月光が差す部屋。
着心地の悪い簡素な服。
冷たい床。
麻酔跡が痛んでいる。
頭にもやがかかったように、思考が動かない。
遠くから聞こえる貧弱な水泡の音が、居心地の悪さを際立てていた。
ここは見覚えがあるどこか。
奇妙な安心感と閉塞感が与えられている。
いつかここにいたはずだ。
いつか…?
いつ?さあ。
そういえば、何もわからない。
もっと詳細な手がかりが得られないだろうか。
そうだ、自分に問いかけてみよう。
かつてここで何をしていた?
さあ、何だったか。
ここでは誰だった?
誰だっただろう。
なぜ居心地が悪いの?
どうしてだろう。
水泡の音って何の音?
何の音だろう?たぶん、誰かの呼吸の音。
誰かが液体の中に入れられている音。
誰かの悲鳴。
血飛沫。
忘れたの?自分の身代わりになった子のこと。
こんな夢の中にまで引っ張って来るくせに、どうしてのうのうと忘れたままで生きていこうとしているの?
どうしてまだ生きているの?
おまえは死んで償って謝りにいかないといけないんだよ。
早く行けよ
早く行けよ
早く行けよ
早く行けよ
早く行けよ
早く行けよ
「…ッ!」
暖色の月光が部屋を照らしている。
麻酔跡はない。
寒くない。
…ああ、悪夢か。
鈍く、頭が痛い。
…そういえば何の夢を見ていたんだろう、と思考を動かしてみるが当然の様に思い出すことはできなかった。
いつもこうだ。
激しく喉が渇いている。
どこかに水を探しに行こう…として足を動かした。
重い。
重い?
目を凝らして見ると、なぜか布団が掛かっている。
自分で掛けた記憶はない。
というかそもそも、室内に来た記憶もない。
ある記憶は…
ええと、橋の手すりに上って、それで…
ああそうか、車だ。
誘拐…否、保護されたのだっけ。
そうするとここは…どこだ?
ええと、自殺未遂の青年を送るなら病院か?
あれからあまり時間が経っていないとしたら、警察署?
「んん…」
ふと隣から声が聞こえて驚いた。
なんと、こちらに背中を向けている状態でもう一人眠っている。
大柄な体格。柔らかな声色。長い灰白色の髪。
間違いない。自分を保護した人間である。
つまりここは彼の家の、ベッドの上。
なんということだ、
どうやら、本当に誘拐のようだ。
…と一瞬思ったが、手足は拘束されていないし彼と同じベッドの上で寝かされていたのだから本人にその気はないのだろう。
普通であれば交番に届けるところを自宅に連れ去るあたりあまり常識性がないことが窺える。
彼の背中に車の影が映る。
下らないことを考えている間に、朝が来たようだ。
電子の目覚まし時計は6時を指している。
鳴る。
「ピ・ピピ・ピピピ・ピピピピ・ピーーーーーーッ!」
「う…わかったわかった、おきる、おきるから」
彼は呻き声に近い文句を垂らして、目覚まし時計は止められた。
怠そうに起き上がり、そのまま寝巻のボタンに手をかける。
先程までは辺りが暗く分からなかったが、彼の首に跡が残っている。
強く、怨念を込めて、殺してやるという明確な意思を以て着けられたものだ。
…若しかして正の道を歩んでないのではないか?
しかし、いつの間に脱がれた寝巻の下の肌着から刺青は見えない。
そのまま彼はこちら側の脇にあった私服の方に手を伸ばし――
ふと自殺未遂の青年を見た。
彼の三白眼の黒目が心なしか縮んで見える。どうやら全く気付かれていなかったようだ。
気まずい。
「……あぁ、思い出した!昨日はすまなかった。よく眠れたか?」
思い出すのにかなりの時間を要したのは取り敢えずいいとして、もう少し具体的な説明が欲しかった。
「…まあ」
「そうか、それは良かった…自宅に連れてくるのは俺もどうかと思ったんだが、生憎頼れる場所が無かったんだ。ええと、じゃあ両親…とか保護者さんに連絡した方がいい。連絡先は?」
「いない」
「え?」
「いない。」
「…家は?」
「ない。」
「ッスーー…」
彼は頭に手を当てた。
気まずさが加速している。
取り敢えず、服を着てほしい。
「と、とりあえず朝ごはんを…」
「服」
「え?わっ」
慌ただしく服を着て、食卓に座ってもらった。
「これから朝ごはん作るけど、何かアレルギーとか嫌いなものとかあるか?」
「特にない。あっ、砂。」
砂?
砂…肝だ。そう。きっとそうだ。
異食症じゃあるまいし…。
砂肝以外の食べ物。駄目だ、範囲が広すぎて何も思い浮かばない。
「ええと、じゃあ希望は?」
「食べることのできるもの」
…???
一体なんだと思われているんだ?料理下手?
