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東京の片隅にある、築年数の古いけれど日当たりの良いアパート。窓からは、賑やかな生活の音が聞こえてくる。リビングでは、伊織が慣れた手つきで子供たちの昼食を用意している。彼の髪は短く整えられ、以前の冴えない印象は完全に消え、穏やかで家庭的な雰囲気を纏っていた。「愛ちゃん、航平、手を洗うよ。渚がもうすぐ帰ってくるぞ」
伊織が声をかけると、藤井渚にそっくりな活発な長女、愛(あい)と、伊織の繊細さを引き継いだ長男、航平(こうへい)が、元気よく洗面所へ走っていく。
伊織と渚が東京で暮らし始めてから、すでに数年の月日が流れていた。あの岡山での逃亡、そして中卒でのスタートという困難な道のりは、彼らの絆を何よりも強くした。藤堂蓮の影は、彼らの日常にはもはや存在しない。藤井渚が勝ち取った「自由」という名の世界は、今や彼らの生活の基盤となっている。
日常の穏やかなリズム
ピンポーン、と玄関のチャイムが鳴り、愛が弾んだ声で「ママだ!」と叫んだ。
「ただいま」
藤井渚は、少し疲れた顔で玄関に入ってきたが、伊織と子供たちの顔を見ると、すぐに笑顔になった。彼女は相変わらず後ろ髪の短いセンターパートで、仕事帰りのクールなスーツ姿が、そのボーイッシュな魅力を際立たせていた。
「渚、お疲れ様。すぐご飯にするよ」伊織が優しく声をかける。
「ありがとう、伊織くん。手が荒れてないか、見せて」
渚は、伊織の手を取り、指先をそっと撫でた。伊織は今、小さな花屋で働いている。以前の体力仕事から、心身ともに無理のない仕事を選んだのは、渚の強い希望だった。
「大丈夫だよ。今日は水仕事も少なかったから」
「ふふ、君はすぐに無理するんだから。まあ、それも可愛いけどね」
渚はそう言って、冗談めかして笑った。藤堂が使った「可愛い」という言葉を、渚は遠慮なく使う。しかし、それは伊織を支配するためのものではなく、心からの愛と、対等な関係の中での愛称だった。伊織も、この言葉には何の抵抗も感じていなかった。
自由と役割
彼らの夫婦生活は、一般的な夫婦の役割分担とは少し違っていた。渚は、持ち前の決断力と交渉力で、デザイン事務所の仕事をバリバリこなし、主に家計を支えていた。伊織は、家事と育児、そして子供たちの心のケアを主に担当していた。
夕食後、渚はソファーで子供たちに絵本を読み聞かせる。その力強く、朗々とした声が、アパートの一室に響く。伊織は、そんな渚の姿をキッチンから眺めるのが好きだった。
(あの時、藤堂の愛に縛られていたら、俺はきっと、こうして笑うことすら忘れていた)
伊織の心は、いつも渚への深い感謝で満たされていた。渚は、伊織の繊細な心を守り、彼が最も心地よくいられる「安息の場所」を提供してくれた。
子供たちが寝静まった後、二人はリビングで静かに過ごす。
「愛がね、今日、将来ママみたいに強い人になりたいって言ってたよ」伊織がコーヒーを淹れながら言った。
渚は、伊織からカップを受け取り、柔らかく微笑んだ。
「それは嬉しいな。でも、パパみたいに、優しくて、人を包み込むような強さも、もっと大切だよって教えてあげてね」
渚は、伊織の手に自分の手を重ねた。
「ねえ、伊織くん。君は今、本当に幸せ?」
それは、藤堂の影がちらつく過去を完全に断ち切るための、定期的な確認だった。
「ああ、幸せだよ、渚」
伊織は、渚の瞳をまっすぐに見つめ返した。その瞳には、かつての怯えはもうない。あるのは、愛と信頼だ。
「あの時、岡山で君が私を連れ出してくれなかったら、俺は多分、生きていけなかった。藤堂の愛は、鎖だったけど、渚の愛は、翼だ。俺を、どこまでも自由に羽ばたかせてくれる」
伊織の言葉に、渚は満足そうに目を細めた。
「そっか。良かった。君の翼が、私のそばにいることを選んでくれて。私は、君の自由な場所で、君の人生を支え続けるよ」
二人はそっとキスを交わした。それは、激しい情熱ではなく、長い道のりを共に歩んできた夫婦の、穏やかで確かな愛の誓いだった。
週末。家族四人で近所の公園へ出かける。渚は、伊織と愛、航平の三人が笑い合っている姿を、少し離れた場所から見つめた。
伊織の髪は、太陽の光を浴びてキラキラと輝いている。その傍らには、伊織の「自由」を守り抜いた、強く優しい妻がいる。
藤堂がかつて求めた独占と支配は、彼らを崩壊させようとした。しかし、伊織と渚は、困難を乗り越え、信頼と対等さという、最も強い愛の形で結ばれた。
彼らの愛は、誰かの影に怯えるものではなく、誰にも奪われない、彼ら自身の選択と努力によって勝ち取った、安息の場所だった。伊織と藤井渚の物語は、これからも、穏やかに、そして幸せに続いていく。