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ところが、いつまで経っても痛みがこない。おそるおそるゆっくりと目を開けると、そこにはユリの振り上げた手をしっかりと握り止めている颯斗の姿があった。
「は、はーくん! こ、これはっ、違うの!」
「何が違うんだ? コーヒーをかけた挙げ句に、今度は暴力までふるおうとするなんて……お前はいったい何を考えているんだ?」
「ぐすっ、本当に誤解なの……」
これだけのことをしておいて、どこが誤解だと言うのか。しかも当人はまるで自分が被害者かのように泣きじゃくっている。
「おい! ユリを泣かせたのは誰だ?」
社長室で待っていられなかったのか、花咲社長まで現れて場はさらにややこしくなった。
「花咲社長、本当にご自分の娘が悪くないとお思いですか? コーヒーを浴びせた上に、まともに謝りもしないのに」
「ワザとじゃないし、謝ってただろう」
あれが謝ったうちに入るというのなら、父娘揃って頭がおかしいとしか思えない。
「そうですか。本日は御社の業績不振を少しでも改善するために話し合いに来たのに、こんなことになって非常に残念です」
「はあ? 貴様、俺を脅しているのか?」
冷静な颯斗とは対照的に、社長は顔を真っ赤にして声を荒らげてきた。
「いえ。ただ、正当な判断力をお持ちでないようですので、これ以上の協議は無駄だということです」
「なっ! お前のような若造に、そんな重大な判断などできるものか! 出直してこい! いや、社長である親父を連れて来い」
「社長を連れて来るまでもありません。この程度であれば、私の判断で十分処理できます。御社との取引が切れたとしても、こちらには何の問題もありません」
「なんだと! そんなことは断じて許さん!」
父娘揃ってどうしようもない。これまでは何とかやってこれたのだろうが、先が思いやられる。
「はぁ……そうですか。俺は若造で、意見も合わないようなので、お嬢さんとの結婚話もこの際、諦めていただければと思います」
ここぞとばかりに、相手の言葉尻を利用して断りを入れた。
「そんな! 嫌よ! 私には、はーくんしかいないの」
「ユリ……しかしなぁ。こんな男にユリを任せることはできん」
娘は一歩も引かず、異様な執着心で諦める気配を見せない。本来であれば経営者として、ここは娘のワガママではなく会社の行く末を優先すべきだ。それすらできない時点で、経営者として失格である。コーヒーを浴びて服のまま濡れている美玲は、目の前の茶番がいつ終わるのか冷めた表情で眺めていた。
「とにかく本日はこれで失礼します。もし今後そちらが望まれるのであれば、改めて話し合いに伺いましょう。ただし、その際はユリ抜きでお願いします」
「そんなっ、はーくんひどい! はーくんママに言いつけるから!」
(ママに言うって……この子、一応成人してるのよね? 頭の中は幼稚園児以下じゃない……)
「勝手にしろ! 行くぞ」
「は、はい」
颯斗は後ろを振り返ることなくビルを出て、勢いよく扉を開け車に乗り込んだ。突然の行動に運転手は目を丸くする。続いて美玲も助手席に腰を下ろした。
「嵯峨さん! そのシミは⁉ いったいどうされたんですか?」
「コーヒーをこぼされただけですので大丈夫です。それより、社に戻っていただけますか?」
「ですが……」
「本当に大丈夫ですから」
剛田の心配はありがたいが、専務の表情は険しく、これ以上刺激を与えたくなかった。服が濡れて気持ち悪いのは事実だが、あの父娘の強烈なキャラクターに比べれば、コーヒーなど些細に思える。
ローズガーデンの悪評が誇張ではなく事実だと、身をもって理解できた。
バックミラー越しに後部座席の颯斗の様子をうかがうと、腕を組んで目を閉じ、眉間に深い皺を寄せている。指先でトントンとリズムを刻む仕草からも、苛立ちが募っているのは明らかだった。
会話もない静かな車内で、美玲はパソコンを開き次の予定を確認する。思いがけず早く切り上げることになったため、一時間ほど余裕ができていた。
「専務」
「なんだ?」
美玲の呼びかけに、颯斗は目を閉じたまま答えた。
「この後の予定ですが、オンラインミーティングまでに少し余裕があります」
「ああ」
「ミーティングまでに戻りますので、その間に席を外してもよろしいでしょうか」
「どこへ行くつもりだ?」
まさか初日から堂々とサボると思われているのだろうか。
「服が濡れてしまいましたので、着替えに行こうと思います」
「へ? あ、ああ……そうだったな。すまない」
どうやら颯斗は、美玲がコーヒーを浴びたことをすっかり忘れていたようだ。まあ、あの父娘のインパクトが強すぎて無理もない。
車が本社のエントランスに到着し、美玲が後部座席を開けると、颯斗は無言で降り社内へと戻っていった。その背中を見送りながら、美玲はスマホを取り出した。
「もしもし! お嬢様! ご無事ですか?」
「京也、落ち着いて。私は大丈夫よ。それよりスーツは?」
「はい。すでに準備を整えて、そちらへ向かっております」
電話の相手は、嵯峨野家で美玲の執事兼秘書を務める遠山京也だった。美玲からのメールを受け取り、急いでサクライウエディングの方へ向かっている。
「サクライウエディングを過ぎた公園の駐車場で待っていて」
「畏まりました」
しばらくすると、真っ白な高級ワンボックスカーが滑り込むように駐車場へ入ってきた。
「お嬢様! お待たせいたしました! って……なんてひどい!」
「京也、しっ! 今はサクライウエディングの専務秘書なのよ。“お嬢様”は禁止。誰かに見られたら困るでしょ」
「そ、それは……」
「それより急いでるの」
そう言って後部座席に乗り込み、用意されていたスーツに素早く着替える。嵯峨野家の車は、車内で着替えやすいようにとワンボックス仕様で手配されていた。さすが敏腕秘書、抜かりはない。
「じゃあ、私は行くわね」
「お嬢様、本当に大丈夫ですか? 初日からこんな調子で……」
「大丈夫だから! じゃあね!」
美玲は公園の駐車場からサクライウエディングに向かって駆けていった。
「何? あの女……絶対に許さない! 海斗! ちゃんと写真は撮ったでしょうね?」
「ああ、もちろん。これは面白くなりそうだ」
その一部始終を、こっそりと見張っている者たちがいたのだ。
コメント
3件
うわ〜←何回目? 海斗って異母兄弟だったよね? 相手はユリだね。 性悪コンビかなりヤバそう💦 美玲ちゃん!気を付けて!