「…わかった」
でき合わせの返事をして、キッチンまで歩いていく。
朝ごはん、何を作ろうか。
あまり元気ではなさそうな感じだ。温かくて、柔らかく、いい感じの栄養がありそうなものがいいだろう。
栄養のある、食べやすい朝ごはん。
パン、シチュー、ヨーグルト。この辺か?
材料を求めて、大きな冷蔵庫を開けた。
今日は外出している悪食の同居人のことを考えて買ったものだ。
花、雑草、砂利、昆ちゅ…陸に生きる節足動物、なめらかなコンクリート、バスボール、プラスチックの破片、ジャガイモ、ニンジン、ホウレンソウ、玉ねぎ、キャベツ、シチューの素、果物入りのヨーグルト。
目に留まるのはこのぐらい。
色々なものをどこからか採ってきて、冷蔵庫に入れられてしまっているので異様なものが多い。
その中から正常な野菜類とシチューの素を取り出す。
ああ、ホウレンソウを使い切るんだな。悪食の同居人に雑草と細かくして混ぜると食べてくれる貴重な食べ物の一つだ。早めに買いに行かなければならない。
材料をまな板に置いて、必要な分まで取り冷蔵庫に戻した。
野菜類を水で洗って、適当な大きさに切っておく。
鍋に水を入れて、いい感じに沸騰させる。
ここまでの長さ、およそ14.33秒。
朝は職業的にあまり時間がないからと、かなり手早く料理をしている。
まあ、今日は休日なので特に意味を成さないが。
沸騰した鍋に丁寧にぶち込む。
コツは水しぶきを上げないように滑り込ませながら入れること。
急ぎすぎて鍋をひっくりかえしたこと・包丁が降ってきたこと・ちょっとした火事になったことが三回ある。
あの時は本当に大変だったな…。
その後シチューの素を適切な速さで開ける。少しビニールが残っているだけでもかなりストレスになる。
しかし、そのままビニールとプラスチックごと入れて所謂『異物混入シチュー・パープル』を作ることもあるので注意が必要。
今回はリクエストが『食べることのできるもの』のため『栄養満点シチュー・ホワイト』を作り上げることになっている。
シチューの素を適切な量入れることができたら、道中でトースターを開けておき、その後パンの袋を開け一枚を優しく素早く取り出してあげる。強すぎてパンが爆散したことがある。
取り出したパンをなりふり構わずトースター目掛けて投げつけ、蓋だけは優しく〆て三分を設定しあとは彼自身に任せる。
冷蔵庫からフルーツヨーグルトを取り出し、棚からお好みの皿を取り出す。
力ずくで開いた容器から皿へと内容物を移し、ひとまず一品完成。
シチューのところに戻り、弱火で15分のところを強火で5分、腕を長縄並に動かしながら煮る。
合間に皿の用意・パンの取出し・デザートスプーンを忘れずに。
最後に皿にシチューを乗せ、別皿にパンを移したら『栄養満点・効率重視・母親ノ味シチュー・ホワイト』の出来上がりだ。
「お待たせ、こちらが完成品となっております」
「待つ暇もなかった」
「光栄」
青年の前にモーニングセットを置く。
その後完璧な腰回りで自分の椅子を引き、座る。
気分は忙しいホテルの人気があるメイド。
「いただきます」
如何なる食事に対する敬意は美しいトッピングになるらしい。
…しかし、ちゃんとしたご飯を誰かに食べてもらうことはなかなか希少なことだ。少し恥ずかしい。
「食べられるか?」
そう聞くと、彼はヘドバンをするかの如く首を縦に振った。
元気は有り余っていたようだ。激しい。
自分の作った料理がいい速度で消えていく。
…そういえば、自己紹介をしてないな。
「あの…
俺はあかひと。ええっと、鳩田辺紅人で、ハタベアカヒトだ。そっちは?」
「ふぁう」
「え?」
「ん…ハル。」
肩まで伸びた花緑青色と言い、可憐な青年だなあ。
いや、可憐と言うより、溢れ出る己の母性フィルターかもしれない。
「そうか、よろしく。」
慈愛と愛想に満ちた返事をする。
今日は良い一日を過ごせそうだ。
…いや、ホウレンソウを買いに外に出なければならない。
この町は治安が悪いから、できるだけ外出は避けたいというどうしようもない思想を抱えている。
しかし、悪食の同居人は何と言えばいいか…放っておけないのだ。
治安が悪いと言って、そこら中爆発が起きるわけではない。
自分もボヤなどを起こすあたり治安の悪さ…生命保障度の低さ?に加担しているところはある。だからと言って何かあるわけではないが。あるか。
そういう話ではない。兎に角、行くしかない。
しかしここに一人ハルを置いていくのは不安だ。
連れて行くか?
否、そもそも家がなかった子だ。そんなことには慣れきっているだろう。きっと。
そう意を決して口を開く。
「ハル、突然ですまないが今日は一緒に買い物へ行こう。んーと、野菜を使い切ってしまったから。」
「ん」
コメント
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書き方凄い上手いですねっ!