか聞くことになる音のように。
彼はその感覚を、まだ言葉にできなかった。
ただ、忘れないようにした。
◆
同じ夏。
時計塔の寮で、凛は冬木から届いた写真を見ていた。
縁側の風鈴。
麦茶。
大河の雑なピース。
桜の控えめな笑顔。
そして、士郎が撮ったせいで少し傾いた構図。
凛は思わず笑った。
「写真下手ね、あいつ」
しかし、その写真の片隅に、凛は妙なものを見つけた。
風鈴の奥。
庭の影。
そこに、白い小さな光が写っている。
反射かもしれない。
レンズのゴミかもしれない。
普通なら、そう片付ける。
だが、凛はすぐに写真を拡大した。
白い光は、花のようにも見えた。
柳洞寺で士郎が報告した白い花。
橋の下で卵に走った白い線。
凛はノートを開き、日付を確認する。
偶然。
そう考えるのが自然だ。
だが、偶然が三つ続けば、魔術師はそれを疑う。
凛はペンを取った。
『冬木霊脈異常記録 一年目・夏』
そこに書き込む。
白い線。
白い花。
白い光。
いずれも微細。
攻撃性なし。
明確な魔力汚染なし。
共通点不明。
最後に、凛は一文を加えた。
『何かが、まだ形になる前の状態で残っている可能性あり。』
書き終えた後、彼女はしばらくその文を見つめた。
形になる前。
それは、嫌な表現だった。
形になる前なら、まだ止められるかもしれない。
だが同時に、形になる前だからこそ、何であるか分からない。
凛は窓の外を見た。
ロンドンの空は相変わらず曇っている。
遠くの冬木では、今頃風鈴が鳴っているのだろう。
凛は携帯端末を手に取り、士郎へ短く送った。
『風鈴の写真、もう一枚送って。庭全体が写るように』
数分後、返信が来る。
『分かった。何かあったのか?』
凛は少し迷ってから返した。
『まだ分からない。だから調べる』
送信。
すぐに返事。
『分かった。こっちも見ておく』
凛はその文を見て、小さく頷いた。
「そう。見ておいて」
まだ何も始まっていない。
けれど、彼らはもう見落とさないようにしていた。
戦いの後に残った小さな違和感を。
普通の朝に紛れ込んだ白い光を。
いつか大きな問いになるかもしれない、名もない兆しを。
◆
その夜、衛宮士郎は土蔵にいた。
手には凛の手順書。
隣には、最近つけ始めた記録ノート。
今日の項目。
風鈴の音。
庭の写真。
白い光の可能性。
柳洞寺の白い花との関連は不明。
書いていて、自分でも少しおかしくなった。
風鈴や花を魔術的異常として記録する日が来るとは思わなかった。
だが、凛が言った。
小さな違和感でも記録すること。
だから書く。
士郎はペンを置き、土蔵の床を見る。
ここにはまだ何もない。
けれど、五年前の召喚陣を思い出すたびに、彼は思う。
何かが始まる時は、いつも突然だ。
だが、突然に見えるだけで、本当はその前から何かが積み重なっているのかもしれない。
誰かの願い。
誰かの後悔。
誰かの声。
それらが積もって、ある日、形になる。
「……なら」
士郎はノートを閉じた。
「形になる前に、気づけるようにしないとな」
それは、まだ漠然とした決意だった。
誰を救うという大きな言葉ではない。
ただ、見落とさない。
ただ、聞き逃さない。
それだけ。
土蔵の外で、風鈴が鳴った。
ちりん。
夏の夜に、小さな音が残る。
それはまだ、何の意味も持たない音だった。
少なくとも、今は。
けれど士郎は、その音を記憶した。
遠い時計塔では、凛が同じ白い光の記録を残している。
冬木では、桜が明日の朝食の下ごしらえをしている。
大河はきっと何も知らずに眠っている。
街は静かだ。
願いはまだ燃えていない。
ただ、誰かの胸の奥で、消えずに残っているだけだった。
そして一年目の夏。
遠い時計塔と残る家の間に、細い線が引かれた。
それは魔術回路ではない。
契約でもない。
ただ、報告し合うための線。
心配し合うための線。
また明日を繋ぐための線。
いつか大きな夜が来るとしても。
この時の彼らはまだ、それを知らない。
知らないまま、記録を始めていた。
――前日譚 第四話へ続く。