テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
――コンコン
「失礼します。ただ今、戻りました」
「ああ」
美玲が専務室へ戻ると、颯斗は書類に目を通しており、視線を上げることもなく返事だけを返してきた。その素っ気ない態度にも慣れきっている美玲は、気にも留めずに自分の机へ腰を下ろし、淡々と仕事を始める。室内には、時折書類をめくる音とキーボードを叩く軽快な音だけが響いていた。
余計な会話は一切なく、すぐ近くにいるのにやり取りはメールやチャット上のみ――しかし二人にとっては、それがむしろ心地よい距離感だった。
そこへ――
――コンコン
「はい」
専務室の扉をノックする音が響いた。スケジュールには来客の予定はなく、美玲は不思議に思いながら席を立ち、扉を静かに開ける。そこに立っていたのは、専務よりやや年下に見える男性だった。
「あの……どちら様でしょうか」
「俺のことを知らないなんて、秘書として失格だな」
初対面の美玲を頭から足元まで遠慮なく値踏みするように眺め、鼻で笑うように「ふ〜ん」と吐き捨てる態度。だが、その失礼さに美玲はすぐある人物を思い当たった。
「専務、弟の海斗さんがお越しです」
「はあ? どうして……わかったんだ?」
「海斗? 何の用だ?」
海斗は素性を見抜かれたことに驚きの声を上げ、颯斗は滅多に姿を見せない弟の訪問に訝しげな表情を浮かべた。美玲は海斗の疑問を無視する。理由を説明すれば悪口になってしまうからだ。
「いや、その……兄貴の秘書が代わったって聞いたから、顔を見に」
「それでわざわざ?」
「えっと、まあ」
落ち着きのない挙動は、他に目的があると示しているようなものだ。ごまかすかのようにずかずかと室内に入り、ソファへドスンと腰を下ろすと、視線を泳がせながら探るようにキョロキョロしている。美玲は無言でその様子を観察していた。
「お前、勤務中だろう? 堂々とサボっていいのか」
「俺だって櫻井家の人間なのに、兄貴と違って個室すら与えられてない。差別だろ」
「それは俺じゃなく、親父に言え」
「チッ……」
まだ学生気分の抜けない態度では、とても役職など任せられるはずがない。他の社員への示しもつかないだろう。美玲は、先ほどのユリの非常識な振る舞いを思い出し、思わず苦笑した。むしろ海斗とユリが一緒になった方が平和になるのでは――そんな考えまで浮かぶ。
「ほら、仕事の邪魔だ。他に用がないなら出て行け」
「はいはい。はぁ……俺は前の色っぽい秘書の方が好みだったけどな」
「ご期待に添えず申し訳ありません」
海斗の軽薄な言葉にも美玲は動じず、専務室の扉を開いて退出を促す。
「君も、仕事中に男と密会なんてしてないで働けよ。俺、口が軽いからついしゃべっちゃうかもなぁ〜」
そう囁き、美玲の耳元へ唇を寄せて不穏な一言を残し、海斗は去って行った。
――まさか、公園で京也と会っていたところを見られていたなんて。今後はもっと慎重にならなければならない。それにしても、海斗の本当の目的は何だったのだろう。脅すためだけに来たのか……どこか違和感が拭えなかった。
海斗が去った室内には再び静寂が訪れ、カタカタとキーボードを打つ音だけが響く。
***
「ねぇ、何か聞こえてる? 私には何も聞こえないんだけど!」
「いや……」
専務室を後にした海斗は、公園に停めていたユリの車へ戻っていた。二人はイヤホンを片方ずつはめ、受信機に耳を傾けている。
「貸して!」
ユリが海斗の手から受信機を奪い取り、角度を変えて操作する。海斗が専務室を訪ねた本当の理由は、秘書の顔を見るためではなく、ユリの指示で盗聴器を仕掛けるためだったのだ。
『カタカタ……カタカタカタ』
一定のリズムで響くキーボードの音だけが微かに拾われる。
『カタカタ……ガサッ、ガン……』
必死に耳を澄ませていた二人の鼓膜に、突然の衝撃音が響き、そのまま音が途切れた。
「海斗! あんた、こんな簡単に見つかる場所に隠してきたの?」
「な訳ないだろ……どうして……」
美玲をただの地味な秘書だと思っていた二人の完全な誤算。ユリは悔しげに唇を噛み、次の策を考え始めていた。
***
海斗が去った後、美玲はしばらくパソコンを操作していたが、やがて立ち上がった。その動きに気づいた颯斗が視線を向けると、美玲は言葉を発する前に人差し指を口元へ当て、『シッ』と合図した。颯斗が微かに頷いたのを確認して、美玲はソファへと歩み寄る。
海斗が腰を下ろしていたあたりを念入りに探る美玲。颯斗はその意図が分からず、ただ黙って見守っていた。やがて彼女は黒い四角い物体を発見する。思わず声が漏れそうになった颯斗だったが、慌てて両手で口を塞ぎ、何とか堪えた。
美玲はそれを床にそっと置き直すと――
――バキッ
思いきりヒールで踏み潰した。
「……」
「失礼いたしました」
颯斗の驚きをよそに、美玲は粉々になった盗聴器を拾い集め、無表情のままゴミ箱へ捨てる。
「ぶはっ……ククククッ」
あまりの大胆さに、颯斗はこらえきれず声を上げて笑った。父の推薦で来た秘書、ただ者ではないと思っていたが――コーヒーを浴びても動じず、平然と盗聴器を粉砕するとは。
笑い続ける颯斗をよそに、美玲は表情一つ変えず再びパソコンへ向かう。
(嵯峨美玲……地味で最悪だと思ったが、これは面白い。冷たい態度に――ゾクゾクする)
最悪の第一印象だったはずなのに、わずか一日足らずで颯斗の興味を引いてしまった。
寒くもないのに、背筋をゾクリと走った感覚に美玲は小さく身を震わせる。しかしその理由に、彼女はまだ気づいていなかった。
コメント
1件
美玲ちゃんはーくんに😆気に入られちゃったよ! にしてもあのおバかコンビやることが…もうもう😮💨でもこうゆうのに限って見境ないから怖いよ😰